1 魔王城から、ちょっと遠くまで 1
りんが目を覚ましたとき、天蓋のカーテンの隙間から、うっすらと紫がかった朝の光が差し込んでいた。
「あさ……」
まだ眠たそうに瞬きをすると、腰まで届く金色の髪が、さらりと肩からこぼれ落ちる。ふわふわの布団とクッションに埋もれたベッドから身を起こし、りんは小さく伸びをした。
「ん〜……なんか、今日はいいこと起こりそうな気がするんだよね〜」
自分でも理由は分からない。でも、胸の奥がふわっと弾んでいる。
りんはベッドから降りて、ふかふかのスリッパに足を滑り込ませると、鏡台の前にちょこんと座った。
鏡の中には、半分眠たげな金色の瞳と、ぼさぼさにふくらんだ金色の髪の少女が映っている。
「……うん。まずはこれをなんとかしないと、ね」
くしを手に取って、しゃかしゃかと髪をとかしていく。寝癖で跳ねていた毛先が、すこしずつ素直に揃っていく。
毛先までととのったところで、りんは両手で髪を左右に分けた。
「今日は……いつもどおり、かな」
左右の髪を低い位置でまとめ、大きな白いシュシュでそれぞれ結ぶ。腰まで伸びた金色のローツインテールが、肩口でふわりと揺れた。サイドの髪が光を受けて、淡くきらめく。
「よし、完ぺき〜」
満足げに頷くりんの足もとで、布団がもぞりと動いた。
「ん?」
りんが振り返るより早く、ベッドの上に黒い影がぴょんと飛び乗る。
つやつやした黒い毛並み、小さな白い胸元、金色の瞳。
「おはよう、ネネ」
「……お嬢。おはようございます」
黒猫は、ため息まじりに一声鳴くと、その場でくるりと回った。次の瞬間、黒い毛並みが光に溶けるようにほどけ、少女の姿が現れる。
黒髪セミロングに猫耳、腰にはしなやかな尻尾。エプロン風の黒いワンピースを着た猫獣人の少女──ネネが、りんをじっと見つめていた。
「お嬢、起きたてから魔力がだだ漏れです。お部屋の空気が、もう甘い匂いになってます」
「え、そう? いつもと同じだよ〜」
りんは首をかしげて、自分の手のひらを見つめる。確かに、指先のあたりで、金色の粒がぱちぱちと弾けていた。
「ほら、こういうの。何もしなくても光ってるんですよ」
ネネが近づいて、りんの手をそっと包み、指先を軽く押さえる。弾けていた光が、しゅるんと収まった。
「うぅ……勝手に出ちゃうんだもん。止め方、あんまり分かんないんだよね」
「そこをどうにかしてくださいって、前から言ってるんですけどね……。とりあえず、朝食に行きましょう。陛下がお待ちです」
「うん!」
りんはぱっと立ち上がり、スリッパを脱ぎ捨てて、扉の方へ駆けだした。
「お嬢、走らない!」
ネネの小さな叫びが、部屋の中に響いた。
◇
魔王城の食堂は、天井が高くて、壁一面に大きなタペストリーがかかっている。けれど、りんにとってはもう見慣れた景色で、特別なお城というより、ちょっと広すぎる家の食卓、くらいの感覚だった。
長いテーブルの奥には、黒いマントを羽織った大きな背中がひとつ。
「パパ、おはよう!」
りんが駆け込むと、その背中がピクリと震えた。くるりと振り返った男は、鋭い赤い瞳をしているのに、娘を見た瞬間、表情をふにゃりと緩めた。
「りん。おはよう」
魔界の王──魔王でありながら、りんにとっては、ただの親バカな父親だ。
りんは椅子によじ登ると、テーブルの上をきょろきょろ見回した。
「わぁ、今日のパン、なんかいい匂いする」
籠に山盛りになった白パンに、こんがり焼けたクロワッサン。湯気の立つスープに、卵料理。魔界の食卓には珍しく、人間界の絵本で見たようなメニューが並んでいる。
「新しく仕入れた小麦を、人間界のレシピで焼かせてみた。口に合うかは、おまえの判断に任せる」
魔王が言うと、りんは目を輝かせてパンをちぎった。
「いっただきまーす」
一口かじった瞬間、りんの頬がふわっと緩む。
「おいしい! ふわふわで、いい匂い。ねえパパ、これ、人間の王都でも食べられるのかな?」
「王都、か」
魔王は、りんの何気ない一言に、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「本に書いてあったもん。人間の王都の朝は、パンの匂いがするって。行ってみたら、本当にそうなのかなって……ちょっと、気になっちゃって」
「お嬢、人間界の話はあまり……」
ネネが控えめに口を挟むと、りんはパンをもぐもぐさせたまま、首をかしげた。
「だって、気になるんだもん。ねぇパパ、人間の王都って、どんなところ?」
魔王はしばし黙ってから、ゆっくりと答える。
「人間たちの国々の中心だ。城があり、王がいて、民が暮らし、聖堂が建つ。魔界とは違う形の騒がしさと、違う形の狡さが渦巻いている場所だ」
「なんか……難しい」
りんはよく分からない、という顔をしながらも、どこか楽しそうに笑った。
「でも、きっと、笑ってる人も、泣いてる人も、怒ってる人も、いっぱいいるんだよね」
「それは、どこの世界でも同じだ」
魔王は苦笑しながら、娘の頭をぽん、と軽く撫でた。
りんはぱちりと瞬きをして、目を細める。
「……やっぱり、見てみたいなぁ」
その小さなつぶやきに、ネネの耳がぴくりと動いた。
◇
朝食を終えたりんは、ネネと一緒に城内の廊下を歩いていた。
黒い石造りの廊下には、あちこちに魔法のランプが灯り、天井には魔族たちの紋章が刻まれている。ときどき、角の生えた魔族や、羽を持つ魔族が慌ただしく行き来していた。
「お嬢。さっきの“見てみたい”って、王都のことですよね」
「うん」
りんは窓の外を眺めながら、素直に頷いた。
「本だけじゃ、全然足りないんだもん。王都の絵も、地図も、パンのレシピも読んだよ? でも、“匂い”とか“空気”とかって、本からじゃ分かんないじゃん」
「……そうですね」
ネネは一応同意するものの、その耳と尻尾には「でも危ない」と書いてあるような硬さがあった。
そんなネネの心配をよそに、りんは足を止めた。
「わっ、あぶな」
目の前では、魔族たちが大きな木箱を何段も積んで運んでいるところだった。箱の一番上が、いやなきしみ方をしている。
「おい、しっかり持て!」
「む、無理ですって……!」
傾きかけた箱が、ぐらり、と揺れた。
ネネが反射的に一歩前に出るより早く、りんは軽く手を上げる。
「えいっ」
その一言と同時に、木箱の山がふわりと浮いた。
魔族たちの腕から負担が消え、箱は宙でゆっくりと回転しながら、少し離れた空きスペースに、音もなく綺麗に積み直される。
「さ、さすがお嬢……!」
「いつもながら、規模が違いますね……!」
魔族たちは額の汗をぬぐいながら、口々にヨイショする。
りんは「よかった〜」と笑い、手を振った。
「ごめんね、手伝うの遅くなっちゃって。続き、がんばってね」
「ははぁ〜!」
ひざまずきそうな勢いで頭を下げる魔族たちの横で、ネネはこめかみを押さえた。
「お嬢。ああいうの、人間の前では絶対にやっちゃダメって、何度も……」
「分かってるよ〜。でも今のは、魔族のお仕事だもん。大丈夫」
「……そういう問題じゃない気がしますけど」
ネネのため息を背中に受けながら、りんはまた歩き出す。
途中、小さな魔物が廊下の隅でうずくまっているのを見つけた。
丸っこい体に小さな角。どうやら、足をくじいたらしい。
「わっ、だいじょうぶ?」
りんはしゃがみ込み、そっと魔物の足に手を添えた。
「痛いの、ちょっとだけ遠くに行っててね」
指先に、ほんのり金色の光が灯る。
魔物の体がぴくんと震え、次の瞬間、何事もなかったかのように立ち上がった。
「きゅるるっ!」
元気になった魔物が、りんの足もとをぐるぐる回ってから、尻尾を振って走り去っていく。
「かわいい〜。よかったね」
りんが満足げに見送る横で、ネネは頭を抱えた。
「お嬢。今のも、十分に“すごいこと”なんですよ……」
「え? だって、ちょっと楽にしてあげただけだよ?」
「その“ちょっと”の基準を、早めに見直していただきたいんですが……」
ネネのぼやきは、りんの耳にはあまり届いていないようだった。
◇ ◇ ◇




