2話 街に出る日
市内に出る日は、少しだけ準備がいる。
時間に余裕を持つこと。
イヤホンを忘れないこと。
できれば、帰り道をあらかじめ決めておくこと。
それでも、準備が役に立たない日がある。
今日は、そういう日だった。
駅を出た瞬間、音が押し寄せてくる。
誰かの笑い声。
電話越しの大きな声。
電車のアナウンスが、まだ耳に残っている。
私は一度、立ち止まる。
深呼吸をしようとして、うまくいかない。
歩き出すと、今度は人の流れに巻き込まれる。
視界の端で、看板が光る。
赤と黄色がやけに多い。
前から来た人と、肩がぶつかる。
「あ」
短い声が出る。
相手も小さく「あ、すみません」と言う。
「……いえ」
反射的に返した声は、自分でも驚くほど小さかった。
私は歩く速度を少し上げる。
人の少ない場所を探すように、無意識に。
大型スーパーの入口が見えて、少し迷う。
入らなければよかったかもしれない、と思う。
でも、ここまで来て引き返すのも、しんどい。
自動ドアが開いた瞬間、光が変わる。
明るすぎる。
白い。
音が、反響する。
安い。特売。限定。
文字が、色つきで叫んでいる。
カゴを手に取る。
それだけで、もう少し疲れる。
通路が狭い。
人が多い。
カートの音が、一定のリズムで響く。
後ろから、また軽くぶつかられる。
「あっ」
今度は、はっきり声が出る。
「すみません」
「……大丈夫です」
何が大丈夫なのかは、分からない。
頭の中が、忙しい。
次に買うものを考えようとすると、別の音が割り込んでくる。
色が多すぎて、視線が落ち着かない。
胸の奥が、ざわざわする。
この感じは、覚えている。
一年前ほどではないけれど、似ている。
私は足を止める。
カゴを持ったまま、通路の端に寄る。
今は幻聴はない。
今は、誰の声も聞こえていない。
頭の中で、確認する。
それでも、しんどい。
予定より早く、会計に向かう。
買い物は、最低限でいい。
レジの列に並ぶ。
前の人が、ポイントカードを探している。
その数十秒が、やけに長く感じる。
外に出た瞬間、少しだけ楽になる。
でも、完全ではない。
私は近くのベンチを見つけて、腰を下ろす。
カゴはもうない。
それでも、身体は落ち着かない。
そのとき、ふと、思う。
タバコ。
欲しい、というより、思い出す。
あの数分間。
世界が少し遠くなる感じ。
私はポケットを探る。
何もない。
禁煙しているのだから、当たり前だ。
頭の中で、考えが二つに分かれる。
――ここまで我慢したんだから。
――一本くらいで、何かが壊れる?
――医者に言われたでしょ。
――「ほどほど」って言葉も、あった。
私はベンチに座ったまま、しばらく動かない。
立ち上がらなければ、買いに行かずに済む。
でも、コンビニの看板が、視界に入る。
青と白の光。
立ち上がる理由としては、十分だった。
コンビニに入ると、音がまた増える。
入店音。
レジの電子音。
冷蔵庫の低い唸り。
私は飲み物コーナーを一度通り過ぎて、戻る。
無駄な動きだと分かっている。
タバコの棚は、レジの奥にある。
番号と名前だけが並んでいる。
久しぶりすぎて、少し迷う。
迷っている時間が長くなると、やめてしまいそうだった。
「……これ、ください」
声が少し掠れる。
店員は何も言わずに、タバコを取る。
「袋、いりますか?」
「……大丈夫です」
支払いを済ませて、店を出る。
袋に入っていない箱の感触が、やけに生々しい。
人の少ない場所を探して、少し歩く。
壁にもたれて、ライターを出す。
火をつける。
一口目。
強い。
思った以上に、きつい。
頭が、ふっと軽くなる。
同時に、少しフラフラする。
「……」
声にならない音が出て、私は小さくむせる。
喉が、久しぶりの刺激に驚いている。
それでも、数秒後、気づく。
さっきまでのざわざわが、遠くなっている。
音が、少し小さくなる。
色が、少し落ち着く。
世界との距離が、ちょうどよくなる。
私はゆっくり煙を吐く。
罪悪感は、確かにある。
後悔も、ある。
でも、それ以上に、今は静かだ。
一本吸い終わる頃には、フラフラも収まっていた。
身体が、ちゃんとここに戻ってくる。
吸い殻を捨てて、しばらくその場に立つ。
次のことは、考えない。
私は今日、タバコを吸った。
それだけの事実。
誰もが何かを抱えて生きている、という言葉が頭をよぎる。
私はそれに、やっぱり同調しない。
今日は、こういう日だった。
街は、相変わらず騒がしい。
でも、さっきよりは歩ける。
私は、人の流れに戻っていく。




