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魔王の娘  作者: 星空りん
2/4

1 魔王城から、ちょっと遠くまで 1

 りんが目を覚ましたとき、天蓋のカーテンの隙間から、うっすらと紫がかった朝の光が差し込んでいた。


 「あさ……」


 まだ眠たそうに瞬きをすると、腰まで届く金色の髪が、さらりと肩からこぼれ落ちる。ふわふわの布団とクッションに埋もれたベッドから身を起こし、りんは小さく伸びをした。


 「ん〜……なんか、今日はいいこと起こりそうな気がするんだよね〜」


 自分でも理由は分からない。でも、胸の奥がふわっと弾んでいる。


 りんはベッドから降りて、ふかふかのスリッパに足を滑り込ませると、鏡台の前にちょこんと座った。


 鏡の中には、半分眠たげな金色の瞳と、ぼさぼさにふくらんだ金色の髪の少女が映っている。


 「……うん。まずはこれをなんとかしないと、ね」


 くしを手に取って、しゃかしゃかと髪をとかしていく。寝癖で跳ねていた毛先が、すこしずつ素直に揃っていく。


 毛先までととのったところで、りんは両手で髪を左右に分けた。


 「今日は……いつもどおり、かな」


 左右の髪を低い位置でまとめ、大きな白いシュシュでそれぞれ結ぶ。腰まで伸びた金色のローツインテールが、肩口でふわりと揺れた。サイドの髪が光を受けて、淡くきらめく。


 「よし、完ぺき〜」


 満足げに頷くりんの足もとで、布団がもぞりと動いた。


 「ん?」


 りんが振り返るより早く、ベッドの上に黒い影がぴょんと飛び乗る。


 つやつやした黒い毛並み、小さな白い胸元、金色の瞳。


 「おはよう、ネネ」


 「……お嬢。おはようございます」


 黒猫は、ため息まじりに一声鳴くと、その場でくるりと回った。次の瞬間、黒い毛並みが光に溶けるようにほどけ、少女の姿が現れる。


 黒髪セミロングに猫耳、腰にはしなやかな尻尾。エプロン風の黒いワンピースを着た猫獣人の少女──ネネが、りんをじっと見つめていた。


 「お嬢、起きたてから魔力がだだ漏れです。お部屋の空気が、もう甘い匂いになってます」


 「え、そう? いつもと同じだよ〜」


 りんは首をかしげて、自分の手のひらを見つめる。確かに、指先のあたりで、金色の粒がぱちぱちと弾けていた。


 「ほら、こういうの。何もしなくても光ってるんですよ」


 ネネが近づいて、りんの手をそっと包み、指先を軽く押さえる。弾けていた光が、しゅるんと収まった。


 「うぅ……勝手に出ちゃうんだもん。止め方、あんまり分かんないんだよね」


 「そこをどうにかしてくださいって、前から言ってるんですけどね……。とりあえず、朝食に行きましょう。陛下がお待ちです」


 「うん!」


 りんはぱっと立ち上がり、スリッパを脱ぎ捨てて、扉の方へ駆けだした。


 「お嬢、走らない!」


 ネネの小さな叫びが、部屋の中に響いた。



 魔王城の食堂は、天井が高くて、壁一面に大きなタペストリーがかかっている。けれど、りんにとってはもう見慣れた景色で、特別なお城というより、ちょっと広すぎる家の食卓、くらいの感覚だった。


 長いテーブルの奥には、黒いマントを羽織った大きな背中がひとつ。


 「パパ、おはよう!」


 りんが駆け込むと、その背中がピクリと震えた。くるりと振り返った男は、鋭い赤い瞳をしているのに、娘を見た瞬間、表情をふにゃりと緩めた。


 「りん。おはよう」


 魔界の王──魔王でありながら、りんにとっては、ただの親バカな父親だ。


 りんは椅子によじ登ると、テーブルの上をきょろきょろ見回した。


 「わぁ、今日のパン、なんかいい匂いする」


 籠に山盛りになった白パンに、こんがり焼けたクロワッサン。湯気の立つスープに、卵料理。魔界の食卓には珍しく、人間界の絵本で見たようなメニューが並んでいる。


 「新しく仕入れた小麦を、人間界のレシピで焼かせてみた。口に合うかは、おまえの判断に任せる」


 魔王が言うと、りんは目を輝かせてパンをちぎった。


 「いっただきまーす」


 一口かじった瞬間、りんの頬がふわっと緩む。


 「おいしい! ふわふわで、いい匂い。ねえパパ、これ、人間の王都でも食べられるのかな?」


 「王都、か」


 魔王は、りんの何気ない一言に、ほんの少しだけ眉を寄せた。


 「本に書いてあったもん。人間の王都の朝は、パンの匂いがするって。行ってみたら、本当にそうなのかなって……ちょっと、気になっちゃって」


 「お嬢、人間界の話はあまり……」


 ネネが控えめに口を挟むと、りんはパンをもぐもぐさせたまま、首をかしげた。


 「だって、気になるんだもん。ねぇパパ、人間の王都って、どんなところ?」


 魔王はしばし黙ってから、ゆっくりと答える。


 「人間たちの国々の中心だ。城があり、王がいて、民が暮らし、聖堂が建つ。魔界とは違う形の騒がしさと、違う形の狡さが渦巻いている場所だ」


 「なんか……難しい」


 りんはよく分からない、という顔をしながらも、どこか楽しそうに笑った。


 「でも、きっと、笑ってる人も、泣いてる人も、怒ってる人も、いっぱいいるんだよね」


 「それは、どこの世界でも同じだ」


 魔王は苦笑しながら、娘の頭をぽん、と軽く撫でた。


 りんはぱちりと瞬きをして、目を細める。


 「……やっぱり、見てみたいなぁ」


 その小さなつぶやきに、ネネの耳がぴくりと動いた。



 朝食を終えたりんは、ネネと一緒に城内の廊下を歩いていた。


 黒い石造りの廊下には、あちこちに魔法のランプが灯り、天井には魔族たちの紋章が刻まれている。ときどき、角の生えた魔族や、羽を持つ魔族が慌ただしく行き来していた。


 「お嬢。さっきの“見てみたい”って、王都のことですよね」


 「うん」


 りんは窓の外を眺めながら、素直に頷いた。


 「本だけじゃ、全然足りないんだもん。王都の絵も、地図も、パンのレシピも読んだよ? でも、“匂い”とか“空気”とかって、本からじゃ分かんないじゃん」


 「……そうですね」


 ネネは一応同意するものの、その耳と尻尾には「でも危ない」と書いてあるような硬さがあった。


 そんなネネの心配をよそに、りんは足を止めた。


 「わっ、あぶな」


 目の前では、魔族たちが大きな木箱を何段も積んで運んでいるところだった。箱の一番上が、いやなきしみ方をしている。


 「おい、しっかり持て!」


 「む、無理ですって……!」


 傾きかけた箱が、ぐらり、と揺れた。


 ネネが反射的に一歩前に出るより早く、りんは軽く手を上げる。


 「えいっ」


 その一言と同時に、木箱の山がふわりと浮いた。


 魔族たちの腕から負担が消え、箱は宙でゆっくりと回転しながら、少し離れた空きスペースに、音もなく綺麗に積み直される。


 「さ、さすがお嬢……!」


 「いつもながら、規模が違いますね……!」


 魔族たちは額の汗をぬぐいながら、口々にヨイショする。


 りんは「よかった〜」と笑い、手を振った。


 「ごめんね、手伝うの遅くなっちゃって。続き、がんばってね」


 「ははぁ〜!」


 ひざまずきそうな勢いで頭を下げる魔族たちの横で、ネネはこめかみを押さえた。


 「お嬢。ああいうの、人間の前では絶対にやっちゃダメって、何度も……」


 「分かってるよ〜。でも今のは、魔族のお仕事だもん。大丈夫」


 「……そういう問題じゃない気がしますけど」


 ネネのため息を背中に受けながら、りんはまた歩き出す。


 途中、小さな魔物が廊下の隅でうずくまっているのを見つけた。


 丸っこい体に小さな角。どうやら、足をくじいたらしい。


 「わっ、だいじょうぶ?」


 りんはしゃがみ込み、そっと魔物の足に手を添えた。


 「痛いの、ちょっとだけ遠くに行っててね」


 指先に、ほんのり金色の光が灯る。


 魔物の体がぴくんと震え、次の瞬間、何事もなかったかのように立ち上がった。


 「きゅるるっ!」


 元気になった魔物が、りんの足もとをぐるぐる回ってから、尻尾を振って走り去っていく。


 「かわいい〜。よかったね」


 りんが満足げに見送る横で、ネネは頭を抱えた。


 「お嬢。今のも、十分に“すごいこと”なんですよ……」


 「え? だって、ちょっと楽にしてあげただけだよ?」


 「その“ちょっと”の基準を、早めに見直していただきたいんですが……」


 ネネのぼやきは、りんの耳にはあまり届いていないようだった。


◇ ◇ ◇

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