1話 注射の日
私のことを説明するのは、少し面倒だ。
理由は単純で、説明すればするほど、私は「何者か」になってしまうからだ。
二十八歳。女。
都内で事務の仕事をしている。週四日勤務。残業はほとんどない。
一人暮らしで、特別に親しい人はいない。
一年前、私は統合失調症を患った。
その頃のことを、今でも全部説明できるわけではない。
幻聴があった。
誰かが私のことを話している声。
責める声でも、命令する声でもなかった。ただ、常に聞こえていた。
今は、ない。
少なくとも「今、聞こえている」という感覚はない。
それでも、たまに一年前の記憶が、唐突に襲ってくることがある。
音のない場所で、急にあの頃の感覚だけが戻ってくる。
何も起きていないのに、世界が少し歪む。
私はそのたびに、「今は違う」と頭の中で確認する。
確認しないと、過去と現在の境目が曖昧になる。
半年前に急性期は落ち着き、今は「寛解」という扱いになっている。
それでも治療は続いていて、月に一度、私は病院に通う。
エビリファイの持続性注射。
月に一回、それを打つ。
それとは別に、私はADHDの診断も受けている。
集中が続かない。
刺激が多すぎると、処理しきれなくなる。
外を歩いていて、人の会話が重なったり、派手な色や看板を見すぎたりすると、急にしんどくなることがある。
音も光も、全部いっぺんに頭に入ってくる感じ。
そういうとき、私は早足になるか、目線を下げる。
それでどうにかやり過ごす。
これらを並べると、いかにも「問題を抱えた人」みたいに見えるかもしれない。
でも、私は自分のことを、そこまで特別だとは思っていない。
誰もが何かを抱えて生きている、という言葉をよく聞く。
私はそれに同調もしないし、否定もしない。
私は、私の分しか分からない。
それだけだ。
今日は病院の日だった。
月に一度、決まった曜日。
まず医師との面談があり、そのあと注射、最後に看護師との面談がある。
たまに、その合間に血液検査が入る。
今日は検査はなかった。
診察室に呼ばれて、私は椅子に座る。
医師はカルテを見ながら、いつものように言う。
「お変わりないですか?」
私は少しだけ考える。
この質問に、正解はない。
「大きくはないです」
そう答えてから、付け足す。
「幻聴は、今はありません。ただ……」
医師が顔を上げる。
「たまに、一年前の記憶が急に出てくることがあります。
音は聞こえないんですけど、そのときの感覚だけ」
「頻度はどれくらいですか?」
「月に数回くらいです。すぐ戻ります」
医師はメモを取りながら、頷く。
「他には?」
「外で、人の声とか色が多すぎると、しんどくなることがあります」
「以前からありましたか?」
「はい。前よりはマシですけど」
それから、少し言いづらいことを口にする。
「あと、注射のあと、足がむずむずします。
特に夜です」
医師はすぐに理解したように頷いた。
「アカシジアですね。強くは出ていませんか?」
「我慢はできます」
「無理しないでください。ひどくなるようなら調整しましょう」
私は頷く。
このやり取りは、もう何度もしている。
「生活の方はどうですか?」
「仕事には行けています」
「タバコは?」
少しだけ間が空く。
「減らしています」
「ほどほどにね」
注意というより、確認に近い言い方だった。
「じゃあ、注射を打っていきましょう」
私は診察室を出る。
処置室で、エビリファイの注射を打つ。
慣れてはいるけれど、好きにはなれない。
一瞬、鈍い痛み。
それで終わる。
「次は看護面談があります」
看護師にそう言われて、別の部屋に移動する。
「体調はどうですか?」
「大丈夫です」
「睡眠は取れていますか?」
「はい」
形式的な質問が続く。
私はそれに、同じように答える。
看護師は、私の生活に踏み込みすぎない。
それが、少しだけありがたい。
「何かあったら、また相談してくださいね」
私は軽く会釈をして、病院を出る。
外に出ると、空は曇っていた。
病院の前には、いつものコンビニがある。
タバコは健康に悪い。
それは事実だと思う。
私は今、禁煙している。
でも、完全にやめるつもりはない。
タバコは、私にとって悪いものでもあり、助けてくれたものでもある。
そのどちらかに決める気はない。
今日は買わない。
そう思って、コンビニの前を通り過ぎる。
たぶん。
そのままジムへ向かう。
ジムは、刺激が少ない。
やることが決まっていて、余計な会話もない。
バーベルを持ち上げると、頭の中が静かになる。
考えが、重さに変わる。
足のむずむずは、動いている間は気にならない。
身体が疲れると、思考も一緒に黙る。
鏡に映る私は、普通に見える。
健康そうで、どこにでもいそうな女。
それが、少しだけ怖い。
隣には、いつもの男性がいる。
目が合って、軽く会釈をする。
それ以上は、何もない。
帰り道、ポケットの中のライターに触れる。
今日は吸わない。
それは決意でも、努力でもない。
ただ、そういう日だ。
誰もが何かを抱えて生きているらしい。
私はそれに同調しないし、否定もしない。
私は、私の今日を終わらせるだけだ。




