11 聖女さまの、お礼とため息 2
昼前。
りんとネネは、また街へ出ることにした。
「今日は、昨日の続きで“控えめ食べ歩きデー”ですよ、お嬢」
「控えめ?」
「はい。“一通り全部食べたい”は、控えめではありません」
厳しいネネの基準に、りんは小さく肩を落とした。
それでも、空気は軽い。
星灯りの宿を出て、大通りを歩きながら、りんはあたりをきょろきょろ見回した。
ハーブを山積みにした屋台。焼き菓子の甘い匂い。色とりどりの布を広げる露店。
昨日よりも、街の景色に少しだけ馴染めている気がした。
……その中で、ときどき耳に入ってくる単語を除けば。
「金色の髪の子を見なかったか?」
「聖女様が、この辺りに現れるらしい」
「昨日、あそこの通りで見たって人がいるんだよ」
りんは苦笑いしながらネネを見上げた。
「噂って、本当に早いんだね〜」
「お嬢が他人事みたいに言うの、そろそろやめません?」
ネネが冷静にツッコむ。
「お嬢が中心にいる嵐を、“わぁ、風強いなぁ”って眺めている感じなんですよ」
「う……分かりやすい例えやめて」
りんは少し頬を膨らませた。
ふと、前の方で小さな泣き声が聞こえた。
見ると、石畳の段差で足を滑らせたらしい子どもが、膝を抱えて座り込んでいる。
膝から血がにじんでいて、顔は今にも泣き出しそうだ。
「……っ」
りんの足が、自然とそちらへ向かう。
ネネが、わずかに目を細めた。
「お嬢」
低い制止の声。
りんは一瞬だけ振り返り、それから、ゆっくりと頷いた。
「分かってるよ」
りんは腰を落として、子どもの目線まで視線を下げた。
「大丈夫?」
「いたい……」
子どもが、潤んだ瞳で膝を見つめる。
りんは自分のポケットから、きれいなハンカチを取り出した。
「ちょっとしみるかもだけど、がまんできる?」
「……うん」
りんは水筒の水を少しハンカチに含ませ、そっと膝を拭った。
乾いた血と砂を、できるだけ優しく取り除く。
その指先に、ごくごく小さな魔力を込めた。
光はあくまで、誰の目にも見えないくらい薄く。
(ちょっとだけ、よくなれ)
祈りというほど大げさではない、ほんのささやかな願いを込める。
膝の血は止まり、赤みも少しだけ和らいだ。
子どもは、ちょっと不思議そうにしながらも、ぱちぱちと瞬きをする。
「……さっきより、いたくない」
「よかった」
りんは笑った。
「でも、無理しないでね。今日は走りすぎないように」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん!」
子どもは立ち上がって、ぺこりと頭を下げると、向こうにいた母親の元へ駆けていった。
母親は「もう転ばないでよ」と言いながら、りんにも軽く会釈をして去っていく。
誰も、「聖女様」だなんて呼ばない。
ただの、通りすがりの優しいお姉ちゃん。
それでいい、とりんは思った。
背後から、ネネが近づいてくる。
「……今のくらいでしたら、まぁ許容範囲ですね」
「やった。ネネに合格もらった」
りんは得意げに胸を張った。
「お嬢の“ちょっとだけ”が本当に“ちょっとだけ”だったの、初めて見た気がします」
「初めてって言わないで」
軽口を叩き合いながら、二人はまた歩き出した。
◇
大通りを進んでいくと、街の先に、白い建物が見えてきた。
高い塔。尖った屋根。大きな鐘楼。
壁には、光を象った模様が彫り込まれていて、遠目にも荘厳な雰囲気が伝わってくる。
「……あれって」
りんが足を止める。
「教会ですね。この王都で一番大きな大聖堂ですよ」
ネネが答えた。
「わぁ……きれい」
りんは自然と言葉を漏らしていた。
魔界の城も、それはそれで美しい。
でも、この白い建物は、まるで違う方向の美しさだった。
静かで、まっすぐで、空に向かって祈りを伸ばしているみたいな。
「お嬢」
ネネが横で小さく咳払いする。
「今、あそこがいちばん、お嬢の噂でざわついている場所ですよ」
「え、そうなの?」
「自覚してなかったんですか……」
ネネは軽く額に手を当てた。
りんは教会を見上げたまま、首をかしげる。
(あの中で、“聖女様”とか“神の御業”とか、話してるのかな)
自分がその真ん中にいるなんて、やっぱりまだ実感がわかなかった。
◇
同じ頃。
教会の中では、冷たい石畳の上を足音が響いていた。
大きなホールの奥。祈りの間の隣にある小さな会議室で、数人の神官たちが集まっている。
「本当なのか、その噂は」
ひとりが眉をひそめる。
「足を潰されかけた男が、一瞬で癒やされた……。それも、見たことのない金の光で」
「噂というには、証言が揃いすぎています」
別の者が書類をめくった。
「現場に居合わせた者が何人もおり、そのうち数人は教会の信者です」
「神の御業か、新たな聖女か……」
重苦しい空気が、部屋に漂う。
その隅で、若いシスターがひとり、静かに話を聞いていた。
薄い栗色の髪を三つ編みにし、胸元で組んだ手をぎゅっと握りしめている。
彼女の名は、まだここでは語られない。
ただ、彼女の瞳には、不安と責任と、ほんの少しの疲れが宿っていた。
「噂に振り回されるのは、よくないと思います」
彼女は小さな声で呟いた。
「本当に神の御業なら、いずれ分かります。人の軽率な言葉で、神さまを量るのは……」
「だからこそ、事実の確認が必要なのだよ」
年配の神官が、静かに言葉をかぶせる。
「教会の権威のためだけではない。人々の信仰を守るためにも、真偽を確かめなければならない」
「その“聖女”と呼ばれている子の滞在先は、ほぼ特定できました」
別の神官が紙を掲げる。
「“星灯りの宿”。王都の東通りにある、旅人向けの宿屋です」
「星灯りの宿……」
若いシスターが、その名を胸の中で繰り返した。
(本当に“聖女様”なら……どんな人なんだろう)
好奇心とも、不安ともつかない感情が、胸の奥で静かに揺れた。
◇ ◇ ◇




