34 影に潜む者 1
夕暮れは、村の屋根を赤く染めるはずだった。
でも今、赤いのは空だけじゃない。
煤と灰が、陽の色を奪っている。
泣き声が、まだ残っていた。
咳が、まだ残っていた。
水桶が回る音が、ようやく“生活”の音に近づき始めたころ――
騎士団の小隊が、村へ入ってきた。
馬の蹄。
鎧の擦れる音。
短い号令。
村の空気が、少しだけ形を取り戻す。
◇ ◇ ◇
「――ここは我々が守る。負傷者の搬送も手配する」
隊長格の騎士が、状況を確認しながら言った。
蓮は簡潔に報告する。
火の出た場所。
襲撃の規模。
揃いすぎた動き。
そして――ゴブリンが残していった“線”。
「討伐は大隊で」
騎士が言う。
「だが、今夜のうちに別の村が狙われる可能性がある。警戒線を広く取る」
フィオが、地面の灰を指先で軽くなぞった。
「警戒だけじゃ足りないかもしれません。動きが同じなら、次も同じ“順番”で壊します」
隊長が眉を寄せる。
「順番?」
「倉庫、水場、避難の中心」
フィオは淡々と答えた。
「暮らしを壊す順番を知っている。……つまり“教えた”か“指示した”者がいる」
その言葉が、村の空気をまた少し冷やした。
◇
蓮が一度、りんを見る。
りんは、納屋の入り口で水を飲んでいた。
口の中が砂みたいに乾いていたのに、水が甘く感じる。
「りん」
呼ばれて顔を上げると、蓮が言った。
「もう少し、動けるか」
りんは一瞬だけ迷った。
目の前には、まだ震えている村人がいる。
まだ呼吸が浅い子がいる。
まだ、手を握ってほしい顔がある。
でも――
(同じことが、また起きるなら)
りんは小さく頷いた。
「うん。行く」
ネネが当然のように前へ出る。
「お嬢は私が同行します。無理はさせません」
「無理は……しない」
りんは言いながら、自分の言葉が少し頼りなく聞こえた。
フィオが視線だけで、蓮に合図する。
――逆走。
蓮が短く頷いた。
◇ ◇ ◇
村の外れ。
焼けた柵のそばに残る足跡が、線のように続いている。
散っていない。
迷っていない。
戻るべき場所が、最初から決まっているみたいに。
「行くぞ」
蓮が言う。
ガルドが盾を背負い直した。
「よし。森は俺が前を塞ぐ。嬢ちゃん、後ろに回るなよ」
「うん」
りんは頷いた。
ライラが弓の弦を確かめる。
「足跡、消えてない。助かるわ」
フィオは杖を握ったまま、何も言わない。
ただ、森の入口を見ている。
(……ここから先が“線の起点”)
そういう顔をしていた。
◇ ◇ ◇
森に入ると、空気がすぐ変わった。
湿った土。
落ち葉。
遠くで鳴く鳥。
そして、焦げの匂いが薄くなる代わりに、別の匂いが混ざる。
油。
「……これ」
ライラが立ち止まり、木の根元を指さした。
布切れが落ちている。
黒ずんでいて、触ると指先が少しべたつく。
「油布」
フィオが言った。
「放火用。……村の火元と同じ匂い」
ネネが布をつまみ、耳をぴくりと動かす。
「魔族の匂いがします。ですが、ゴブリンのものではない」
りんの胸が、きゅっとなる。
(ゴブリンじゃない“誰か”)
でも、今はそれを言葉にしない。
◇
足跡は続いていた。
ただの獣道じゃない。
木の枝が折られ、印みたいに道が作られている。
フィオが、途中でしゃがみ込んだ。
「……結び目がある」
地面に残る、細い縄の跡。
「罠?」
ガルドが聞く。
「罠じゃない。誘導の印。ここを通れっていう」
フィオは淡々と言った。
「低位の群れに、道を覚えさせるやり方」
蓮が唇を引き結ぶ。
「つまり――使ってる」
言葉が短いほど、重い。
◇
りんは、その背中を見ながら歩いた。
怖い。
でも、足は止まらない。
ふいに、足元で小さな影が跳ねた。
――小動物。
灰色の毛玉みたいな生き物が、落ち葉の下から飛び出して、震えている。
りんは反射でしゃがみ込んだ。
「だいじょうぶだよ」
触れようとして、ネネがすぐ止める。
「お嬢、今は」
「……うん」
りんは手を引っ込めた。
でも、震えは止まる。
毛玉は一度だけりんを見て、それから森の奥へ走っていった。
フィオが、ちらりとりんを見る。
(……今、何をした?)
りんは気づかないふりをした。
気づいていないだけだ。
◇ ◇ ◇
森の奥で、ふっと視界が開けた。
小さな空き地。
古い炭焼き小屋の跡みたいな、黒い石と崩れた木材。
そこに、いくつかの物が残っている。
桶。
布。
折れた矢。
粗末な干し肉の端。
そして――小さな笛が、二本。
「……中継点」
フィオの声が低くなる。
「ここで集めて、分けて、出した」
ライラが周囲を見回す。
「誰かがここで待ってたってこと?」
ネネが土を軽く触り、耳を動かす。
「数は多くありません。ですが――新しい匂いです。ほんの少し前まで、ここにいました」
ガルドが歯を鳴らす。
「逃げたか」
蓮は黙って、地面に落ちた布切れを拾った。
布には、雑な記号みたいなものが描かれている。
線が三本、丸がひとつ。
いきがってるみたいに、無駄に目立つ。
「……これ」
りんが呟く。
「文字じゃない」
フィオが答える。
「合図。印。……覚えさせるための“目印”」
ネネの尻尾が小さく揺れた。
「下っ端の趣味です。ですが、動きは下っ端だけのものではない」
りんは喉が乾くのを感じた。
(いる)
(見えてないだけで)
◇
そのとき。
空き地の端で、落ち葉がわずかに動いた。
蓮の手が上がる。
「止まれ」
全員が息を殺す。
次の瞬間、背を丸めた影が飛び出した。
ゴブリン。
一体。
いや、もう一体。
小さな槍を握り、目がぎらぎらしている。
「ちっ、見張りか!」
ガルドが盾を前に出す。
ライラの矢が空気を裂き、足元に突き刺さった。
「動くな」
蓮の声。
ゴブリンが怯んだ瞬間、フィオの術が走る。
地面から淡い縛りが伸び、足を止める。
「……拘束」
短い声。
ゴブリンは呻き、歯を剥いた。
もう一体が逃げようとしたが、ネネが瞬きの速さで距離を詰め、首根っこを掴んだ。
「逃げないでくださいね」
声音は丁寧なのに、目が笑っていない。
ゴブリンが暴れる。
でも、逃げられない。
◇
りんは一歩だけ前へ出そうとして、止まった。
助けたい、が出かける。
でも、今は違う。
ネネが先に言う。
「お嬢。まずは情報です」
「……うん」
りんは頷いた。
フィオが、拘束した個体の前にしゃがみ込む。
「指示したのは誰?」
ゴブリンは唸るだけだ。
言葉はない。
でも、目が揺れている。
怖がっている。
それは、怒られている子どもみたいな目だった。
「……命令」
フィオが呟く。
「命令だけは守る。怖くても」
蓮が息を吐く。
「上がいる」
それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
蓮は地図を広げ、中継点の位置に印を付けた。
村から伸びる線は、ここで“起点”を持った。
そして、さらに奥へ――薄い線が続いている気がする。
フィオが言う。
「ここは“下の手”」
ネネが静かに続けた。
「その上がいます」
りんは、地図を見つめた。
怖い。
でも――
助けたい。
その気持ちだけは、揺らがない。
りんは小さく息を吸う。
「……ここを使えなくしたら、次は少し遅れる?」
蓮がりんを見る。
「遅れる。……止まるかは分からないが」
「なら」
りんは指先を握る。
「まず、遅らせたい」
自覚はない。
でも、今の言葉は、誰かを守るための言葉だった。
蓮が頷く。
「決まりだ。ここを潰す。痕跡は持ち帰る」
ライラが苦笑する。
「潰すって言っても、燃やすのはなしね。森まで燃えたら本末転倒」
ガルドが肩をすくめた。
「じゃあ、壊して埋めて、回収して終わりだな」
フィオは笛を拾い、掌で転がした。
小さな音が鳴った。
その音が、妙に不気味に聞こえる。
りんは笛を見つめながら思った。
(影って、こういうふうに残るんだ)
姿は見えないのに、手だけがある。
指示だけがある。
だから――
見えない相手と、これから先、向き合うことになる。
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