10 聖女さまの、お礼とため息 1
朝の星灯りの宿は、静かで、少しだけパンの匂いがした。
りんは窓辺の椅子に座って、外の通りをぼんやり眺めていた。
行き交う人の数は、昨日とあまり変わらない。荷車を押す人、パンを抱えて走っていく少年、店先を掃くおばさん。
ただ、ところどころで立ち止まって話し込んでいる人たちがいて、耳を澄ませば「聖女」とか「光」とか、そんな単語がときどき紛れ込んでいる気がした。
(昨日のギルド、テンプレだったなぁ……)
りんは頬杖をついて、心の中で昨日の出来事を整理していた。
大きな木の掲示板。ごちゃごちゃした酒場みたいな空気。絡んでくる冒険者たち。
そして、ネネがあっさり三人まとめてひっくり返して、受付嬢に「抜剣は禁止です」とぴしゃりと叱られるところまでがセットだ。
(読むだけだった異世界もの、こうして実際に体験してみると、わりと怖い……)
そこまで思い出して、りんは小さく笑った。
「お嬢、なにか楽しいことでも思い出しました?」
背中越しに、ネネの声がした。
振り返ると、ネネが鏡の前でフードの位置を微調整しているところだった。
「うん。ネネ、昨日すっごくかっこよかったなーって」
「お嬢を絡まれたままにしておくわけにはいきませんからね」
ネネは淡々と答えながら、指先でフードの端をつまんで整える。
「それにしても、噂の広がり方が予想以上です。昨日のあの回復、あちこちで話題になっているようですよ」
「うん、なんか“聖女様”って単語、さっきからちらほら聞こえる」
りんは窓の外を見ながら肩をすくめた。
「でも、困ってた人が元気になったなら、結果オーライだよね」
「お嬢がそう言うのは分かりますが、護衛としては胃が痛いところです」
ネネが小さくため息をついた、そのときだった。
コン、コン、と扉を叩く音がした。
「りんお嬢さま、ネネ殿。朝のお時間に失礼いたします」
宿の主人の声だ。
りんとネネは顔を見合わせる。
「はーい、どうぞ」
りんが答えると、扉が少しだけ遠慮がちに開いた。
主人は、いつもの穏やかな笑顔をしているものの、どこか落ち着かない様子だった。
「実は……お嬢さまに、お客様がお見えでして」
「お客さん? わたしに?」
りんが目を瞬かせる。
背後で、ネネの耳がぴくりと動いた。フードの下で、猫耳も同じように反応しているのが分かる。
「はい。朝早くからお越しになって……どうしてもお礼をお伝えしたいと」
「お礼?」
りんは首をかしげたが、すぐにひとつだけ心当たりに辿り着いた。
「もしかして、二日目の通りで……」
「行ってみましょう、お嬢」
ネネが一歩前に出る。
「万が一に備えて、わたしも同行します」
「え、朝から“万が一”出るの?」
「お嬢が関わると、昼夜問わず出る可能性がありますから」
ネネはさらっと言って、扉の前に立った。
りんは小さく笑いながら、その後に続いた。
◇ ◇ ◇
一階の食堂に降りると、窓際の席にひとりの男が座っていた。
がっしりした体格に、日に焼けた肌。二日前、荷車の下敷きになりかけていた、あの男だった。
ただ、その足はもうすっかりしっかりと地面を踏みしめている。杖もいらない様子だ。
りんの姿を見るなり、男は椅子から勢いよく立ち上がった。
「せ、聖女様!」
食堂の空気が、少しだけぴんと張りつめた。
りんは思わず足を止める。
「お、おはよう……?」
「おはようございます、聖女様!」
男は、慣れない敬語でがばっと頭を下げた。
「一昨日は、本当に、本っ当にありがとうございました! あのままだったら、きっと足は潰れていた……いや、命だって危なかったかもしれません。家族ともども、何度礼を言っても足りません!」
「え、えっと……」
りんは戸惑って視線を泳がせた。
(やっぱり、この人だったんだ)
通りに倒れ込んでいた姿。自分の手のひらから溢れた、金と群青の光。
それが、今こうして元気そうに目の前に立っている。
「りんだよ」
りんは、いつもの調子で微笑んだ。
「聖女様じゃなくて、りん。困ってる人見つけたから、つい手を出しちゃっただけだよ」
「い、いえ!」
男はあわてて首を振った。
「光の中で足が治っていくのを、この目で見たんです。あれは神の御業……聖女様以外にありえません!」
「いや、そんな大げさな……」
「聖女様が謙遜なさっている……!」
男は目を潤ませて感動していた。
(違うんだけどなぁ)
りんは心の中で小さくため息をついた。
ネネが、さりげなく一歩前に出る。
「お嬢は、ただ困っている方を見過ごせなかっただけです。どうか、そのお気持ちだけ受け取っていただければ」
「はい……それでも、どうしてもお礼がしたくて……」
男は振り返り、近くの席に置かれていた包みを抱えて戻ってくる。
「これ、ささやかですが、うちの家族からの気持ちです。田舎で作った果物やパン、それと、妻が大事に育てている花を少し……」
包みの口から、赤いりんごや、焼き色のきれいなパン、色とりどりの小さな花束が顔をのぞかせていた。
宿の主人が恐縮して両手を振る。
「いえいえ、そんな、お気遣いなく……」
「どうか受け取ってください! これくらいでは、足りないくらいなので……!」
男の必死さに、りんは思わず笑ってしまった。
「じゃあ……ありがとう。すごく嬉しい」
りんは包みにそっと手を伸ばし、花束を一輪手に取る。
小さな白い花。素朴だけど、どこかあたたかい香りがした。
「綺麗……」
「それ、娘が選んだんです。『聖女様、好きそうな花だね』って」
男は照れくさそうに頭をかいた。
「今度、娘も含めて改めてお礼に伺います。そのときは、どうか顔だけでも見せてやってください」
「うん」
りんは迷いなく頷いた。
「そのときも“りん”でいいからね」
「はい……聖女様。いえ、りん様」
最後まで呼び方は安定しないまま、男は何度も頭を下げて、星灯りの宿を後にした。
◇
食堂に、静けさが戻る。
りんは椅子に腰を下ろし、手に持った花を見つめた。
「……なんか、くすぐったいね」
「お嬢にとっては、こういう“お礼”も初めてでしたか」
ネネが向かいの席に座る。
「魔界でも感謝されることはありますが、“聖女様”と呼ばれることはありませんでしたからね」
「当たり前だよね。魔界の“聖女様”とか、すっごいややこしそう」
りんが苦笑すると、ネネも少しだけ口元を緩めた。
宿の主人が、テーブルの端に包みをそっと置き直す。
「本当に……お嬢さまは、すごい方ですね」
「え?」
りんはきょとんとした。
「命を救った、というだけではなく……あの方の表情を見れば分かります。家族ごと救われたような、そんな顔でした」
主人は感慨深げに言う。
「一昨日から、街では“金の髪の聖女様”の噂でもちきりでしてね」
「もちきり」
りんがオウム返しに呟く。
「教会の方やギルドの方にも、もう話が届いているようです。ここ“星灯りの宿”がその方の滞在先だと知っている人も、少しずつ増えてきております」
主人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしていたら、すみません」
「え、なんで謝るの?」
りんは慌てて首を振る。
「りん、ここ、すごく居心地いいし。ごはんもおいしいし。噂は……まあ、なんとかなるでしょ」
「お嬢の“なんとかなる”は、わたしの胃にダメージがくるやつです」
ネネがぼそっと言った。
それでも、その声には少しだけ安心が混じっている。
りんは花束をそっと鼻に近づけ、小さく息を吸った。
(“聖女様”か……)
胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったく、ほんの少しだけ重たくなる。
けれど、それでもやっぱり──
(助けられてよかったなぁ)
その気持ちの方が、何倍も大きかった。




