31 煙の先で、崩れる日常 1
数日というのは、案外あっさり過ぎていく。
王都の朝に慣れるために歩いた雑貨通り。
ライラに教えてもらった店の前で、指先で飾りをなぞった日。
ガルドの「肉のうまい店」談義に、つい笑ってしまった夜。
事件が起きた広場も、もういつもの通り道みたいになっていた。
それでも。
りんの胸の奥には、森で見たものがずっと残っている。
ゴブリンの巣。
乱雑に積まれた骨。
ぎらぎらした目。
そして、手のひらからこぼれた金色の光。
(“またいつか”って思ったのに……)
その“いつか”は、向こうから歩いてくることもあるらしい。
◇
その日も、りんとネネは朝食を終えて、ギルドへ向かっていた。
空は晴れていて、石畳は乾いている。
人の声も明るい。
なのに、歩きながら、りんは何度も鼻をひくつかせた。
「……なんか、焦げた匂いしない?」
ネネはすぐに表情を変えず、耳だけをぴくりと動かす。
「城門の外から、風に乗っているようですね」
「外……」
りんは無意識に、東の方角を見た。
森がある方向。
「お嬢、結論を急がないでください。匂いだけで決めつけるのは早いです」
「うん。でも……」
胸の奥が、じわっと冷たくなる。
(嫌な予感って、こういうのかな)
◇ ◇ ◇
ギルドの扉を押した瞬間、空気が違った。
いつものざわめきではない。
笑い声より先に、低い声がぶつかっている。
受付カウンターの前に人だかり。
掲示板の前では、依頼票を見上げた冒険者が肩を落としている。
そして、入口の近くに立つ衛兵が、周囲を押さえるように声を張っていた。
「落ち着け! 今、確認中だ!」
りんは、思わずネネの袖を掴む。
「……なにかあったの?」
「まずは情報です」
ネネはりんの半歩前に出て、受付へ近づく。
受付嬢も、いつもの柔らかな笑顔ではなく、紙束を抱えたまま必死に視線を巡らせていた。
ネネが名乗るより早く、彼女が気づく。
「あ……りんさん、ネネさん」
声が少し掠れている。
「いらっしゃいませ、という状況ではなくて……」
「なにかあったんですか?」
ネネが静かに言うと、受付嬢は小さく頷いた。
「はい。先ほど、東の街道沿いの村――リュミエ村から、使いが来ました」
りんの指先が冷える。
「村……」
受付嬢は紙を一枚取り出し、震えないように押さえながら読み上げた。
「“夜明け前、ゴブリンの群れが村の外れを襲撃。家畜を奪われ、倉庫が荒らされ、負傷者が多数。火も出た”――」
りんの耳の奥で、言葉が鈍く響いた。
火。
匂い。
さっきの焦げの気配が、急に現実の輪郭を持つ。
「怪我人……」
りんは口の中で呟いて、すぐに言い直した。
「今、助けに行く人は?」
受付嬢は唇を噛む。
「騎士団にも連絡が行っていますが、動ける部隊の到着には時間が……」
「討伐隊の編成も、まだ」
ネネが補足する。
「ええ。なので、ギルドとしては“応急の対応”が必要です」
受付嬢の視線が、りんへ一瞬だけ向く。
迷いと、期待と、そして恐れが混ざった目。
「……りんさん」
「うん」
りんは自分でも驚くくらい、声がまっすぐ出た。
「行く。今すぐ……できることする」
ネネが、わずかに目を細める。
「お嬢」
止めるのかと思った。
けれど、ネネは止めなかった。
「では、条件を整えます。単独行動はしないでください」
「……うん。約束する」
◇
そのとき、ギルドの扉がもう一度、重く開いた。
入ってきたのは《暁の空》だった。
鎧が擦れる音。
剣の鞘が静かに揺れる音。
場が、ほんの少しだけ引き締まる。
蓮は周囲のざわめきを一瞥し、受付へ一直線に歩いた。
「来たか。第一報の内容は?」
受付嬢が説明を繰り返す前に、別の職員が紙束を差し出す。
蓮はそれを受け取り、短く目を走らせた。
ライラが、りんの顔を見て目を瞬かせる。
「……その顔。もう聞いたのね」
りんは頷く。
「村が襲われたって」
ガルドが歯を鳴らすように息を吐いた。
「ちっ……増えすぎたって話の“次”が来やがったな」
フィオは無言で周囲を見渡し、最後にりんの方を見る。
視線が合うと、りんは小さく背筋を伸ばしてしまう。
フィオは表情を変えないまま、ただ一言だけ言った。
「……今日は、森じゃなくて“人の場所”ね」
その言葉が、妙に刺さった。
森での偵察は、情報のための一歩だった。
でも今日は――生活がある場所が、壊されている。
◇
蓮が受付嬢に言う。
「ギルドの判断は?」
受付嬢は、喉を鳴らしてから答えた。
「《暁の空》に、まずは現地確認と救助の優先をお願いしたいです。討伐ではなく、“被害の拡大を止める”こと」
蓮は頷く。
「了解。こちらで動く」
その流れの中で、受付嬢が一度だけ、りんを見る。
言いにくそうに、でも言わなければならない顔で。
「……りんさん」
「うん」
「もし、同行を希望されるなら……」
場が静かになる。
《暁の空》の四人が、りんとネネを見る。
ネネの耳がわずかに揺れる。
蓮が先に口を開いた。
「俺は反対しない。ただし、“やること”を決める」
りんは息を吸った。
「……治す。運ぶ。守る。戦うのは、必要なときだけ」
自分で言いながら、胸が少し落ち着くのが分かった。
“全部どうにかする”じゃない。
“今できること”に絞る。
ネネがすぐに言葉を重ねる。
「戦闘は最小限です。ゴブリンは魔族ですが、知能が低く、獣に近い個体が多い」
「……殺していい、とはならない」
りんは小さく呟いた。
自分でも、そこは譲れない気がした。
(ゴブリンのこと、まだ何も知らない)
(でも……助けられるなら、助けたい)
蓮は短く頷く。
「分かってる。だから“止める”」
「村から引き剝がす。追い払う。これ以上、燃やさせない」
ライラが弓の紐を指で弾きながら言う。
「村を襲うのって、だいたい“食い物”か“火”か“示威”よ。どれにしても、調子に乗らせたらダメ」
ガルドが大盾を背負い直す。
「守るのは得意だ。村人を固めて、逃げ道を作る」
フィオは最後に、ネネを見る。
「……りんの“役割”は?」
ネネは即答した。
「負傷者の処置と、混乱の鎮め。あと――」
ネネの視線が一瞬だけ、りんの手元に落ちる。
「お嬢が“やってしまう”前に、私が間に入る」
りんは一瞬むっとしたが、すぐに頷いた。
「……うん。勝手に突っ込まない」
「お願いします」
ネネの声が、少しだけ柔らかくなる。
◇ ◇ ◇
準備は速かった。
ギルドの職員が、応急の包帯と消毒薬、簡易の担架をいくつか用意する。
りんはそれを抱え、ネネが荷の重さを調整する。
「お嬢、手は空けておいてください。現地では、触れるだけで助かる場面が多い」
「うん」
りんは自分の指先を見た。
(よく分からないけど、出来ちゃう)
それは便利で、怖い。
だから今日は、なおさら“雑に使わない”と決める。
蓮がギルド職員に最後の確認を取る。
「リュミエ村の位置、被害の出た方角、ゴブリンの数の目測、火が出た場所」
紙に走り書きされた情報が、次々と積み上がっていく。
最後に、受付嬢が言った。
「……使いの話では、ゴブリンの動きが“揃いすぎていた”そうです」
蓮の眉がわずかに動く。
「揃いすぎ?」
「はい。普通なら、もっと散らばって奪って逃げるのに、“同じ方向へ誘導されているみたいだった”と」
フィオが小さく息を吐く。
「……誰かが、後ろにいる可能性」
ライラが舌打ちを噛み殺す。
「今は出てこない上がいる、ってやつね」
りんはその会話を聞きながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(ゴブリンだけじゃないのかもしれない)
でも、今は考えすぎない。
今は――村。
火。
怪我人。
「行こう」
蓮が短く言った。
《暁の空》が動き出す。
りんとネネも続く。
ギルドの扉を出た瞬間、風が頬を撫でた。
焦げた匂いが、少し濃くなる。
◇ ◇ ◇
城門を抜けて、街道へ。
焦げているのは、ただの木じゃない。
誰かの暮らしだ。
走るほどではない。
でも、足は自然と早くなる。
りんは息を切らさないようにしながら、ネネの背中を追う。
「お嬢、呼吸。浅いです」
「……ごめん」
「謝るなら、整えてください」
「うん……吸って、吐いて」
りんは胸に手を当て、深呼吸をひとつ。
すると、少しだけ周りの音が戻ってきた。
盾の金具が鳴る音。
弓の羽根が擦れる音。
杖の先が小さく揺れる音。
そして、遠くから聞こえる――
泣き声。
まだ村は見えない。
でも、声だけが先に来る。
蓮が歩幅を落とし、全員に合図する。
「ここから先、周囲の警戒を上げる」
ライラが頷く。
「煙、見えてきた」
りんも目を上げる。
空の一部に、薄い灰色が混ざっていた。
(ほんとに……燃えてる)
怖い。
でも、足は止まらない。
ネネが、りんの手首にそっと触れた。
「お嬢。今日の目標は、勝つことではありません」
「うん」
「生きて、助けて、戻ることです」
りんは小さく頷いた。
「……分かった。約束する」
その約束が、胸の中で灯りになる。
今は、まだ。
必要になったら、きっと出来る。
(怖くても、きっと、できる)
りんはそう思いながら、煙の方へ、もう一歩だけ踏み出した。
⸻




