27 ゴブリンの巣へ、はじめの一歩 3
「行こう」
短くそう言って、蓮は森の奥へと視線を向けた。
「ここから先が、本番だ。巣の位置と規模を確認する。戦いは必要最小限。目的はあくまで“偵察”だ」
「分かってる」
ライラが頷き、ガルドも大盾を構え直す。
フィオは、さっきの光をまだ少し気にしながらも、杖を軽く握り直した。
りんは、深呼吸をひとつしてから、ネネのすぐ後ろの位置に戻る。
「……大丈夫?」
ネネが、小さな声で尋ねてきた。
「こわいけど、歩けるよ」
りんは、少しだけ笑ってみせる。
「それがいちばん大事です」
ネネも小さく笑い返した。
◇ ◇ ◇
そこから先は、言葉がほとんどなくなった。
木々の間を抜ける。
根の張り出した地面を避けて進む。
時々、古い罠の跡や、骨のようなものが落ちているのが見える。
りんは、ネネの背中と、その向こうに見える蓮の背中を見失わないように歩いた。
(怖いけど、誰かの背中が見えてると、少しだけ安心する)
そんなことを考えながら。
◇ ◇ ◇
やがて、森の密度が、ふっと変わった。
木々の隙間から、少しだけ開けた空間が見える。
「……ここだな」
蓮が足を止めた。
全員が、周囲の木の陰に身を隠す。
りんとネネも、低い茂みの影にしゃがみ込んだ。
「お嬢、顔だけそっと出してみてください。声は出さないように」
「うん……」
りんは、できるだけ音を立てないように、そっと前を覗いた。
◇
そこは、小さな広場になっていた。
木々が少しだけ途切れたその場所の中央に、粗末な木と石で組まれた囲いがある。
骨や壊れた荷車の残骸、布切れのようなものが、乱雑に積み上がっていた。
「……これが」
声にならない声が、喉の奥で震える。
(ゴブリンの巣……)
囲いの周りには、小さな影がいくつも動いていた。
さっき見たのと同じ、緑色の肌のゴブリン。
数を数えようとして、りんは途中で諦める。
(多い……)
「最低でも十数体。おそらく、見えていないところにもう少し」
ライラが、視線だけで数を追いながら小さく呟く。
フィオが、杖の先を地面に軽く当てた。
「囲いの中にもいそうですね。声が聞こえます」
ガルドは小さく息を吐いた。
「これでも、三つある巣の中で一番小さいってんだから、笑えねぇ話だ」
「笑えませんね」
ネネが淡々と返す。
蓮は、しばらくじっと巣を観察していた。
出入りするゴブリンたちの動き。
囲いの外側に積まれた木材や石。
周囲の木々に刻まれた、爪痕や印。
「蓮、どう?」
ライラが小声で尋ねる。
「……入口は実質ふたつだな」
蓮が、巣の周囲を指でなぞるように示した。
「ここが“正面”。こっちが、少し奥の“側面”。どちらも、木の陰を抜ける形になる。正面には見張りが二体。側面には、一応の罠がいくつか?」
フィオが頷く。
「罠はこちらからでも感知できます。そこまで巧妙な作りではありません」
「数、位置、巣の形、罠の傾向。……偵察任務としては、最低限の情報は取れたな」
蓮が、静かに結論を口にした。
ライラも、小さく肯いた。
「全員無事でここまで来ただけでも、十分よ」
「……ここで、戦わないの?」
りんが、小さな声で尋ねる。
蓮が振り返る。
「今の戦力で正面から突っ込めば、相応の被害が出る。目的は“巣を落とすこと”じゃない。“次にどうするか決めるための情報”を持ち帰ることだ」
「でも──」
「りん」
ネネの声が、やわらかく遮る。
「今、ここで“全部をどうにかしたい”と思うのは、きっと自然なことです。でも、現実には、一歩ずつしか進めないこともあります」
「……一歩ずつ」
「はい。今日の一歩は、“巣の場所と形を知った”ところまで」
ネネは、りんの目を見て、静かに言った。
「次の一歩は、また別の日に。今日むりやり踏み出して、それで誰かが倒れたら──お嬢がいちばん嫌がる結果になるでしょう?」
胸の奥が、ちくりとした。
(それは……いやだ)
りんは、ぎゅっと拳を握りしめた。
「……うん。分かった」
蓮が、小さく息を吐いた。
「俺たちも同じ考えだ。次にどう動くかは、ギルドと、王都と、いろいろな場所で決める必要がある」
「そのために、今の光景を覚えておくのが、今回の仕事です」
フィオが静かに付け加えた。
「それは、後ろで支える者も同じですよ、りん」
りんは、もう一度巣を見た。
そこで動いている小さな影たち。
乱雑に積まれた骨や、壊れた荷物。
(今日、“全部どうにかする”ことはできない)
けれど──
(いつか、きっと。なにか違う形で、向き合いに来るんだろうな)
まだ言葉にならない予感だけが、胸の中に残った。
◇ ◇ ◇
「引くぞ」
蓮の一言で、空気が少しだけ緩む。
全員が、来たときと同じ隊列に戻る。
足音をできるだけ殺しながら、森の奥から離れていった。
背中に、ゴブリンたちの騒がしい声が、少しずつ遠ざかっていく。
りんは、一度だけ振り返りたくなる衝動を堪えた。
(また、来るから)
心の中で、小さくそう呟く。
◇ ◇ ◇
森を抜け、街道の気配が近づいてきたとき、空気がふっと軽くなった気がした。
「おつかれさまでした、お嬢」
ネネが、りんの肩をぽんと叩く。
「……うん。なんか、どっと疲れた」
りんは、苦笑しながら空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、森の奥よりずっと明るい。
「初任務としては、十分以上だ」
蓮が言った。
「足を引っ張らないように動いてくれて助かったよ」
「ほんと?」
「ええ」
ライラが微笑む。
「ちゃんと怖がって、ちゃんと立ってた。それができない新人、結構多いのよ」
ガルドが、がっはっはと笑った。
「それに、あの“最後のひと押し”もな。苦しまずに終わらせてやるって発想は、俺たちにはまず出てこねぇ」
フィオは、まだ少し考え込むような表情をしていたが、それでも穏やかに頷いた。
「あなたの光は、やはり普通の“回復”とは違う。だからこそ──これから先、きっと必要になる」
「……そうかな」
りんは、自分の手のひらを見つめる。
まだ、さっき使った光の感覚が、指先に残っている気がした。
「きっと、そうです」
ネネが、当然のように断言する。
「お嬢の“できること”は、まだまだこんなものではありませんから」
「え、こわいこと言わないで?」
りんが慌てて言うと、ネネはくすりと笑った。
「大丈夫です。こわいときは、私がちゃんと隣にいますから」
その言葉に、りんの胸の中の緊張が、少しだけほぐれた。
◇ ◇ ◇
王都の城壁が見えたとき、りんはようやく、大きく息を吐いた。
「なんか、帰ってきた感ある……」
「外に出ると、城壁の中が急に“安心できる場所”に見えるでしょう?」
ライラが、少しおどけたように言う。
「その感覚は、案外大事よ」
「そうなの?」
「守るべきものが“ある”っていう印だからね」
りんは、王都の門を見上げた。
(ここも、“守るべき”場所なんだ)
そう思ったとき、森の中で見た巣と、そこで動いていた影が頭をよぎる。
胸の奥が、ちくりと痛む。
(でも──今日できたのは、“見に行った”ところまで)
それでも、なにか小さな一歩を踏み出したような気がしていた。
◇ ◇ ◇
ギルドに戻ると、中はいつもより少しざわざわしていた。
別の冒険者パーティが、依頼の報告をしているらしい。
受付嬢たちも忙しそうに動き回っている。
「おかえりなさいませ!」
りんたちの姿を見つけて、窓口のひとりがぱっと表情を明るくした。
この前、最初に対応してくれた受付嬢だ。
「無事のご帰還、なによりです。例のゴブリンの巣の偵察ですね?」
「はい。ひとまず、予定どおり最初の巣まで行ってきた」
蓮が短く答え、地図の上に手を置く。
「位置、規模、罠の傾向、見張りの数。分かる範囲で報告する」
「ありがとうございます。詳しくお伺いしますね」
受付嬢は、慣れた手つきで紙とペンを用意した。
りんは、その少し後ろで、ネネと並んで立つ。
(ちゃんと“仕事した”感じがする……)
足は疲れているし、心もまだ少しざわざわしている。
それでも、なにか満たされている気持ちもあった。
「お嬢」
ふいに、ネネが小さな声で話しかけてきた。
「今日の任務、どうでした?」
りんは、少し考えてから答えた。
「こわかった。でも、見に行ってよかった」
「その答えなら、きっと魔王……いえ、パパも喜びますよ」
「……パパには、あんまり詳しく言わないでおいて」
「そこは、ほどほどに調整しておきます」
ネネがくすっと笑う。
受付の前では、蓮たちが真剣な顔で巣の状況を説明していた。
今日の一歩は、小さいかもしれない。
でも──
(たぶん、この一歩から、“なにか”が始まる)
りんは、胸の奥でそう感じていた。
まだ、ゴブリンたちと分かり合える未来なんて、想像もできない。
けれど、どこかで、いつか、その可能性を信じてみたいと思う自分がいる。
(そのとき、ちゃんと“今見たもの”を覚えていたいな)
ゴブリンの、ぎらぎらした目。
巣に積まれていた骨。
森の冷たい空気。
そして──
自分の手からこぼれた、金色の光。
りんは、その全部を、静かに心の中にしまい込んだ。
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