36 影に潜む者 3
中継点を潰したからといって、すべてが終わるわけじゃない。
むしろ、終わらせないために動くのが――冒険者だ。
蓮は、王都へ戻る道すがら、地図を頭の中で何度も折りたたんだ。
村。
村。
森の中継点。
点が線になり、線が面になろうとしている。
「次の煙を待つな」
誰かがそう言ったのか、蓮がそう思ったのかは曖昧だった。
でも、答えはもう決まっていた。
◇ ◇ ◇
星灯りの宿は、夕方のうちから賑わっていた。
旅人の笑い声。
荷馬車を引く音。
パンの焼ける匂い。
玄関先では宿主が忙しそうに出入りし、客は湯気の立つ料理に歓声を上げている。
ここは生きている。
りんは、それだけで少しだけ胸がほどけるのを感じた。
「……まだ、普通だね」
ぽつりと漏らすと、ネネが小さく頷いた。
「はい。だからこそ、守ります」
蓮が宿主に近づき、短く事情を伝える。
「近隣で不穏な襲撃が続いている。今夜、念のため警戒を」
宿主は眉を上げ、すぐに真剣な顔になった。
「……冗談じゃないですね。客も多い。どうすれば?」
「水桶と濡れ布。火を広げない準備をしてほしい」
「分かりました!」
宿主はすぐに人を動かし始めた。
この速さが、ありがたい。
◇
ガルドは宿の正面入口に立ち、盾を確かめた。
「ここは俺が抑える。客は中にまとめろ」
ライラは屋根へ上がる。
足音を立てず、影みたいに消える。
フィオは裏手に回り、杖を地面に軽く当てた。
「侵入路、二つ。……こっちは私が見る」
蓮は宿の中央――食堂の導線を確認し、視線を動かす。
「りん、ネネ。中で混乱が起きたら、まず落ち着かせる」
「うん」
りんは頷いた。
ネネは当然のように、りんの横に立つ。
「お嬢の近くにいます。人の流れも整えます」
りんは、宿の中にいる人の顔を見た。
笑っている。
食べている。
眠い目をこすっている。
守らなきゃ、と思う。
理由はそれだけで足りた。
◇ ◇ ◇
夜が落ちるにつれて、外の音が減っていった。
客はそれぞれ部屋に戻り、食堂の灯りだけが残る。
水桶が角に並び、濡れ布が用意され、砂の袋が廊下の端に積まれた。
宿主は何度も頭を下げた。
「こんなにしてもらって……」
「念のためです」
蓮が短く返す。
念のため、という言葉が、いちばん怖い。
りんは椅子に座って、手を握ったり開いたりした。
「お嬢、落ち着きがありません」
ネネが小声で言う。
「落ち着いてるよ」
「落ち着いていません」
「うぅ……」
りんは息を吸って、吐いた。
宿の灯りが、少し眩しい。
(ここが燃えたら、やだ)
考えるより先に、気持ちが先に出る。
◇
外で、風が鳴った。
次の瞬間。
「――!」
屋根の上から、ライラの短い合図が落ちた。
蓮がすぐに立つ。
「来る」
ガルドが入口で盾を構える音がする。
フィオの術が、裏手で小さく空気を張る。
ネネの耳が、ぴんと立った。
「数は多くありません。ですが……火の匂いです」
りんの胸が冷える。
焦げる匂いじゃない。
“これから焦がす匂い”だ。
◇ ◇ ◇
最初に見えたのは、小さな影だった。
宿の外れ、薪置き場の影。
そこから、緑色の肌がぬるりと現れる。
ゴブリン。
一体、二体――それから、手に布を握った個体。
布は黒い。
油を吸っている。
「……火役」
フィオの声が、低い。
その直後、甲高い音がした。
笛じゃない。
口笛。
短い、鋭い合図。
ゴブリンたちの動きが、一斉に揃った。
「……やっぱり」
ライラが屋根の上で舌打ちする。
「中継点が潰れても、合図は変えられる」
蓮が短く言う。
「止めるぞ。火を落とせ」
◇
ガルドが入口を塞ぐ。
「ここから先は通さねぇ!」
盾が地面を叩き、宿の正面を完全に閉じる。
ゴブリンが回り込もうとした瞬間、屋根から矢が飛んだ。
手元。
油布を握った指を狙う。
布が落ち、地面に転がる。
「落とした!」
ライラの声。
次いで、フィオの術が走る。
地面から淡い鎖が伸び、二体の足を絡め取った。
「動けないでしょう」
ゴブリンが呻き、歯を剥く。
蓮は剣を抜かず、柄と足で距離を作る。
「押し返す。殺し切る必要はない」
その声は冷静だった。
それが“いつもの仕事”の声だから。
◇ ◇ ◇
中では、別の音が起きていた。
「なに!? 外で……!」
「危ないの?」
「火事!?」
客の声が揺れ、宿主が青ざめる。
りんは立ち上がった。
「だいじょうぶ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
ネネがすぐに続ける。
「落ち着いてください。廊下の端へ寄らないで。子どもはこの部屋に」
りんは、泣きそうな子の手を取った。
震えている。
「こわい?」
子が頷く。
りんは、そのままぎゅっと握った。
「だいじょうぶ。りんがいる」
その瞬間、子の震えがふっと緩む。
呼吸が落ち着く。
りんは何をしたのか分からない。
ただ、落ち着いてほしかった。
それだけ。
◇
廊下で、客が転んだ。
「っ……!」
肘を打ったらしい。
痛みで顔を歪める。
りんがすぐに膝をつく。
「ここ、痛い?」
頷くより早く、りんの手が触れた。
「……はい?」
客が目を丸くする。
さっきまで痛がっていた肘が、もう動く。
「……え」
「だいじょうぶだよ」
りんは当たり前みたいに言った。
宿主が、呆然と見ている。
「……聖女さま……?」
りんは首をかしげた。
「え?」
ネネがすぐに言葉を差し込む。
「落ち着いてください。今は安全を優先します」
空気を逸らす。
詮索させない。
りんの魔法は大きすぎるからこそ、周りの心を余計に揺らす。
ネネはそれを分かっている。
◇ ◇ ◇
外で、火役がもう一体現れた。
油布を投げようとする。
蓮が踏み込む。
ガルドが盾で弾く。
その隙に、ライラの矢が足元に刺さった。
フィオの術が絡む。
「――捕まえた」
ゴブリンが暴れ、呻く。
そして、妙に綺麗に引いた。
残りが、合図一つで森へ戻る。
追えば倒せる。
でも、蓮は追わなかった。
「追うな」
短い声。
「ここが目的だ。宿を守る」
その判断が、また一段怖い。
“相手の目的を知っている”から出る声だった。
◇ ◇ ◇
静かになったあと、宿の外れに油布だけが残っていた。
ネネがそれを拾い、鼻先で匂いを確かめる。
「同じです。村の火と」
フィオが、宿の柱を見て立ち止まった。
柱の裏。
灯りが届かない影。
そこに、引っ掻いた跡がある。
線が三本。
丸がひとつ。
それに、もう一本だけ短い線。
「……印」
フィオが呟く。
「また、階層が上がった」
蓮が柱に指を添え、何も言わずに離した。
ライラが屋根から降りてくる。
「試されたわね」
ガルドが舌打ちする。
「守りの反応を見たってやつか」
フィオが頷いた。
「ここは“試し撃ち”。ゴブリンの数も、火の量も、全部控えめ」
「それで――印だけ残す」
ネネが低く言う。
「近いですね」
誰も否定しなかった。
◇
宿の中は、ようやく落ち着き始めていた。
客は部屋に戻り、宿主は水桶を片付けながら何度も礼を言う。
りんは、食堂の片隅で椅子に座り込んだ。
手が少し震えている。
怖かった。
でも、燃えなかった。
「……守れた?」
小さく呟くと、ネネが隣に座る。
「守れました。お嬢のおかげで」
「りん、何もしてないよ」
「してます」
ネネは淡々と断言した。
「人が落ち着けば、火も広がりません」
りんはよく分からなくて、首をかしげた。
フィオが柱の印を見つめたまま言った。
「次は、もっと近い」
蓮が頷く。
「守るだけじゃ足りない。……線を切る」
りんは、指先を握りしめた。
助けたい。
それだけは変わらない。
でも、助けるために“止める”必要がある。
そのことを、少しだけ理解した気がした。
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