37 影に潜む者 4
夜が明けても、星灯りの宿はすぐには“いつも”に戻らなかった。
旅人の笑い声はある。
パンの匂いもある。
でも、それらはどこか薄くて、慎重で――音を立てないようにしている。
柱の裏に残った印は、拭っても消えない。
線が三本。
丸がひとつ。
短い線が一本。
りんは朝の光の中で、それを見上げていた。
(置いていった)
わざわざ。
“ここまで来た”と知らせるみたいに。
◇
宿主が水桶を片付けながら、りんに頭を下げた。
「昨夜は……本当にありがとうございました。おかげで、誰も――」
言葉がそこで途切れる。
“燃えなかった”という言葉を、口にするのが怖いみたいに。
りんは慌てて首を振った。
「ううん。りんは、ただ……」
ただ、助けたかっただけ。
でも、それを言うとまた“聖女”って言われそうで、言葉が落ちる。
ネネが横から自然に入った。
「お気になさらず。今は、火の始末を優先してください。印のことも、こちらで確認しますので」
宿主は何度も頷いて、仕事に戻っていった。
◇
蓮が柱の印を見て、短く息を吐いた。
「試し撃ち、だな」
ライラが肩をすくめる。
「うん。こちらの反応を見ただけ。数も火も、控えめだった」
ガルドが舌打ちした。
「ムカつくやり方しやがる」
フィオは指先で印をなぞり、布に写し取っていく。
「線が増えてる。……階層が一段上がった」
ネネが低く言った。
「近いですね」
りんはその会話を聞きながら、胸の奥が冷えるのを感じた。
近い。
ここまで来る。
次は――どこだろう。
◇ ◇ ◇
蓮が宿の外へ出て、街道の方角を見た。
「守るだけじゃ、追いつかない」
言い方は静かだった。
でも、内容は決まっている。
「次の煙を待つんじゃなく、線を切る」
ガルドが眉を上げる。
「線?」
「合図と道と補給」
フィオが淡々と続ける。
「相手は“道”を作ってる。命令が通る道。火が運ばれる道」
ライラが頷いた。
「だから、道を壊す」
りんは言葉を飲み込んだ。
“道を壊す”って、なんだろう。
助けるのは分かる。
治すのも分かる。
でも、壊すのは――
ネネが、りんの耳元で小さく言った。
「お嬢。守るために“止める”こともあります」
りんは小さく頷いた。
「……うん」
まだちゃんと分からない。
でも、“守るため”なら。
◇ ◇ ◇
森へ向かう道は、昨夜より明るいはずだった。
なのに、りんの胸の中は、昨夜より重い。
星灯りの宿が燃えなかった。
その事実が嬉しいはずなのに、印が残っているせいで、ずっと肩がこわばっている。
(次は、燃えるかもしれない)
そう思うだけで、喉が乾く。
◇
森の入口に入る前に、フィオが足を止めた。
杖の先を地面に当て、目を閉じる。
ほんの数拍。
「……道がある」
蓮が頷く。
「追う」
ライラが木の枝の折れ方を見て、息を吐いた。
「印、残ってる。分かりやすい」
ネネが静かに言う。
「わざとです。ここを通れ、と言っています」
ガルドが歯を鳴らした。
「ほんと、ムカつくな」
◇ ◇ ◇
森の中を少し進むと、不自然に踏み固められた細道が現れた。
獣道よりまっすぐで、迷いがない。
ところどころに、折られた枝。
木の幹には、爪で引っ掻いたような線。
「……こういうの、全部“道”なんだ」
りんが呟くと、フィオが小さく頷いた。
「そう。低位の群れでも、迷わないように」
蓮は短く言った。
「つまり、教えたやつがいる」
りんの胸がきゅっとなる。
“教える”。
それは、優しい言葉のはずなのに。
◇
道の脇に、黒ずんだ布が落ちていた。
ライラが拾い上げ、指先で確かめる。
「油」
ネネが鼻をひくつかせる。
「ゴブリンではありません。別の魔族の匂いです」
りんの背筋が冷えた。
見えない誰かが、ここを通っている。
◇ ◇ ◇
少し進むと、空気が変わった。
落ち葉の上に、小さな足跡。
それが数本、道を横切っている。
「見張り」
蓮が低く言った。
次の瞬間、影が飛び出した。
ゴブリン。
数は少ない。三体。
手には油布。短い槍。
「通すな!」
ガルドが盾を前に出し、道を塞ぐ。
ライラの矢が手元を撃ち抜き、油布が落ちる。
フィオの術が走り、足を縛る。
蓮は剣を抜かず、柄で弾き、距離を作る。
短い。
速い。
長引かせない。
それは、村で学んだ動きだった。
◇
りんは少し後ろで、息を飲んで見ていた。
戦うのは、まだ慣れない。
でも。
ガルドの腕に浅い傷が入る。
盾の縁で切っただけの傷。
りんは反射で近づいた。
「痛い?」
「ん? いや、これくら――」
言い終わる前に、りんの手が触れる。
傷が消えた。
ガルドが目を丸くする。
「……毎回、さらっとやるなぁ」
りんは困って笑った。
「えへへ……ごめん?」
ネネが即座に言う。
「謝る必要はありません。助かります」
その言葉だけで、ガルドは納得したように頷いた。
◇ ◇ ◇
小競り合いのあと、道はさらに奥へ続いていた。
そして、ふっと“臭い”が濃くなる。
油と、湿った布と、古い木。
「ここ」
フィオが立ち止まった。
木の根元。
落ち葉の下に、小さな穴がある。
ガルドが掘り返すと、布に包まれたものが出てきた。
油布の束。
小石の袋。
そして、小さな印の布。
「補給穴」
フィオが言った。
「中継点ほどじゃない。でも、ここで火種を渡せる」
ライラが舌打ちした。
「ほんとに、“仕事”としてやってる感じがする」
ネネが印を見て、目を細める。
「末端の趣味ですね。……でも、配置は合理的です」
りんは布を見て、胸の奥がざわついた。
(暮らしを壊すための道具)
それが、こんなふうに用意されている。
◇
蓮が言った。
「全部回収。穴は埋める。印は消す」
ガルドが頷き、土を掘り返して穴を潰す。
ライラが折れ枝の印を片っ端から折っていく。
ネネが縄跡を消し、木の引っ掻き傷に泥を塗っていく。
フィオは印の布を布袋に入れ、同時に地図に点を打った。
りんは、その作業を見ながら思った。
(これって、助けるのと同じなんだ)
今ここで道具を消せば、どこかの村の火が減る。
誰かの怪我が減る。
治すのとは違う。
でも、同じ方向を向いている。
◇ ◇ ◇
帰り道、森の空気は少し軽かった。
錯覚かもしれない。
でも、足取りはほんの少しだけ戻る。
フィオが言った。
「これで次は、同じ速度では来ない」
蓮が頷く。
「遅らせられる。それで十分だ」
ガルドが笑う。
「やっと“殴れる場所”を殴った気がするぜ」
ライラが肩をすくめた。
「でも、影は消えてない」
ネネが静かに言った。
「線は切れました。……でも、また作られます」
りんは空を見上げた。
木々の隙間の青。
綺麗なのに、胸の奥はまだ冷たい。
それでも。
(助けたい)
その気持ちは変わらない。
◇ ◇ ◇
王都へ戻る手前で、伝令が駆けてきた。
騎士団の腕章。
息を切らしている。
「報告です! 東の集落で……小さな火が出ましたが、鎮火が間に合いました!」
蓮が目を細める。
「被害は」
「軽傷が数名。家は燃え広がっていません!」
その言葉に、りんは胸の奥がふっと緩むのを感じた。
(間に合った)
間に合った。
全部は止められない。
でも、少しでも遅らせれば――助かる。
ネネが小さく頷いた。
「効きましたね」
フィオが淡々と付け足す。
「……少なくとも、“急ぎすぎ”は止められた」
蓮が一度だけ息を吐き、空を見上げた。
「次は、もっと根を辿る」
りんは指先を握りしめた。
助けたい。
それだけは変わらない。
そして、守るために止める。
そのやり方を、少しだけ覚えた。
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