35 影に潜む者 2
空き地の空気は、乾いていた。
炭の匂い。
油の匂い。
古い木が崩れた匂い。
人の暮らしの匂いとは違う。
ここは“誰かが使った場所”の匂いだった。
「手早く済ませる」
蓮が短く言う。
「長居するほど、向こうの都合が良くなる」
ライラが弓を握り直す。
「見張り、増える前にね」
ガルドが肩を回し、大盾を地面に一度だけ落とした。
「よし。壊すぞ」
フィオは地面にしゃがみ、記号の描かれた布切れと笛を並べる。
「回収するものは先に回収。燃やさない。匂いは残る」
ネネは拘束したゴブリンを、木に背を向けさせる形で座らせていた。
縄はきつい。
でも苦しませるためじゃない。
逃がさないため。
りんは、その一連の動きを見ながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
(これ、ただの村襲撃じゃない)
道があって。
合図があって。
順番があって。
誰かの手が、そこにある。
◇ ◇ ◇
「まず、油布」
蓮が指示する。
ガルドが桶を持ち上げ、中を覗く。
「残ってんな」
粘ついた匂いが、鼻に刺さる。
「捨てるな。埋める」
フィオが言う。
「地面に染みると厄介。動物が舐める」
ガルドが顔をしかめた。
「……趣味わりぃ」
「趣味じゃない。道具よ」
フィオは淡々としている。
ライラが周囲の木々に視線を走らせた。
「……静かすぎる。嫌な静けさ」
ネネの耳が、ぴくりと動く。
「動きがあります。遠いですが――」
「まだ来ない」
蓮が言う。
「でも、来る前提で動く」
りんは自分の手を見た。
(助けたい)
それしか浮かばないのに、今やっていることは“助ける”じゃない。
壊す。
埋める。
消す。
(これも、助けるのうちなのかな)
答えは出ない。
でも、蓮の背中が迷っていないのは分かる。
◇
フィオが、拘束したゴブリンの前にしゃがみ込んだ。
「合図。……聞こえた?」
ゴブリンは唸るだけだ。
言葉にはならない。
でも、目が揺れている。
フィオは笛を指先で転がし、ほんの少しだけ息を吹き込んだ。
ぴ、と短い音。
その瞬間。
ゴブリンの身体が、跳ねた。
反射だ。
逃げるでも、襲うでもない。
ただ、命令に引かれるみたいに動こうとして、縄に阻まれる。
「……刷り込み」
フィオが呟いた。
「合図に反応するように作られてる」
ネネが小さく息を吐く。
「低位魔族に、そんなことをする理由は一つです。――使うため」
りんの喉がひゅっと鳴った。
(使う)
言葉が、冷たい。
ゴブリンは唸り、歯を剥く。
でも、目の奥は怯えている。
怒りじゃない。
怖い、だ。
◇ ◇ ◇
ガルドが、桶をひっくり返した。
土を掘り、桶ごと埋める。
木材の残骸を崩し、笛の置かれていた場所を踏み固める。
「これで道具は減った。……次は印だな」
蓮が言う。
ライラが木の幹に残る折れ枝を見て、舌打ちした。
「目印が多い。慣れた手だわ」
フィオが地図に簡単な線を引く。
「この導線、完全に作ってる。……村へ行く“道”じゃない。命令が通る“道”」
ネネが視線を細めた。
「だから揃っていたのですね」
りんは、その言葉を胸の中で転がす。
命令が通る道。
(そんなの、いやだ)
理由は分からない。
でも、嫌だった。
◇
そのとき。
森の端で、葉が擦れる音がした。
ライラの弓がすぐに上がる。
「来た」
ガルドが盾を前に出す。
「どっちだ!」
フィオが杖を構えた。
蓮が手を上げる。
「近い。数は――」
答える前に、影が飛び出した。
ゴブリン。
二体、三体。
そしてその後ろに、油布を抱えた個体。
「……回収に来た」
フィオの声が、低い。
目的は分かる。
ここを潰されるのが困る。
証拠を持ち去りたい。
捕虜も消したい。
だから、来た。
◇ ◇ ◇
ライラの矢が、最初の一体の足元を貫いた。
「止まれ!」
ゴブリンが転ぶ。
ガルドが盾で道を塞ぎ、残りの進路を潰す。
「ここから先は通さねぇ!」
蓮が前に出る。
剣は抜かない。
抜かずに、柄で殴り、転がし、距離を作る。
「逃がすな。拘束優先!」
フィオの術が走る。
淡い鎖が地面から伸び、二体の足を絡め取った。
「動けないでしょう」
ネネがすっと動く。
捕虜の前に立ち、縄を守りながら、爪先で相手の手元を弾く。
ゴブリンの短剣が落ちる。
「余計なことはしないでくださいね」
丁寧な声で、容赦なく。
◇
そのとき、油布を抱えた個体が、横へ回り込もうとした。
狙いは明白だ。
燃やす。
混乱させる。
回収する。
そして逃げる。
「――っ」
ライラが矢を放つより早く、りんが一歩踏み出してしまった。
「だめ!」
声が出た瞬間、身体が先に動いた。
油布を抱えた手が、ふっと止まる。
本人も驚いた顔をする。
何が起きたのか、分かっていない。
りんも分かっていない。
ただ、“動かないで”と思った。
それだけで、足が止まった。
「……?」
フィオが目を細める。
(今、何をした?)
蓮が短く叫ぶ。
「ライラ!」
「分かってる!」
矢が飛ぶ。
油布が地面に落ちた。
ガルドが盾で踏みつけ、潰す。
「危ねぇ!」
◇
りんは、はっと我に返った。
自分が前に出てしまったことに、遅れて気づく。
「ごめ……」
言いかけて、息を呑んだ。
ライラの腕が、浅く切れていた。
血が滲むほど。
でも、戦闘中なら十分に邪魔になる。
りんの身体が勝手に向かう。
「……大丈夫」
触れた瞬間、傷は消えた。
「え」
ライラが目を丸くする。
「……ほんと、何なのよ」
「ごめん……?」
りんは困った顔をした。
“治したかった”だけなのに。
フィオが、声の温度を落とさずに言う。
「……助かったわ」
それだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
襲撃は長引かなかった。
拘束された個体は動けない。
追い返した個体は森へ逃げる。
最後に一体、走り去りながら何かを落とした。
布切れ。
拾い上げると、記号が描かれている。
さっきの印より複雑で、線が増えている。
「……階層」
フィオが言った。
「上がいる。しかも、いくつかの“手”がある」
蓮が布を握りつぶすように掴む。
「取りに来た。……焦ってる」
ライラが息を吐いた。
「証拠を回収しに来るなんて、分かりやすいわね」
ネネが捕虜の方を見る。
ゴブリンは震え、目を逸らした。
りんはその姿を見て、胸の奥がざわついた。
(怖いのは……誰?)
命令する方。
命令される方。
それを止めたい方。
答えは、まだ出ない。
◇ ◇ ◇
中継点は、使えない形にした。
油布は回収し、残りは土に埋め、印になる枝は折って散らした。
笛はフィオが袋に入れた。
「持ち帰る。……音は、命令の糸よ」
蓮が言う。
「帰る。騎士団に共有する。ギルドにも報告だ」
ガルドが盾を担ぎ直す。
「村の方も気になるが……ここを潰せたのはデカいな」
ライラが小さく頷く。
「少なくとも、同じやり方はしづらくなる」
ネネがりんを見た。
「お嬢、息は?」
「……大丈夫」
大丈夫、のはずだった。
でも、胸の奥に残る感覚がある。
見えない手。
命令の道。
揃いすぎた足跡。
りんは、森の奥を見た。
(まだいる)
(でも、見えない)
だから――
次は、もっと見える場所で止めたい。
りんは小さく息を吸う。
「……次、どこに行くの?」
蓮が答えた。
「線の先を読む。……次の“煙”を待つんじゃなく、先回りする」
フィオが静かに言う。
「点が線になったなら、次は――面になる」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
面。
広がる。
止めなければ、広がる。
りんは指先を握りしめた。
(助けたい)
それだけは、変わらない。
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