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魔王の娘  作者: 星空りん
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37 影に潜む者 4

 夜が明けても、星灯りの宿はすぐには“いつも”に戻らなかった。


 旅人の笑い声はある。

 パンの匂いもある。

 でも、それらはどこか薄くて、慎重で――音を立てないようにしている。


 柱の裏に残った印は、拭っても消えない。


 線が三本。

 丸がひとつ。

 短い線が一本。


 りんは朝の光の中で、それを見上げていた。


 (置いていった)


 わざわざ。


 “ここまで来た”と知らせるみたいに。



 宿主が水桶を片付けながら、りんに頭を下げた。


 「昨夜は……本当にありがとうございました。おかげで、誰も――」


 言葉がそこで途切れる。


 “燃えなかった”という言葉を、口にするのが怖いみたいに。


 りんは慌てて首を振った。


 「ううん。りんは、ただ……」


 ただ、助けたかっただけ。


 でも、それを言うとまた“聖女”って言われそうで、言葉が落ちる。


 ネネが横から自然に入った。


 「お気になさらず。今は、火の始末を優先してください。印のことも、こちらで確認しますので」


 宿主は何度も頷いて、仕事に戻っていった。



 蓮が柱の印を見て、短く息を吐いた。


 「試し撃ち、だな」


 ライラが肩をすくめる。


 「うん。こちらの反応を見ただけ。数も火も、控えめだった」


 ガルドが舌打ちした。


 「ムカつくやり方しやがる」


 フィオは指先で印をなぞり、布に写し取っていく。


 「線が増えてる。……階層が一段上がった」


 ネネが低く言った。


 「近いですね」


 りんはその会話を聞きながら、胸の奥が冷えるのを感じた。


 近い。


 ここまで来る。


 次は――どこだろう。


◇ ◇ ◇


 蓮が宿の外へ出て、街道の方角を見た。


 「守るだけじゃ、追いつかない」


 言い方は静かだった。


 でも、内容は決まっている。


 「次の煙を待つんじゃなく、線を切る」


 ガルドが眉を上げる。


 「線?」


 「合図と道と補給」


 フィオが淡々と続ける。


 「相手は“道”を作ってる。命令が通る道。火が運ばれる道」


 ライラが頷いた。


 「だから、道を壊す」


 りんは言葉を飲み込んだ。


 “道を壊す”って、なんだろう。


 助けるのは分かる。

 治すのも分かる。


 でも、壊すのは――


 ネネが、りんの耳元で小さく言った。


 「お嬢。守るために“止める”こともあります」


 りんは小さく頷いた。


 「……うん」


 まだちゃんと分からない。


 でも、“守るため”なら。


◇ ◇ ◇


 森へ向かう道は、昨夜より明るいはずだった。


 なのに、りんの胸の中は、昨夜より重い。


 星灯りの宿が燃えなかった。


 その事実が嬉しいはずなのに、印が残っているせいで、ずっと肩がこわばっている。


 (次は、燃えるかもしれない)


 そう思うだけで、喉が乾く。



 森の入口に入る前に、フィオが足を止めた。


 杖の先を地面に当て、目を閉じる。


 ほんの数拍。


 「……道がある」


 蓮が頷く。


 「追う」


 ライラが木の枝の折れ方を見て、息を吐いた。


 「印、残ってる。分かりやすい」


 ネネが静かに言う。


 「わざとです。ここを通れ、と言っています」


 ガルドが歯を鳴らした。


 「ほんと、ムカつくな」


◇ ◇ ◇


 森の中を少し進むと、不自然に踏み固められた細道が現れた。


 獣道よりまっすぐで、迷いがない。


 ところどころに、折られた枝。


 木の幹には、爪で引っ掻いたような線。


 「……こういうの、全部“道”なんだ」


 りんが呟くと、フィオが小さく頷いた。


 「そう。低位の群れでも、迷わないように」


 蓮は短く言った。


 「つまり、教えたやつがいる」


 りんの胸がきゅっとなる。


 “教える”。


 それは、優しい言葉のはずなのに。



 道の脇に、黒ずんだ布が落ちていた。


 ライラが拾い上げ、指先で確かめる。


 「油」


 ネネが鼻をひくつかせる。


 「ゴブリンではありません。別の魔族の匂いです」


 りんの背筋が冷えた。


 見えない誰かが、ここを通っている。


◇ ◇ ◇


 少し進むと、空気が変わった。


 落ち葉の上に、小さな足跡。


 それが数本、道を横切っている。


 「見張り」


 蓮が低く言った。


 次の瞬間、影が飛び出した。


 ゴブリン。


 数は少ない。三体。


 手には油布。短い槍。


 「通すな!」


 ガルドが盾を前に出し、道を塞ぐ。


 ライラの矢が手元を撃ち抜き、油布が落ちる。


 フィオの術が走り、足を縛る。


 蓮は剣を抜かず、柄で弾き、距離を作る。


 短い。

 速い。

 長引かせない。


 それは、村で学んだ動きだった。



 りんは少し後ろで、息を飲んで見ていた。


 戦うのは、まだ慣れない。


 でも。


 ガルドの腕に浅い傷が入る。


 盾の縁で切っただけの傷。


 りんは反射で近づいた。


 「痛い?」


 「ん? いや、これくら――」


 言い終わる前に、りんの手が触れる。


 傷が消えた。


 ガルドが目を丸くする。


 「……毎回、さらっとやるなぁ」


 りんは困って笑った。


 「えへへ……ごめん?」


 ネネが即座に言う。


 「謝る必要はありません。助かります」


 その言葉だけで、ガルドは納得したように頷いた。


◇ ◇ ◇


 小競り合いのあと、道はさらに奥へ続いていた。


 そして、ふっと“臭い”が濃くなる。


 油と、湿った布と、古い木。


 「ここ」


 フィオが立ち止まった。


 木の根元。


 落ち葉の下に、小さな穴がある。


 ガルドが掘り返すと、布に包まれたものが出てきた。


 油布の束。

 小石の袋。

 そして、小さな印の布。


 「補給穴」


 フィオが言った。


 「中継点ほどじゃない。でも、ここで火種を渡せる」


 ライラが舌打ちした。


 「ほんとに、“仕事”としてやってる感じがする」


 ネネが印を見て、目を細める。


 「末端の趣味ですね。……でも、配置は合理的です」


 りんは布を見て、胸の奥がざわついた。


 (暮らしを壊すための道具)


 それが、こんなふうに用意されている。



 蓮が言った。


 「全部回収。穴は埋める。印は消す」


 ガルドが頷き、土を掘り返して穴を潰す。


 ライラが折れ枝の印を片っ端から折っていく。


 ネネが縄跡を消し、木の引っ掻き傷に泥を塗っていく。


 フィオは印の布を布袋に入れ、同時に地図に点を打った。


 りんは、その作業を見ながら思った。


 (これって、助けるのと同じなんだ)


 今ここで道具を消せば、どこかの村の火が減る。


 誰かの怪我が減る。


 治すのとは違う。

 でも、同じ方向を向いている。


◇ ◇ ◇


 帰り道、森の空気は少し軽かった。


 錯覚かもしれない。


 でも、足取りはほんの少しだけ戻る。


 フィオが言った。


 「これで次は、同じ速度では来ない」


 蓮が頷く。


 「遅らせられる。それで十分だ」


 ガルドが笑う。


 「やっと“殴れる場所”を殴った気がするぜ」


 ライラが肩をすくめた。


 「でも、影は消えてない」


 ネネが静かに言った。


 「線は切れました。……でも、また作られます」


 りんは空を見上げた。


 木々の隙間の青。


 綺麗なのに、胸の奥はまだ冷たい。


 それでも。


 (助けたい)


 その気持ちは変わらない。


◇ ◇ ◇


 王都へ戻る手前で、伝令が駆けてきた。


 騎士団の腕章。


 息を切らしている。


 「報告です! 東の集落で……小さな火が出ましたが、鎮火が間に合いました!」


 蓮が目を細める。


 「被害は」


 「軽傷が数名。家は燃え広がっていません!」


 その言葉に、りんは胸の奥がふっと緩むのを感じた。


 (間に合った)


 間に合った。


 全部は止められない。


 でも、少しでも遅らせれば――助かる。


 ネネが小さく頷いた。


 「効きましたね」


 フィオが淡々と付け足す。


 「……少なくとも、“急ぎすぎ”は止められた」


 蓮が一度だけ息を吐き、空を見上げた。


 「次は、もっと根を辿る」


 りんは指先を握りしめた。


 助けたい。


 それだけは変わらない。


 そして、守るために止める。


 そのやり方を、少しだけ覚えた。


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