表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王の娘  作者: 星空りん
3/4

2 魔王城から、ちょっと遠くまで 2

 魔王城の一角にある図書室は、ひんやりした空気と紙の匂いが満ちている。


 りんは高い本棚の間をくるくる歩き回り、人間界のことが書かれた本を、すでに何冊も読み倒していた。


 今日は、王都の地図と、城下町の絵が描かれた本をテーブルに広げている。


 「ここが王都の真ん中で……広場があって、市場があって、教会があって……」


 りんは指先で地図をなぞりながら、小さくつぶやいた。


 「ここに人がいっぱい歩いてて、ここでパンが焼けてて……」


 頭の中に浮かぶ光景が、どんどん色と音を持ち始める。


 「本で見るのも楽しいけど……やっぱり、本物を見てみたいなぁ」


 ぽつりと漏れた言葉に、背後から聞き慣れた声がした。


 「また人間界の本ですか、お嬢」


 「ネネ」


 ネネは、腕に数冊の本を抱えて近づいてきた。黒い尻尾が、少しだけ落ち着きなく揺れている。


 「危ない場所もいっぱいありますよ。とくに、人間の王都なんて」


 「魔界だって、危ない場所はあるよ?」


 りんは地図から顔を上げて、にこっと笑う。


 「でもさ、ここにも優しい人がいるみたいに、人間の王都にも、きっと優しい人がいるでしょ。ちょっとこわいけど悪い人じゃない人とか、めんどくさいけど好きな人とか」


 「めんどくさいけど好きな人って、具体的には?」


 「パパとか」


 ネネは「でしょうね」という顔をしてため息をついた。


 りんはまた地図に目を落とす。


 「王都の空って、どんな色なんだろ。パンの匂いって、本当に朝から街じゅうに広がってるのかな。笑ってる人も、泣いてる人も……どんな顔してるんだろ」


 静かな図書室に、りんの声が淡く溶けていく。


 「本の中だけで全部知ったつもりになってる方が、なんか、ちょっと怖いんだよね」


 ネネはその横顔をじっと見つめた。


 お嬢は、ただの好奇心で言っているわけじゃない。


 「……お嬢」


 何か言いかけたとき、廊下の方から、低い声がかすかに聞こえてきた。


 「──王都の状況については、以上です」


 りんの耳がぴくっと動く。


 「今、王都って言った?」


 「会議室の方ですね。陛下と幹部たちの、人間界に関する報告があると伺ってましたが……お嬢?」


 ネネが止めるより早く、りんは本をぱたんと閉じて立ち上がっていた。


 「ちょっと聞くだけ! ちゃんと邪魔しないから!」


 「お嬢、会議中に顔を出すのは──!」


 ネネの制止を背中で受けながしながら、りんは図書室を飛び出していった。



 会議室の扉の向こうからは、まだ何人かの声が聞こえていた。


 「近年、人間の国々のあいだで大きな戦は起きておりません。交易も増え、表向きは穏やかに見えますが──」


 「ただし、聖堂や教会の影響力が増しているとの報告もございます。“神の奇跡”“聖女”といった言葉が、民心をまとめるために頻繁に使われているようで」


 廊下で足を止めたりんは、「聖女」という単語に首をかしげた。


 「聖女……?」


 ネネが追いつき、小声でささやく。


 「お嬢、本当に入るつもりですか」


 「だって、王都の話してるんだよ?」


 りんは軽くノックをした……気でいた。実際は、ほとんどノックになっていないコンと小さな音のあと、そのまま扉を少し開けてしまう。


 「パパ〜? お話、もう終わった〜?」


 会議室の空気が、一瞬で凍りついた。


 「お、お嬢……!」


 「り、りん様……!」


 地図の前に立っていた魔族たちが、揃ってびくっと肩を跳ねさせる。


 部屋の中央には、人間の王都とその周辺を描いた大きな地図。その周囲に、角の立派な将軍や翼のある諜報役、ローブをまとった文官たちが並んでいた。


 その奥で、椅子に腰かけた魔王が、こめかみを押さえた。


 「……りん。今は会議中だ」


 「えっ、ごめん。もう終わるかなって思って」


 りんはおずおずと中に入ってしまってから、「あ、ほんとにやってる最中だ」と気づいたように目を丸くした。


 「続けろ」


 魔王が諜報役に促すと、彼は明らかに緊張した様子で咳払いをした。


 「は、はい。ええと……その、王都では現在、大規模な戦の兆しはありません。ただ、教会や聖堂の力が強まり、“奇跡”と称される出来事が、民の間でよく語られております」


 「へぇ……賑やかそうだね」


 りんは、地図の王都の部分をじーっと見つめながら、ぽつりと言った。


 「人がいっぱいいて、聖堂とか教会とかあって、“奇跡”とか“聖女”とかの話があるんだ……」


 その目は、さっき図書室で地図を眺めていたときよりも、ずっときらきらしている。


 魔王は、その横顔をちらと見た。


 諜報役は、どうしたものかと視線で問いかけてくる。


 「……本日の報告は以上でよい」


 魔王がそう言うと、幹部たちはほっとしたように深く頭を下げた。


 「じ、ではこれにて」


 「陛下、りん様、ごきげんよう」


 「ご無礼をお許しくださいませ、お嬢」


 りんは「うん?」と首をかしげたが、とりあえず笑顔で手を振った。


 「おつかれさま〜」


 会議室から魔族たちがぞろぞろと出て行き、扉が閉まる。


 残されたのは、魔王とりんとネネだけだった。



 「りん」


 魔王は椅子に座ったまま、りんを手招きした。


 「なぁに?」


 りんは素直に近づき、テーブルの地図を覗き込む。


 「さっきの話、どこまで聞いていた」


 「えっとね、戦争はあんまりなくて、交易が増えてて、教会と聖堂の力が強くなってて、“奇跡”とか“聖女”とか、そういう言葉で人をまとめてるってところまで」


 りんは指折り数えながら答えた。


 「それと……“王都は賑やかで、狡いところもある”って、前にパパが言ってたのも覚えてるよ」


 魔王はわずかに目を細めた。


 「……王都に、興味があるか」


 その問いかけに、りんの胸が、またどくんと大きく鳴る。


 ごまかそうとしても、たぶんパパにはバレる。


 だから、りんはまっすぐに言った。


 「うん。すごくあるよ」


 魔王は無言で続きを促す。


 「本で読むだけじゃ、やっぱり足りないよ。王都の空の色も、パンの匂いも、歩いてる人の声も。笑ってる人も、泣いてる人も、怒ってる人も。ちゃんと自分の目で見てみたい」


 口に出してみると、胸の奥にあった“ふわふわした何か”に、ようやく形がついた気がした。


 「ここで、何も知らないまま“安全だから”って言われてずっといる方が、りんはちょっと怖い。外を知らないまま大きくなっちゃうの、やだもん」


 ネネは横で、静かにその言葉を聞いていた。


 魔王はしばらく黙ってから、低く答えた。


 「……人間の王都は、決して安全な場所ではない」


 「さっきも言ってたよね。魔族を怖がる人がいっぱいいるって」


 「魔族を恐れ、憎む者もいる。力を示せば恐れられ、隠せば疑われる。“奇跡”や“聖女”といった言葉の裏で、何が行われているかも分からん」


 りんは、自分の手のひらを見つめた。


 さっきネネに押さえてもらった指先は、今はおとなしい。けれど、少し意識を向ければ、すぐにでも光が集まりそうだ。


 「こわい人も、いるんだよね」


 「いる」


 「でも、優しい人も、いるんだよね」


 魔王は即答しなかった。


 けれど、りんは続ける。


 「魔界だって、そうだもん。いい人もいるし、めんどくさいけど好きな人もいるし、ちょっとこわいけど悪い人じゃない人もいるし」


 「そこで私の顔を見るな」


 「だって、パパもそういう部類でしょ?」


 魔王は、ほんの一瞬だけ肩をすくめた。


 「……否定はせん」


 りんはくすっと笑う。


 「だからね。何も知らないまま“ここにいなさい”って言われる方が、りんにとっては、ちょっとこわいの。王都のことを、本でしか知らないまま、パパが見てる世界を知らないまま、大人になっちゃうの、やだ」


 その言葉は、魔王の胸の奥にも刺さった。


 長い時間を生きてきた魔王だからこそ、外を知らずに閉じこもることが、どれだけ危ういかも知っている。


 魔王は、視線をネネに向けた。


 「……ネネ」


 「は、はい」


 びくりと耳を立てたネネに、魔王は問う。


 「おまえから見て。りんを、人間の王都へ連れて行くのは、どうだ」


 ネネの尻尾が、ぴんと固まった。


 「そ、それは……危険がないとは、とても言えません」


 正直な言葉だ。


 「ですが」


 ネネは唇をきゅっと結び、続けた。


 「お嬢が、何も知らないまま魔界の中にだけ閉じ込められているのも、違うと思います」


 りんの目が丸くなる。


 「ネネ……?」


 「わたしは、もともと“お嬢の護衛”としてここにおります。どこへ行っても守る覚悟は、とっくにできています。行くか行かないかは、陛下がお決めになることですが」


 ネネの金色がかった猫の瞳が、まっすぐに魔王を見返した。


 魔王は、長い息をひとつ吐いた。


 「……そうか」


 りんは、ごくりと喉を鳴らす。


 魔王はしばし目を閉じ、それから娘を見つめた。


 「りん」


 「……はい」


 「王都へ行くことを──許そう」


 空気が、ぴたりと止まった。


 「……え」


 理解が追いつくまで、少し時間がかかる。


 「え、えっ、えっ!? ほ、本当に!?」


 りんは椅子から跳ねるように立ち上がり、目をキラキラさせた。


 「パパ、行っていいの!?」


 「ただし、条件がある」


 魔王は指を一本立てる。


 「まず、ネネを含む護衛をつけること。おまえひとりで行かせるつもりはない」


 「うん、それは全然いいよ!」


 「次に、人前でむやみに魔法を使わぬこと。とくに、人間の前でだ。さきほど倉庫でやったような真似は、絶対にするな」


 「う……」


 りんは頬をふくらませ、それからしぶしぶしぼませた。


 「がんばって、なるべく、ひかえめにする……」


 「“なるべく”ではなく、“絶対”を目指せ」


 「はぁい……」


 「最後に。おまえの正体は伏せる。表向きには、交易相手のどこかの国のお姫か、貴族の娘ということにしておく」


 「はーい」


 りんは条件が三つもついたことを、あまり深刻には受け止めていないようだった。それより、「行ける」という事実の方がずっと大きい。


 「ネネ」


 魔王は改めてネネを見た。


 「おまえの使命はひとつだ。りんを、無事に連れ帰る」


 ネネは、その言葉の重さを噛みしめるように目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。


 「はい。命に代えても」


 「ちょ、ちょっと待って! そんな大げさにしないで!」


 りんは慌ててネネの腕を引いた。


 「ネネがいなくなったら、りん困るもん!」


 「そういう問題では……」


 ネネは苦笑し、魔王もわずかに口元を緩めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ