3話 声だけで繋がる距離
夜、部屋の電気を消したまま、ベッドの上で天井を見ていた。
何かを考えていたわけじゃない。ただ、昼に浴びた音と色が、まだ体の奥に残っている感じがして、目を閉じるのが少し怖かった。
スマホが震える。
画面には、見慣れた名前。
通話。
私は一瞬迷ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あー、出た。今大丈夫?』
「うん。大丈夫」
本当に大丈夫かどうかは分からない。でも、この人に対しては、そう答える癖がついている。
『今日ジム行った?』
「行った。上半身」
『マジ? 俺、脚やって死んでる』
電話の向こうで、少し笑う気配がした。
この人は、私が一年前に倒れたことも、そのあと入院したことも、全部知っている。でも、そういう話を自分から振ってくることはない。
「最近、何やってるの?」
『相変わらずだよ。仕事して、ジム行って、彼女と飯食って』
「平和だね」
『平和だけど、平和すぎて不安になる時ない?』
「ある」
即答すると、向こうが少し黙った。
『……まあ、あるよな』
それ以上は掘らない。
この距離感が、ちょうどいい。
「今日さ、市内行ってきた」
『うわ、人多かったでしょ』
「うん。色が多すぎて、ちょっとしんどかった」
『あー……』
それだけで、分かってくれる。
説明しなくていいのが、ありがたい。
「結局さ、吸っちゃった」
『タバコ?』
「うん」
『まあ……たまにはな』
許可でも、肯定でもない。
ただの事実として受け取る感じ。
『俺も今日一本だけ』
「彼女に怒られない?」
『バレなきゃセーフ』
そう言って、向こうでライターの音がした気がした。
私も無意識に、机の上の箱を見る。
「今度さ、一緒に吸わない?」
『いいよ。久しぶりだな』
電話の向こうで、また少し笑った。
数日後、ジムの帰りに落ち合った。
夜風が少し冷たくて、ちょうどいい。
並んで歩いて、人気の少ない場所で立ち止まる。
「あ」
同時に声が出て、少し笑った。
「火、ある?」
『ある』
火を分けてもらう。
煙を吸い込んだ瞬間、少しむせた。
「久しぶりだと、くるね」
『だろ』
ゆっくり息を吐くと、頭の奥がじんわりする。
昼間あれだけざわついていた感覚が、少し遠のいた。
『最近、どう?』
「……まあまあ」
『まあまあって、まあまあだよな』
「うん」
沈黙。
でも、気まずくはない。
『俺さ、彼女と将来の話しててさ』
「へえ」
『正直、分かんないんだよな。ちゃんとできてるのか』
私は灰皿に灰を落とす。
「悩んでる時点で、ちゃんとしてるんじゃない?」
『そういうもん?』
「少なくとも、何も考えてない人よりは」
『……それ、重いな』
「ごめん」
『いや、悪くない』
タバコが短くなっていく。
時間が、ちゃんと終わりに向かっている感じがする。
「私さ」
『ん?』
「親しい人、いないと思ってた」
彼はすぐには返事をしなかった。
一口吸って、煙を吐いてから言う。
『今それ言う?』
少し笑っている。
「……うん」
『じゃあ、俺は何?』
「分かんない」
『ひど』
でも声は、優しい。
『まあ、名前つけなくていいんじゃない?』
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
タバコを消す。
夜は静かで、風が少し強くなっていた。
「また電話していい?」
『いいよ。用なくても』
「うん」
それだけで、十分だった。
家に帰る道、私は少しだけ軽かった。
誰かに救われたわけじゃない。
何かが解決したわけでもない。
ただ、声があって、隣に誰かがいた。
それだけで、生きていける夜もある。




