3 魔王城から、ちょっと遠くまで 3
その日の午後、りんの部屋は、いつも以上に賑やかだった。
ベッドの上には、着替えのドレスや下着、厚めのマント、本、お菓子、ぬいぐるみまで、ありとあらゆるものが積み上がっている。
「これと、これと……あ、この本も持っていきたいし、この子も連れていきたいし……」
ネネはその山を見上げて、深くため息をついた。
「お嬢。これ、全部持っていくつもりですよね?」
「うん。ぜんぶ大事だもん」
「物理的に無理です」
即答され、りんは少し考えてから、指先をぱちんと鳴らした。
山になっていた荷物が、ふわりと金色の光に包まれる。
「ぎゅーって小さくなぁれ」
光がしぼんだとき、ベッドの上には、可愛らしいポシェットがひとつだけ残っていた。
「……」
ネネは無言でベッドとポシェットを見比べる。
「全部入ったよ〜。ほら、軽いし」
りんがひょいっと持ち上げると、中身がぎっしり詰まっているはずなのに、まるで空っぽみたいに軽い。
「お嬢。そういう魔法も、人前では絶対にやっちゃダメって、今さっき陛下が……」
「分かってるってば。これは“旅の準備”だから。王都に着いたら、ちゃんと控えめモードにするもん」
ネネは額に手を当てた。
控えめモードでこれなら、全力モードを考えたくない。
「……せめて髪だけは、きちんとしておきましょう」
ネネは後ろに回り、りんのローツインテールを整え始めた。
「ありがと、ネネ」
「いいえ。お嬢がどこへ行っても、“魔王の娘”として胸を張れるようにするのが、わたしの役目ですから」
◇
城の正門前には、黒塗りの馬車が一台、静かに待っていた。
車体には魔法陣が刻まれ、強化された車輪と、魔界産の大きな馬が二頭。普通の馬車よりずっと頑丈で、速くて、揺れも少ない特別仕様だ。
門の前には、見送りの魔族たちがずらりと並んでいた。角のある者も、翼を持つ者も、それぞれがりんに小さな包みやお守りを差し出してくる。
「お嬢、これ、旅の安全を祈ったお守りです」
「こっちは、保存のきく干し肉で……」
「甘い物もないと、お疲れになりますからねぇ」
りんは両手いっぱいにそれを受け取り、ぱっと笑った。
「ありがとう! ちゃんと大事にするね。……あ、しまった、荷物また増えちゃった」
「お嬢」
ネネがじとっとした目を向ける。
りんは「えへへ」と笑って、また指先をぱちんと鳴らした。
贈り物の山がふわっと光り、ポシェットの中へと吸い込まれていく。
見送りの魔族たちは、もうツッコむことを諦めたように、小声でざわめいた。
「さすがお嬢……」
「うちの世界、あの方にだいぶ支えられてません……?」
少し離れたところで見ていた魔王は、静かにため息をついた。
「……りん」
その声に振り向いたりんは、ぱっと笑顔になって駆け寄る。
「パパ!」
魔王はしゃがみ、りんの頭にそっと手を置いた。
「楽しんでこい。ただし、気をつけろ」
「うん。ちゃんと見るよ。ちゃんと見て、ちゃんと帰ってくる」
「何かあれば、すぐ戻れ。おまえの力なら、それもできるはずだ」
「うん」
りんは真剣な顔で頷いた。
ネネも一歩前に出て、深く頭を下げる。
「陛下。お嬢は、このネネが必ずお守りします」
「頼んだぞ」
短い言葉に、たくさんの信頼が込められていた。
りんは馬車の扉に手をかける前に、一度だけ振り返る。
黒い城の塔、見送りの魔族たち、そして魔王パパ。
「行ってきます!」
その一声に、「いってらっしゃい」の声が重なった。
りんとネネが馬車に乗り込むと、御者が手綱を軽く引く。
車輪が転がり始め、城門がゆっくりと開いていく。
りんは窓から外を覗き込みながら、胸の奥をそっと押さえた。
「人間の王都って、どんな匂いがするんだろう」
誰にも聞こえないくらい小さな声でつぶやく。
「どんな声がして、どんな空が広がってるんだろう」
ネネはその横顔を見ながら、尻尾をふわりと揺らした。
「お嬢。……どうか、できるだけ、おとなしくしていてくださいね」
「む〜。ネネは心配しすぎだよ。りん、ちゃんと“控えめモード”でがんばるもん」
その言葉に、どれだけの説得力があるのか。
ネネはあえて何も言わず、小さく笑った。
馬車は門を抜け、魔王城をあとにする。
見慣れた黒い城が少しずつ遠ざかり、やがて視界から消えていった。
こうして、魔界で守られてきたりんの世界は、少しだけ広がり始めた。
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