2 魔王城から、ちょっと遠くまで 2
魔王城の一角にある図書室は、ひんやりした空気と紙の匂いが満ちている。
りんは高い本棚の間をくるくる歩き回り、人間界のことが書かれた本を、すでに何冊も読み倒していた。
今日は、王都の地図と、城下町の絵が描かれた本をテーブルに広げている。
「ここが王都の真ん中で……広場があって、市場があって、教会があって……」
りんは指先で地図をなぞりながら、小さくつぶやいた。
「ここに人がいっぱい歩いてて、ここでパンが焼けてて……」
頭の中に浮かぶ光景が、どんどん色と音を持ち始める。
「本で見るのも楽しいけど……やっぱり、本物を見てみたいなぁ」
ぽつりと漏れた言葉に、背後から聞き慣れた声がした。
「また人間界の本ですか、お嬢」
「ネネ」
ネネは、腕に数冊の本を抱えて近づいてきた。黒い尻尾が、少しだけ落ち着きなく揺れている。
「危ない場所もいっぱいありますよ。とくに、人間の王都なんて」
「魔界だって、危ない場所はあるよ?」
りんは地図から顔を上げて、にこっと笑う。
「でもさ、ここにも優しい人がいるみたいに、人間の王都にも、きっと優しい人がいるでしょ。ちょっとこわいけど悪い人じゃない人とか、めんどくさいけど好きな人とか」
「めんどくさいけど好きな人って、具体的には?」
「パパとか」
ネネは「でしょうね」という顔をしてため息をついた。
りんはまた地図に目を落とす。
「王都の空って、どんな色なんだろ。パンの匂いって、本当に朝から街じゅうに広がってるのかな。笑ってる人も、泣いてる人も……どんな顔してるんだろ」
静かな図書室に、りんの声が淡く溶けていく。
「本の中だけで全部知ったつもりになってる方が、なんか、ちょっと怖いんだよね」
ネネはその横顔をじっと見つめた。
お嬢は、ただの好奇心で言っているわけじゃない。
「……お嬢」
何か言いかけたとき、廊下の方から、低い声がかすかに聞こえてきた。
「──王都の状況については、以上です」
りんの耳がぴくっと動く。
「今、王都って言った?」
「会議室の方ですね。陛下と幹部たちの、人間界に関する報告があると伺ってましたが……お嬢?」
ネネが止めるより早く、りんは本をぱたんと閉じて立ち上がっていた。
「ちょっと聞くだけ! ちゃんと邪魔しないから!」
「お嬢、会議中に顔を出すのは──!」
ネネの制止を背中で受けながしながら、りんは図書室を飛び出していった。
◇
会議室の扉の向こうからは、まだ何人かの声が聞こえていた。
「近年、人間の国々のあいだで大きな戦は起きておりません。交易も増え、表向きは穏やかに見えますが──」
「ただし、聖堂や教会の影響力が増しているとの報告もございます。“神の奇跡”“聖女”といった言葉が、民心をまとめるために頻繁に使われているようで」
廊下で足を止めたりんは、「聖女」という単語に首をかしげた。
「聖女……?」
ネネが追いつき、小声でささやく。
「お嬢、本当に入るつもりですか」
「だって、王都の話してるんだよ?」
りんは軽くノックをした……気でいた。実際は、ほとんどノックになっていないコンと小さな音のあと、そのまま扉を少し開けてしまう。
「パパ〜? お話、もう終わった〜?」
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
「お、お嬢……!」
「り、りん様……!」
地図の前に立っていた魔族たちが、揃ってびくっと肩を跳ねさせる。
部屋の中央には、人間の王都とその周辺を描いた大きな地図。その周囲に、角の立派な将軍や翼のある諜報役、ローブをまとった文官たちが並んでいた。
その奥で、椅子に腰かけた魔王が、こめかみを押さえた。
「……りん。今は会議中だ」
「えっ、ごめん。もう終わるかなって思って」
りんはおずおずと中に入ってしまってから、「あ、ほんとにやってる最中だ」と気づいたように目を丸くした。
「続けろ」
魔王が諜報役に促すと、彼は明らかに緊張した様子で咳払いをした。
「は、はい。ええと……その、王都では現在、大規模な戦の兆しはありません。ただ、教会や聖堂の力が強まり、“奇跡”と称される出来事が、民の間でよく語られております」
「へぇ……賑やかそうだね」
りんは、地図の王都の部分をじーっと見つめながら、ぽつりと言った。
「人がいっぱいいて、聖堂とか教会とかあって、“奇跡”とか“聖女”とかの話があるんだ……」
その目は、さっき図書室で地図を眺めていたときよりも、ずっときらきらしている。
魔王は、その横顔をちらと見た。
諜報役は、どうしたものかと視線で問いかけてくる。
「……本日の報告は以上でよい」
魔王がそう言うと、幹部たちはほっとしたように深く頭を下げた。
「じ、ではこれにて」
「陛下、りん様、ごきげんよう」
「ご無礼をお許しくださいませ、お嬢」
りんは「うん?」と首をかしげたが、とりあえず笑顔で手を振った。
「おつかれさま〜」
会議室から魔族たちがぞろぞろと出て行き、扉が閉まる。
残されたのは、魔王とりんとネネだけだった。
◇
「りん」
魔王は椅子に座ったまま、りんを手招きした。
「なぁに?」
りんは素直に近づき、テーブルの地図を覗き込む。
「さっきの話、どこまで聞いていた」
「えっとね、戦争はあんまりなくて、交易が増えてて、教会と聖堂の力が強くなってて、“奇跡”とか“聖女”とか、そういう言葉で人をまとめてるってところまで」
りんは指折り数えながら答えた。
「それと……“王都は賑やかで、狡いところもある”って、前にパパが言ってたのも覚えてるよ」
魔王はわずかに目を細めた。
「……王都に、興味があるか」
その問いかけに、りんの胸が、またどくんと大きく鳴る。
ごまかそうとしても、たぶんパパにはバレる。
だから、りんはまっすぐに言った。
「うん。すごくあるよ」
魔王は無言で続きを促す。
「本で読むだけじゃ、やっぱり足りないよ。王都の空の色も、パンの匂いも、歩いてる人の声も。笑ってる人も、泣いてる人も、怒ってる人も。ちゃんと自分の目で見てみたい」
口に出してみると、胸の奥にあった“ふわふわした何か”に、ようやく形がついた気がした。
「ここで、何も知らないまま“安全だから”って言われてずっといる方が、りんはちょっと怖い。外を知らないまま大きくなっちゃうの、やだもん」
ネネは横で、静かにその言葉を聞いていた。
魔王はしばらく黙ってから、低く答えた。
「……人間の王都は、決して安全な場所ではない」
「さっきも言ってたよね。魔族を怖がる人がいっぱいいるって」
「魔族を恐れ、憎む者もいる。力を示せば恐れられ、隠せば疑われる。“奇跡”や“聖女”といった言葉の裏で、何が行われているかも分からん」
りんは、自分の手のひらを見つめた。
さっきネネに押さえてもらった指先は、今はおとなしい。けれど、少し意識を向ければ、すぐにでも光が集まりそうだ。
「こわい人も、いるんだよね」
「いる」
「でも、優しい人も、いるんだよね」
魔王は即答しなかった。
けれど、りんは続ける。
「魔界だって、そうだもん。いい人もいるし、めんどくさいけど好きな人もいるし、ちょっとこわいけど悪い人じゃない人もいるし」
「そこで私の顔を見るな」
「だって、パパもそういう部類でしょ?」
魔王は、ほんの一瞬だけ肩をすくめた。
「……否定はせん」
りんはくすっと笑う。
「だからね。何も知らないまま“ここにいなさい”って言われる方が、りんにとっては、ちょっとこわいの。王都のことを、本でしか知らないまま、パパが見てる世界を知らないまま、大人になっちゃうの、やだ」
その言葉は、魔王の胸の奥にも刺さった。
長い時間を生きてきた魔王だからこそ、外を知らずに閉じこもることが、どれだけ危ういかも知っている。
魔王は、視線をネネに向けた。
「……ネネ」
「は、はい」
びくりと耳を立てたネネに、魔王は問う。
「おまえから見て。りんを、人間の王都へ連れて行くのは、どうだ」
ネネの尻尾が、ぴんと固まった。
「そ、それは……危険がないとは、とても言えません」
正直な言葉だ。
「ですが」
ネネは唇をきゅっと結び、続けた。
「お嬢が、何も知らないまま魔界の中にだけ閉じ込められているのも、違うと思います」
りんの目が丸くなる。
「ネネ……?」
「わたしは、もともと“お嬢の護衛”としてここにおります。どこへ行っても守る覚悟は、とっくにできています。行くか行かないかは、陛下がお決めになることですが」
ネネの金色がかった猫の瞳が、まっすぐに魔王を見返した。
魔王は、長い息をひとつ吐いた。
「……そうか」
りんは、ごくりと喉を鳴らす。
魔王はしばし目を閉じ、それから娘を見つめた。
「りん」
「……はい」
「王都へ行くことを──許そう」
空気が、ぴたりと止まった。
「……え」
理解が追いつくまで、少し時間がかかる。
「え、えっ、えっ!? ほ、本当に!?」
りんは椅子から跳ねるように立ち上がり、目をキラキラさせた。
「パパ、行っていいの!?」
「ただし、条件がある」
魔王は指を一本立てる。
「まず、ネネを含む護衛をつけること。おまえひとりで行かせるつもりはない」
「うん、それは全然いいよ!」
「次に、人前でむやみに魔法を使わぬこと。とくに、人間の前でだ。さきほど倉庫でやったような真似は、絶対にするな」
「う……」
りんは頬をふくらませ、それからしぶしぶしぼませた。
「がんばって、なるべく、ひかえめにする……」
「“なるべく”ではなく、“絶対”を目指せ」
「はぁい……」
「最後に。おまえの正体は伏せる。表向きには、交易相手のどこかの国のお姫か、貴族の娘ということにしておく」
「はーい」
りんは条件が三つもついたことを、あまり深刻には受け止めていないようだった。それより、「行ける」という事実の方がずっと大きい。
「ネネ」
魔王は改めてネネを見た。
「おまえの使命はひとつだ。りんを、無事に連れ帰る」
ネネは、その言葉の重さを噛みしめるように目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。
「はい。命に代えても」
「ちょ、ちょっと待って! そんな大げさにしないで!」
りんは慌ててネネの腕を引いた。
「ネネがいなくなったら、りん困るもん!」
「そういう問題では……」
ネネは苦笑し、魔王もわずかに口元を緩めた。
◇




