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魔王の娘  作者: 星空りん
11/19

10 聖女さまの、お礼とため息 1

 朝の星灯りの宿は、静かで、少しだけパンの匂いがした。


 りんは窓辺の椅子に座って、外の通りをぼんやり眺めていた。


 行き交う人の数は、昨日とあまり変わらない。荷車を押す人、パンを抱えて走っていく少年、店先を掃くおばさん。


 ただ、ところどころで立ち止まって話し込んでいる人たちがいて、耳を澄ませば「聖女」とか「光」とか、そんな単語がときどき紛れ込んでいる気がした。


 (昨日のギルド、テンプレだったなぁ……)


 りんは頬杖をついて、心の中で昨日の出来事を整理していた。


 大きな木の掲示板。ごちゃごちゃした酒場みたいな空気。絡んでくる冒険者たち。


 そして、ネネがあっさり三人まとめてひっくり返して、受付嬢に「抜剣は禁止です」とぴしゃりと叱られるところまでがセットだ。


 (読むだけだった異世界もの、こうして実際に体験してみると、わりと怖い……)


 そこまで思い出して、りんは小さく笑った。


 「お嬢、なにか楽しいことでも思い出しました?」


 背中越しに、ネネの声がした。


 振り返ると、ネネが鏡の前でフードの位置を微調整しているところだった。


 「うん。ネネ、昨日すっごくかっこよかったなーって」


 「お嬢を絡まれたままにしておくわけにはいきませんからね」


 ネネは淡々と答えながら、指先でフードの端をつまんで整える。


 「それにしても、噂の広がり方が予想以上です。昨日のあの回復、あちこちで話題になっているようですよ」


 「うん、なんか“聖女様”って単語、さっきからちらほら聞こえる」


 りんは窓の外を見ながら肩をすくめた。


 「でも、困ってた人が元気になったなら、結果オーライだよね」


 「お嬢がそう言うのは分かりますが、護衛としては胃が痛いところです」


 ネネが小さくため息をついた、そのときだった。


 コン、コン、と扉を叩く音がした。


 「りんお嬢さま、ネネ殿。朝のお時間に失礼いたします」


 宿の主人の声だ。


 りんとネネは顔を見合わせる。


 「はーい、どうぞ」


 りんが答えると、扉が少しだけ遠慮がちに開いた。


 主人は、いつもの穏やかな笑顔をしているものの、どこか落ち着かない様子だった。


 「実は……お嬢さまに、お客様がお見えでして」


 「お客さん? わたしに?」


 りんが目を瞬かせる。


 背後で、ネネの耳がぴくりと動いた。フードの下で、猫耳も同じように反応しているのが分かる。


 「はい。朝早くからお越しになって……どうしてもお礼をお伝えしたいと」


 「お礼?」


 りんは首をかしげたが、すぐにひとつだけ心当たりに辿り着いた。


 「もしかして、二日目の通りで……」


 「行ってみましょう、お嬢」


 ネネが一歩前に出る。


 「万が一に備えて、わたしも同行します」


 「え、朝から“万が一”出るの?」


 「お嬢が関わると、昼夜問わず出る可能性がありますから」


 ネネはさらっと言って、扉の前に立った。


 りんは小さく笑いながら、その後に続いた。


◇ ◇ ◇


 一階の食堂に降りると、窓際の席にひとりの男が座っていた。


 がっしりした体格に、日に焼けた肌。二日前、荷車の下敷きになりかけていた、あの男だった。


 ただ、その足はもうすっかりしっかりと地面を踏みしめている。杖もいらない様子だ。


 りんの姿を見るなり、男は椅子から勢いよく立ち上がった。


 「せ、聖女様!」


 食堂の空気が、少しだけぴんと張りつめた。


 りんは思わず足を止める。


 「お、おはよう……?」


 「おはようございます、聖女様!」


 男は、慣れない敬語でがばっと頭を下げた。


 「一昨日は、本当に、本っ当にありがとうございました! あのままだったら、きっと足は潰れていた……いや、命だって危なかったかもしれません。家族ともども、何度礼を言っても足りません!」


 「え、えっと……」


 りんは戸惑って視線を泳がせた。


 (やっぱり、この人だったんだ)


 通りに倒れ込んでいた姿。自分の手のひらから溢れた、金と群青の光。


 それが、今こうして元気そうに目の前に立っている。


 「りんだよ」


 りんは、いつもの調子で微笑んだ。


 「聖女様じゃなくて、りん。困ってる人見つけたから、つい手を出しちゃっただけだよ」


 「い、いえ!」


 男はあわてて首を振った。


 「光の中で足が治っていくのを、この目で見たんです。あれは神の御業……聖女様以外にありえません!」


 「いや、そんな大げさな……」


 「聖女様が謙遜なさっている……!」


 男は目を潤ませて感動していた。


 (違うんだけどなぁ)


 りんは心の中で小さくため息をついた。


 ネネが、さりげなく一歩前に出る。


 「お嬢は、ただ困っている方を見過ごせなかっただけです。どうか、そのお気持ちだけ受け取っていただければ」


 「はい……それでも、どうしてもお礼がしたくて……」


 男は振り返り、近くの席に置かれていた包みを抱えて戻ってくる。


 「これ、ささやかですが、うちの家族からの気持ちです。田舎で作った果物やパン、それと、妻が大事に育てている花を少し……」


 包みの口から、赤いりんごや、焼き色のきれいなパン、色とりどりの小さな花束が顔をのぞかせていた。


 宿の主人が恐縮して両手を振る。


 「いえいえ、そんな、お気遣いなく……」


 「どうか受け取ってください! これくらいでは、足りないくらいなので……!」


 男の必死さに、りんは思わず笑ってしまった。


 「じゃあ……ありがとう。すごく嬉しい」


 りんは包みにそっと手を伸ばし、花束を一輪手に取る。


 小さな白い花。素朴だけど、どこかあたたかい香りがした。


 「綺麗……」


 「それ、娘が選んだんです。『聖女様、好きそうな花だね』って」


 男は照れくさそうに頭をかいた。


 「今度、娘も含めて改めてお礼に伺います。そのときは、どうか顔だけでも見せてやってください」


 「うん」


 りんは迷いなく頷いた。


 「そのときも“りん”でいいからね」


 「はい……聖女様。いえ、りん様」


 最後まで呼び方は安定しないまま、男は何度も頭を下げて、星灯りの宿を後にした。



 食堂に、静けさが戻る。


 りんは椅子に腰を下ろし、手に持った花を見つめた。


 「……なんか、くすぐったいね」


 「お嬢にとっては、こういう“お礼”も初めてでしたか」


 ネネが向かいの席に座る。


 「魔界でも感謝されることはありますが、“聖女様”と呼ばれることはありませんでしたからね」


 「当たり前だよね。魔界の“聖女様”とか、すっごいややこしそう」


 りんが苦笑すると、ネネも少しだけ口元を緩めた。


 宿の主人が、テーブルの端に包みをそっと置き直す。


 「本当に……お嬢さまは、すごい方ですね」


 「え?」


 りんはきょとんとした。


 「命を救った、というだけではなく……あの方の表情を見れば分かります。家族ごと救われたような、そんな顔でした」


 主人は感慨深げに言う。


 「一昨日から、街では“金の髪の聖女様”の噂でもちきりでしてね」


 「もちきり」


 りんがオウム返しに呟く。


 「教会の方やギルドの方にも、もう話が届いているようです。ここ“星灯りの宿”がその方の滞在先だと知っている人も、少しずつ増えてきております」


 主人は申し訳なさそうに頭を下げた。


 「ご迷惑をおかけしていたら、すみません」


 「え、なんで謝るの?」


 りんは慌てて首を振る。


 「りん、ここ、すごく居心地いいし。ごはんもおいしいし。噂は……まあ、なんとかなるでしょ」


 「お嬢の“なんとかなる”は、わたしの胃にダメージがくるやつです」


 ネネがぼそっと言った。


 それでも、その声には少しだけ安心が混じっている。


 りんは花束をそっと鼻に近づけ、小さく息を吸った。


 (“聖女様”か……)


 胸の奥が、ほんの少しだけくすぐったく、ほんの少しだけ重たくなる。


 けれど、それでもやっぱり──


 (助けられてよかったなぁ)


 その気持ちの方が、何倍も大きかった。

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