26 ゴブリンの巣へ、はじめの一歩 2
森の空気は、王都の外とはまるで違っていた。
木々が重なって陽を遮り、足元には湿った土と落ち葉の感触。鳥の声も、遠くで少しだけ聞こえるだけで、あとは自分たちの吐く息と、枝を踏む小さな音が耳に残る。
「ここから先が、本格的な“ゴブリンの縄張り”です」
先頭を歩く蓮が、低い声で告げた。
「足音を小さく。話すときは、できるだけ短く、静かに」
「了解」
ライラが短く答え、弓の弦にそっと指を触れる。
ガルドは、大盾を少しだけ前にずらし、フィオは杖をすこし身体の近くへ引き寄せた。
りんは、ネネのすぐ後ろで、ぎゅっと両手を握りしめる。
(ドキドキしてる……)
心臓の音が、自分にだけ聞こえているんじゃないかと思うくらい速い。
それでも、足を止める気にはなれなかった。
◇
蓮を先頭に、ガルドが左、ライラが右を少し広く取って歩く。
中央にりんとネネ、そのさらに少し後ろにフィオが続いていた。
「視界は悪いが……道自体は、まだ歩きやすい方だな」
ガルドが小声で言う。
「誰かが通った跡でしょうね。獣道にしては、少し整いすぎている」
ネネが足元を見下ろしながら答えた。
「ゴブリン?」
りんが、できるだけ小さな声で尋ねる。
「可能性は高いです。あとは、時々ここを通る木こりか、小さな村の人々か」
フィオが、地面の跡をちらりと見て言った。
「でも、その人たちが最近は通っていないからこそ、今回の依頼があるわけですが」
りんは、唇を噛む。
(誰かが通っていた道が、“通れなくなった”から、暁の人たちが呼ばれたんだ)
そう考えると、今踏みしめている土が、急に重く感じた。
◇ ◇ ◇
しばらく進んだところで、蓮が片手を上げた。
りんの足が、反射的に止まる。
「……どうしました?」
ネネが前方をうかがいながら小声で問う。
「罠の跡だ」
蓮が、足元の少し先を指さした。
りんもそっと覗き込むと、そこには、落ち葉の隙間から覗く浅い穴と、かすかに切られた枝の痕があった。
「もう使われてはいませんが……」
フィオがしゃがみ込んで、指で土をつまむ。
「最近まで、何度も張られていた形跡がありますね」
「ゴブリンって、罠なんて張れるの?」
りんが思わず口にすると、ライラが小さく頷いた。
「単純な作りなら、ね。落とし穴とか、踏んだら鳴る枝とか。誰かが教えれば、すぐ真似する種類よ」
「誰かが……」
りんの胸のあたりが、ぞわりとする。
(誰かが、教えた。ゴブリンに?)
「今それを考え始めると、先へ進めませんよ」
ネネが、小さく釘を刺した。
「今は、目の前のことに集中を」
「……うん」
◇
蓮は、罠のあった場所を大きく迂回するように進路を変えた。
「こういうものが増えてくるってことは、巣が近いってことでもある」
「そろそろ、“斥候”も出てくる頃ね」
ライラが、そっと弓を握り直す。
りんは、ネネの背の少し後ろで、足音をできるだけ小さくしながら歩き続けた。
空気が、さっきよりさらに重く感じられる。
どこかで、小さく枝が折れる音がした。
「……今度は、風じゃありませんね」
ネネの耳がぴくりと動く。
蓮が、すっと手を上げた。
「全員、止まれ」
声は低く、しかしはっきりしていた。
◇ ◇ ◇
重なり合う木々の向こう、かすかな動きが見えた。
背を丸めた、小さな人型。くすんだ緑色の肌。むき出しの牙。
(ゴブリン……)
りんの喉が、きゅっと鳴る。
見た目は、冒険者の本に描かれていた挿絵に似ている。
ただ、絵よりずっと、生々しくて、汚れていて、目がぎらぎらしていた。
「三匹。距離は近いが、まだこちらに気づいてはいません」
ライラが、息を殺したまま囁く。
「どうする?」
ガルドが短く問う。
「ここは、早めに数を減らしておく」
蓮の判断は速かった。
「偵察とはいえ、帰り道で後ろから追われるのは危険だ。それに──」
蓮は、一瞬りんの方へ視線を送る。
「“初めて”を見るなら、こういう少ない数で見ておいた方がいい」
「……うん」
りんは、ぎゅっと唇を結んだ。
◇
「作戦はシンプルだ。俺とガルドで前を抑える。ライラが足を止める。フィオは逃げそうなやつを優先して拘束」
「了解」
「任せろ」
「分かった」
三人の返事はいつも通り短く、迷いがない。
「ネネ、りんを頼む」
「もちろんです」
ネネは、りんの肩に軽く手を置いた。
「お嬢、ここから先は、ただ見ているだけでいいです。怖くなったら、目を閉じてもかまいません」
「……ううん」
りんは首を振った。
「怖くなっても、ちゃんと見る。だって──」
「だって?」
「見ないまま、終わったって、きっと後で気になるから」
ネネが、ほんの少しだけ目を細めた。
「……お嬢らしいですね」
◇ ◇ ◇
次の瞬間、空気が変わった。
蓮が地面を蹴り、木陰から飛び出す。
ガルドも盾を構えて続いた。
ライラの弓から、矢が一本、風を切って飛ぶ。
ゴブリンのひとりの足元に突き刺さり、ぎゃっと悲鳴が上がった。
「ぎ、ぎゃあッ!」
残りの二匹が振り向く。
ぎょろりとした目に、人影が映った。
「こっちだよ」
蓮の声は低く、冷静だった。
剣の刃が煌めき、ゴブリンの腕から武器を弾き飛ばす。
ガルドの盾が体当たりするようにぶつかり、別の一匹が地面に倒れた。
りんは、大木の陰から、その光景を見つめていた。
(こわい……)
でも、目は閉じなかった。
ゴブリンが、短い刃物を振り回す。
けれど、それは蓮にもガルドにも届かない。
ライラの矢が、もう一本、迷いなく飛ぶ。
フィオが、逃げかけた一匹の足元に、淡い光の鎖を走らせる。
「動いちゃ、だめ」
静かな声とともに、ゴブリンの足が地面に縫いつけられた。
ほどなくして、三匹とも地面に倒れ、動かなくなる。
「……ふぅ」
ガルドが大盾を少し下ろした。
「脅威、排除。致命傷は二体……一体は、どうする?」
蓮が、倒れたゴブリンの様子を確認しながら問う。
ライラが弓を下ろす。
「ここで“見逃して”も、あとで他のパーティが苦労するだけよね」
「そうだな。偵察任務とはいえ……危険因子は減らしておくべきだ」
蓮が短く息を吐く。
りんは、大木の陰で震える手を握りしめた。
(これが、“現実”なんだ)
◇ ◇ ◇
「……りん」
背後から名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
ネネが、小さな声で尋ねた。
「近くで、見ますか?」
「……うん」
りんは、足が少し震えるのを自覚しながらも、ゆっくりと前へ出た。
倒れているゴブリンは、さっきまで威嚇していたときよりも、ただの“生き物”に見えた。
牙も爪も、もう振り上げられない。
(……さっきまで、襲ってくる側だったのに)
胸の奥が、もやもやとする。
「りん。無理はしなくていい」
蓮が言う。
「これは、“現場”の仕事だからな」
「……ううん」
りんは首を振った。
「やっぱり、ちょっとでも……楽にしてあげたい」
ネネが、わずかに目を細める。
「お嬢、やはりそう言うと思いました」
「“とどめ”の代わりに、なにかできるか?」
蓮が問うと、りんは小さく頷いた。
「痛みだけ、消してあげる。……それくらいなら、きっと」
りんは、倒れたゴブリンのそばにしゃがみ込んだ。
胸の前で、そっと手を合わせる。
「もう、痛いのはおしまい。こわいのも、おしまい」
いつもの回復魔法を、少しだけ違う形で。
傷を塞ぐのではなく、“痛み”そのものを薄くしていくように、意識を向ける。
指先に、あたたかな金色の光が灯った。
光が、倒れたゴブリンたちを静かに包み込む。
ぎゅっと硬直していた体から、すこしずつ力が抜けていくのが分かった。
「……」
ライラが、ほんの少しだけ目を見開く。
フィオも、興味深そうにその光を見つめていた。
ガルドは、腕を組んで、短く息を吐く。
「苦しんでねぇ顔になったな」
「そうですね」
ネネが頷いた。
「お嬢の魔法は、“敵”に対しても優しい」
「……それが、いいことかどうかは、まだ分からないけどな」
蓮がぽつりと呟く。
「けど、“悪いことだ”とは、少なくとも俺には言えない」
りんは光を解き、そっと立ち上がった。
「……ありがとう」
誰に向けて言ったのか、自分でもよく分からないまま、そう呟いた。
◇ ◇ ◇




