32 煙の先で、崩れる日常 2
街道の石は、乾いているはずだった。
なのに、靴裏にまとわりつく感覚がある。
土でも泥でもない。――灰だ。
風がもう一度、頬を撫でた。
焦げているのは、ただの木じゃない。
誰かの暮らしだ。
走るほどではない。
でも、足は自然と早くなる。
りんは息を切らさないようにしながら、ネネの背中を追う。
「お嬢、歩幅。乱れています」
「……分かってる」
分かってるのに、胸の奥が先に急ぐ。
煙が近づくにつれて、匂いが変わる。
木の焦げだけじゃない。油と布と、――食べ物が焼けた匂い。
それが、いちばん嫌だった。
◇ ◇ ◇
村の外れが見えた。
畑の向こうに、低い屋根が並ぶはずの場所。
そこに、黒い柱が一本立っている。
煙。
小さな家のひとつが、まだ燻っていた。
「止まるな。まず外周を確認する」
蓮が短く言う。
ライラが先に回り込み、弓を構えたまま、視線で“屋根の上”と“路地”をなぞる。
ガルドは盾を前に出し、村へ入る道の真ん中に立つ。
フィオは杖を握り、空気の濁りを探るように目を細めた。
「……まだ、いるわね」
その声が、妙に落ち着いていた。
落ち着いているのは、慣れているからだ。
慣れているのが、いちばん怖い。
りんは唇を噛む。
(来るの、遅かった……?)
そんな考えが頭を掠めた瞬間。
「――こっち! こっちに人が!」
割れた声が、村の中から飛んできた。
蓮が即座に判断する。
「ネネ、りん。救助に回れ。俺とガルドは入口を抑える。ライラ、周囲。フィオ、逃げ道潰し」
「了解」
「任せろ!」
「分かった」
短い返事が重なる。
ネネはりんの手首を軽く引いた。
「お嬢。見るものが増えます。呼吸」
「……うん」
りんは胸に手を当て、息を吸って、吐く。
その間にも、村の中から泣き声がする。
怒鳴り声も、咳も、名前を呼ぶ声も。
「行きましょう」
ネネの声は冷静だった。
冷静でいられることが、今は頼もしい。
◇ ◇ ◇
村の中央へ入った瞬間、りんの視界が一気に崩れた。
倒れた桶。
散らばった麦。
焼けた柵。
そして、地面に座り込んでいる人。
「お母さん……!」
子どもの声。
りんは反射的に駆け寄りそうになって、ネネに袖を掴まれた。
「足元を見て」
言われて初めて気づく。
地面に、割れた陶器と釘が散っている。
踏めば、怪我をする。
りんは一歩ずつ、確実に進んだ。
座り込んでいる女性は、腕を押さえていた。
指の隙間から、血がにじむ。
「大丈夫、ですか……!」
声が震えそうになるのを、りんは飲み込む。
女性は顔を上げ、涙と煤でぐしゃぐしゃになったまま頷いた。
「だ、だいじょ……ぶじゃ、ない……」
それでも、子どもを抱き寄せようとしている。
ネネがすぐ膝をつき、布を取り出す。
「圧迫します。痛みますが、我慢してください」
(どうしよう、血……)
考えるより先に、りんの手が動いた。
「だいじょうぶ。……だいじょうぶだよ」
腕に触れた瞬間、身体の奥で“決まる”感覚がある。
――治したい。いま。
次の瞬間、傷口の熱がふっと引いた。
滲んでいた赤が、嘘みたいに止まる。
裂けていた皮膚が、縫い合わされるみたいに寄っていって――
「……え」
女性が、息を呑んだ。
痛みが抜けたせいか、涙だけが遅れて落ちる。
「う、うそ……」
子どもが母親の腕を見て、目を丸くする。
ネネは一瞬だけ固まり、すぐに周囲を見渡した。
驚いている暇はない。
「次の負傷者はどこですか!」
声を張る。
人の視線が一斉に集まる前に、流れを作る。
「こっち! こっちにも……!」
「あの家! 足をやられて動けない人が……!」
叫びが次々に飛ぶ。
りんは泣きそうになるのを、やめた。
泣くのは後でいい。今は、手を動かす。
◇
家のひとつから、乾いた咳が聞こえた。
「中にいる」
ネネが言う。
扉は半分焼け、歪んで開かない。
りんが手を伸ばす。
ネネが止めるより早く、りんの指先が板に触れた。
――開いて。
願いが言葉になる前に、木が“ほどけた”。
釘が抜けたわけでも、割れたわけでもない。
歪みだけが、すっと消える。
扉が、まるで最初からそうだったみたいに開いた。
「……っ」
ネネが息を呑む。
中は暗い。
煙が残っている。
りんは袖で口元を押さえ、視界の奥を探す。
寝台の横。
年寄りが倒れていた。
「息、弱い」
ネネが脈を取る。
りんはそっと膝をつき、迷いなく背中へ触れた。
「戻ってきて」
たったそれだけ。
次の瞬間、胸が大きく上下した。
咳が出る。
目が開く。
「……っ、げほ……」
年寄りの喉が鳴るのを見て、りんは初めて息を吐いた。
ネネはすぐに腕を回し、身体を支える。
「運びます。お嬢、次に備えて」
“制限”じゃない。
“次が来る”から、流れを止めない。
ふたりで抱え、外へ。
外の空気が、甘くて痛い。
◇ ◇ ◇
村の外れで、金属音がした。
剣と、何か硬いものがぶつかる音。
――まだ終わっていない。
りんが振り向く前に、ネネが肩を押さえた。
「お嬢は救助」
「でも……」
「役割です」
その言葉が、胸を縛る。
役割。
助ける。
守る。
戦うのは、必要なときだけ。
りんは唇を噛み、視線を救助へ戻した。
◇
しばらくして、蓮の声が飛ぶ。
「ガルド! 左!」
「おうよッ!」
盾が地面を叩く音。
その直後、何かが跳ね返される。
ライラの矢が、空気を裂く。
悲鳴。
フィオの声が重なる。
「逃がさない。――そこ」
足元の土が弾け、何かが転ぶ気配。
りんは歯を食いしばった。
(戦ってる……)
(でも、こっちは……)
叫び声の代わりに、りんの手は動く。
焼けた木片で切った指を塞ぐ。
足を捻った子を立たせる。
咳き込む老人の背中をさすって、呼吸を戻す。
治したいと思ったら、治ってしまう。
助けたいと思ったら、身体が動いてしまう。
――加減なんて、知らない。
知らないのに、できてしまうのが怖い。
でも今は、その怖さに立ち止まっている暇がない。
ネネが、りんの隣で声を切るように飛ばす。
「動ける方は、あちらの納屋へ! 水桶は二列で回してください!」
「子どもは集めて、名前を呼んで! はぐれないように!」
りんの回復が大きいぶん、周囲の心も揺れる。
――助かった。
――でも、なぜ。
――この子は何者。
その揺れを、ネネが現場の手順で押さえていく。
ひとつ助けるたびに、次の手が伸びるように。
◇
ふと、視界の端で“揃った足跡”が見えた。
村の中へ向かって、線みたいに続いている。
散っていない。
奪って逃げた痕じゃない。
(……誘導)
背筋が冷える。
同じ方向。
同じ順番。
まるで、誰かが地図を持っていたみたいに。
◇ ◇ ◇
蓮たちが戻ってきたのは、ほどなくしてだった。
全員、無傷ではない。
煤がついている。
息も少し荒い。
「追い払った。数は多くない。……でも、変だ」
蓮が言う。
ライラが顎で村の外れを示す。
「あそこ。火をつけた場所が、嫌に“選ばれてる”」
ガルドが舌打ちする。
「食い物の倉庫だけじゃねぇ。水場の近くも荒らされてる」
フィオが小さく頷く。
「生活を壊す順番を知ってる。……誰かの真似か、指示ね」
ネネが静かに言った。
「つまり、“ゴブリン”だけの動きではない」
りんは、喉がひゅっと鳴るのを感じた。
でも、今は――答えを出す時じゃない。
今ここにあるのは、焼けた匂いと、泣き声と、震える手。
りんは蓮を見上げる。
「……まだ、助ける人がいる」
蓮は短く頷いた。
「分かってる。ここを落ち着かせよう。騎士団が来るまで、村を守る」
ガルドが盾を鳴らす。
「避難場所、作るぞ!」
ライラが走り出す。
「高台の納屋が使える。火から遠い!」
フィオは杖を握り直し、村の外周へ視線を投げた。
「……次が来るなら、今度は止める」
りんは、指先を握りしめる。
(怖い)
(でも、ここで止まったら――)
ネネが、りんの肩にそっと手を置いた。
「お嬢。お願いします。――“倒れている人”を優先」
命の順番を、淡々と並べる声。
りんの回復が大きすぎるぶん、現場の形を作るのはネネの役目だった。
「……うん」
ひとつずつ。
ひとつずつ助けて、ひとつずつ戻す。
崩れた日常を、元に戻すのは魔法だけじゃない。
手を貸すこと。声をかけること。呼吸を整えること。
りんは、もう一度だけ深呼吸をして、次の泣き声へ向かった。
煙の向こうで、崩れる日常を――
少しでも、つなぎ直すために。
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