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魔王の娘  作者: 星空りん
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プロローグ ちょっとだけ最強な魔王の娘

プロローグ ちょっとだけ最強な魔王の娘


 目を開けたら、白かった。


 真っ白、というよりも、色が全部抜けてしまったみたいな世界。上下も、右と左もわからない。音も温度もなくて、自分が立っているのか浮いているのかさえ、あやふやだ。


 「……夢、かな」


 そう呟いた声だけが、ぽつんと落ちて、すぐに溶けた。


 『夢にしては、ちょっと本気すぎるかな』


 不意に、どこからともなく声がした。


 「うわっ」


 思わず肩が跳ねる。振り向いても、誰もいない。けれど、声の主が“ここにいる”ということだけは、妙にはっきりわかった。


 『ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけど』


 「えっと……あなたは?」


 『ここでの名前は特にないよ。わかりやすく言うなら──そうだね、“転生担当”ってところかな』


 「雑な自己紹介だなあ」


 思わずツッコミが出た。自分の声なのに、少しだけこだまのように響く。


 (……転生担当?)


 単語の意味はわかる。問題は、それが“今の自分”とどう繋がるかだ。


 「もしかして、わたし」


 『うん。死んだよ』


 「軽っ!」


 予想はしていたけれど、あまりにもあっさりした言い方に、反射的に声が裏返る。


 『階段』


 「階段」


 『残業帰り、ふらふらの足取りで駅の階段を上って、ちょっと足を踏み外した』


 「あー……」


 ぼんやりとした記憶が、白い世界にゆっくりと浮かび上がる。会社。パソコンの光。終電。暗いホーム。重たい足。眠気。あの、一瞬だけ、バランスを崩した感覚。


 「……まあ、やりかねないな、わたし」


 『自覚があるのはいいことだよ』


 声が、くすりと笑った。


 「で、ここは?」


 『さっきも言ったけど、“転生の窓口”みたいなところ』


 「市役所のカウンターみたいに言わないでほしい」


 『実際、そんなに変わらないよ。受付して、説明して、判子もらって、次の世界へどうぞ、って感じ』


 「判子押すんですか、来世」


 『比喩表現だよ』


 白い世界なのに、なぜか相手が肩をすくめた気配がした。


 『きみみたいなケースは、そんなに珍しくない』


 「過労と不注意で階段落ちって、そんな量産型みたいに言われるとつらい」


 『でも、そのぶん、こっちの裁量で“特典”をつけやすい』


 「特典?」


 『きみ、前から思ってたでしょ。“魔法があればなあ”って』


 心臓が、どくん、と鳴った。


 (……あ)


 思い返すまでもない。


 仕事でミスして怒られた日。

 終わらないタスクを前に徹夜した夜。

 雨の中、重い荷物を抱えて家まで歩いた帰り道。


 「魔法で全部なんとかできたらいいのに」


 何度も、何度も、心の中でそう呟いていた。


 『だから、用意したよ』


 「用意」


 『きみの望んでいた、“魔法でだいたいどうにかできる世界”』


 呼吸が、少しだけ早くなる。


 「ファンタジー世界、ってことですか」


 『そう。魔法あり、魔物あり、人間あり。剣もあるし、ドラゴンもいる』


 「ドラゴンまでサービスしてくれるんだ……」


 『ただ、ただの異世界転生だと、きみの場合ちょっと物足りないと思ってね』


 「物足りない?」


 『全部がんばって、自分で這い上がる人生は、一回やったでしょ』


 胸の奥が、ちくりとした。


 『だから今回は、少し“チート”を盛ることにした』


 「チート」


 その単語には、読んできた無数のラノベと漫画がくっついている。


 『魔力量:世界最高峰クラス。

  属性:ほぼ全部。

  適性:努力すればいくらでも伸びるし、努力しなくてもそこそこ最強』


 「そこそこ最強ってなに」


 『きみの感覚だと、“あ、この世界の人たち、みんな魔法すごいな〜。わたしもがんばろ〜”くらいのノリで使うことになると思う』


 「いやいやいや」


 『たぶん、自分が一番おかしいって自覚しないから大丈夫』


 「それ、ほんとうに“大丈夫”って言っていいやつですか?」


 『少なくとも、世界が一瞬で滅びる方向には行かないはず』


 「“はず”って言った今」


 声が、わざとらしく咳払いをした。


 『それと、もうひとつ。家族のこと』


 「家族」


 『前の世界のきみ、あんまり甘えられなかったでしょ』


 「…………」


 否定できない。

 “ちゃんとしなきゃ”という気持ちが先に立って、弱音を飲み込んでばかりだった。


 『だから今回は、最初から甘やかしてくれる親をつけておいた』


 「そんなカスタマイズまでできるんですね」


 『できるよ。だってこれは、“きみの次の人生”だから』


 声が少しだけ柔らかくなった。


 『転生先の父親は──魔王』


 「魔王」


 『世界のラスボス候補みたいな存在。

  戦えば国が吹き飛ぶし、睨めばドラゴンがひれ伏す』


 「こわ」


 『でも、今回の魔王は、きみに対してだけは“超親バカ”に設定してあるから安心して』


 「設定って言ったよね今」


 『言ったね』


 「魔王が親バカって、世界、大丈夫なんですか」


 『きみが適度にブレーキをかけてくれると信じてる』


 「わたしに世界の安定を頼らないでほしい」


 とは思うけれど、胸の奥で何かが、少しだけ温かくなった。


 魔王。

 ラスボス。

 それでも、自分を抱きしめてくれる父親。


 (……ちょっと見てみたいかも)


 『見られるよ』


 声が、こちらの心を覗き込んだように言った。


 『それから、これはおまけだけど』


 「まだあるんだ」


 『きみの魔法、見た目も少し特別にしてある』


 「見た目?」


 『夜明け前の空みたいな色。

  光でも闇でもなく、その間にある、やわらかな群青と金の粒』


 想像するだけで、胸が高鳴る。


 『人間から見れば“聖女の奇跡”に見えるし、魔族から見れば“魔王の血を引く特別な魔力”に見える。どちらでもあって、どちらでもない力だ』


 「欲張りセットだ……」


 『きみの髪は、陽を抱きこんだみたいな金色にしておいたよ』


 「髪?」


 『よく伸びる髪質だから、腰まで伸ばすこともできる。たとえば、低い位置で大きなシュシュで結んだローツインテールにして、光を受けるたびにサイドの髪がふわりと流れる感じとかね』


 「完全に好みをわかっている……!」


 思わず素で感心してしまう。


 『気に入ってもらえたなら、なにより』


 「そこまでやってくれるなら、判子くらい喜んで押しますよ」


 『だから比喩だってば』


 白い世界の“どこか”で、机と書類と判子が笑っているような気がした。


 『さて』


 声の調子が、少しだけ改まる。


 『そろそろ、行こうか』


 「……ひとつだけ、いいですか」


 『どうぞ』


 「次の世界、平和ですか」


 少しの沈黙。


 『きみしだい、かな』


 「またそれ……」


 『でも、前の世界より、きみが“自分のために”笑える余地はたくさんあるよ』


 「……それなら」


 いいかもしれない。


 『じゃあ、行くよ』


 視界の白が、ゆっくりと色づき始める。

 群青と、淡い紫と、金色の光。

 夜と朝のあいだにある、一瞬だけの色。


 『おやすみ』


 声が遠のいていく。


 『そして──おはよう、りん』


 名前を呼ばれた気がした瞬間、意識がふっと落ちた。


◇ ◇ ◇


 最初に聞こえたのは、誰かの荒い息づかいだった。


 「……っ、産まれるぞ!」


 「魔王陛下、お、おちつきください!」


 「おちついていられるか!我が娘が生まれるのだぞ!」


 耳のすぐそばで響く、低くてよく通る声。怖い、というより、慣れていないせいで音量調節に失敗している感じだ。


 視界はぼやけている。


 石造りの天井。揺れる炎。黒い影。

 身体はやけに重くて、自分の腕も足も、まともには動かない。


 (……これが、たぶん)


 生まれたて。


 誰かの腕に抱き上げられる。生暖かい感触。狭かった場所から、急に外の空気にさらされて、肌がひやりとした。


 「おぎゃ」


 自分の口から漏れた声が、あまりにも教科書どおりで、内心で「本当に言うんだ」と思っているあいだに、周囲がどよめいた。


 「産まれた……!」


 「魔王陛下っ、無事に!」


 「よくやった、おまえたち!」


 さっきの低い声が、すぐ近くで震えた。


 大きな何かに抱きかかえられる。

 硬いはずの胸板が、いまはやけに慎重で、ぎこちなくて、でもやさしい。


 「……小さいな」


 耳のすぐそばで、ぽつりと呟く。


 「こんなに小さいものが、本当にこれから大きくなっていくのか」


 「陛下、もう少し腕の力を抜いていただかないと、お嬢様が苦しゅうございます」


 横から医師らしき魔族の声がした。


 「お、おお。そうか。落とすまいと……」


 「落としませんから、大丈夫です」


 「万が一にも落とせるか!」


 「だから落としませんってば!」


 騒がしい。けれど、その騒がしさが嫌ではなかった。


 そのとき、ふと、部屋の空気が揺れた。


 小さな自分の指が、空をつかむように、ぴくりと動く。


 その瞬間、天井近くにあった燭台の炎が、ふわっと膨らんだかと思うと、落ちかけていた蝋燭が元の位置に戻った。


 部屋の隅に積まれたタオルが崩れかけて、崩れる前に空中で止まり、きれいに積み直される。


 「……今、なにか」


 医師が目を見開く。


 淡い光が、部屋に満ちた。


 夜明け前の空みたいな、群青と紫と金が混ざった光。

 誰もが息を呑む間に、それはすっと消えた。


 「魔力の……波動……?」


 「なんという濃度……!」


 「生まれたてで、ここまでの質……!」


 「さすがは魔王陛下の──」


 「静まれ」


 魔王と呼ばれた男が、短くそう言った。


 静寂。

 しかし彼の腕に伝わる震えは、誰にも止められない。


 「そうか」


 低く呟いて、彼は腕の中の赤ん坊──つまりわたし──を見つめる。


 まだ柔らかな髪が、額に少し貼り付いている。

 色は、炎の光を受けて淡く輝く金色だった。


 「……少し、強いようだ」


 「“少し”でございますか、陛下!?」


 「少しだ」


 医師の叫びを、魔王は当然のように受け流す。


 そして、ごく自然な動きで、わたしの額にそっと唇を寄せた。


 「りん」


 その名は、わたしの中に残っていた“前の名前”と不思議と重なって、するりと馴染んだ。


 「今日から、おまえはこの世界のりんだ」


 意味なんてわからない。

 それでも、どこか懐かしくて、安心する音だった。


 「……んぎゃ」


 適当な返事をすると、部屋のあちこちから、感嘆とも悲鳴ともつかない声が漏れた。


 「かわいい……!」


「さすがはお嬢……!」


 「お嬢って呼ぶのはまだ早いだろう」


 そう言いながらも、魔王の声は、どうしようもなく誇らしげだった。


◇ ◇ ◇


 年月は、魔界でもそれなりに早く過ぎていく。


 りんが自分の意志で歩き始めたころ──


 廊下を歩けば、魔族たちが左右に分かれるようになった。


 「お嬢、お気をつけて!」


 「今日もたいへんお美しい……!」


 「そのよちよち歩きすら、我らにはまぶしく……!」


 「おまえたち、道をあけすぎだ。落ちたらどうする」


 後ろを歩く魔王が眉をひそめる。


 「陛下、でしたらお抱きになれば……」


 「いや、本人が歩きたいと言っているからな」


 「りん、あるく!」


 当時のわたしは、なぜか語尾をやたら強く言いたがる年頃だった。


 「ほら見ろ」


 「陛下が甘いからこうなるのです……」


 そんなやりとりを何度も聞きながら、わたしは石の廊下をぺたぺたと歩き続けた。


 やがて言葉を覚え、魔法の扱いを覚え──というより、思ったことがそのまま魔法になってしまう性質があることが判明したころには、魔王城はすっかり“りん対策マニュアル”を整えることになっていた。


 「お嬢の“ちょっとだけ”は信用するな」


 「お嬢のくしゃみの前に、必ず結界を張れ」


 「お嬢の“きれい〜”のひと言で、周辺の植生が変わる可能性あり」


 そんな注意書きが、真面目な書式で回覧される程度には、わたしの魔法は世界に影響を与えやすかったらしい。


 当の本人はというと──


 「魔法ってべんり〜」


 その程度の認識しかなかった。


◇ ◇ ◇


 そして今。


 りんが、ようやく“自分の姿”を意識し始める年頃になった朝。


 魔王城の窓から差し込む光が、一人の少女の髪を照らしていた。


 腰まで届く金色の髪。

 低い位置でふたつに分けられ、大きな白いシュシュで結ばれている。

 歩くたびに、ローツインテールがやわらかく揺れ、サイドに流れた髪が光を受けて、ふわりと輝いた。


 鏡の前で、その髪を手ぐしで整えながら、りんはあくびを噛み殺す。


 「ねむ……」


 「お嬢、寝癖がまだ残ってますよ」


 足元から聞こえた声に、りんは視線を落とした。


 黒猫が一匹、床の上で丸くなっている。

 胸元だけ白い毛が混ざっていて、金色の瞳がじっとこちらを見上げていた。


 「ネネ〜」


 りんが両手を伸ばすと、黒猫は素直に抱き上げられた。


 次の瞬間、猫の身体がふわりと光に包まれる。


 腕の中の重さが少し変わり、毛並みがするするとほどけて、人の形を形作っていく。


 「わっ」


 慌てて手を離すと、床の上に、黒髪の少女が軽やかに着地した。


 猫耳。

 腰には、さっきまでの尻尾と同じ細い尾。

 黒いシンプルなワンピースにエプロンをつけた、猫獣人の少女──ネネだ。


 「おはようございます、お嬢」


 ネネは、少しだけ眠そうな目をしたりんを見て、ふうっとため息をついた。


 「今日も魔力だだ漏れですね。部屋の空気が甘いです」


 「そう?」


 りんは自分の手をひらひらと振ってみる。


 指先から、かすかな光がこぼれた。夜明け前の空のような淡い群青と金の粒が、すぐに消えていく。


 「これくらい、みんなやってるでしょ?」


 「やってません。普通の魔族が同じことしたら、一日で床と仲良しです」


 ネネの尻尾が、不満げにぱたぱたと揺れた。


 「ほら、髪。せっかくきれいな金色なんですから、ちゃんと梳かしてください」


 「ネネがやってくれるからいいの」


 「お嬢はほんと、人使い……いえ、猫使いが荒い」


 言いつつ、ネネは櫛を手にとり、りんのローツインテールを丁寧に梳き始めた。


 金色の髪が、櫛の動きに合わせてさらさらと流れる。

 大きな白いシュシュが、朝の光を受けてきらりと光った。


 「痛くない?」


 「大丈夫〜。ネネ、手つきやさしいし」


 「当然です。魔王陛下直々の“お嬢専属お世話係”ですから」


 誇らしげに言いながらも、その口調には、どこか保護者めいた心配が混ざっている。


 「はい、できました。今日も可愛いです」


 「えへへ」


 りんが照れたように笑う。


 ネネはその笑顔を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 「じゃ、朝ごはん行こっか」


 「はいはい。途中で変な魔法は使わないでくださいね」


 「使わないよ〜。たぶん」


 「“たぶん”の時点で不安しかないんですけど」


 そんなやりとりをしながら、二人は部屋を出た。


◇ ◇ ◇


 魔王城の食堂は、朝から活気に満ちている。


 とはいえ、その中心にいるのは、いつも同じ二人だ。


 「おはよ〜」


 扉を押し開けて入ってきたりんに、周囲の魔族たちが一斉に立ち上がった。


 「お嬢、おはようございます!」


 「今日もたいへんお美しい……!」


 「そのローツインテール、まぶしすぎて直視できません……!」


 「おまえたち、少しは落ち着け」


 奥の席から、低い声が飛んでくる。


 黒いマントを羽織った男──魔王が、腕を組んで座っていた。


 けれど、りんが駆け寄ると、その表情はあっという間に緩む。


 「パパ、おはよ」


 りんは迷いなく隣の席に座り、テーブルの上を覗き込んだ。


 焼きたてのパン。

 香りのいいスープ。

 肉料理に、色とりどりの野菜。


 昔の魔王城では考えられなかったような豊かな献立だ。


 「今日のスープ、ちょっと味うすい?」


 ひとくち飲んで、りんが首をかしげる。


 「十分だと思うが」


 魔王が答える。


 「お嬢が以前味付けしてくださったときは、たいへん深みのある、忘れがたい味でございました……!」


 料理長の魔族が、思い出して震えた。


 「じゃあ、ちょっとだけ足そっか」


 りんはスープ皿の上に手をかざした。


 指先から流れ出る光。

 香りの粒が空中にふわふわと浮かび、スープに溶けていく。


 たちまち、部屋いっぱいに食欲をそそる匂いが広がった。


 「……!」


 その場の全員が、ごくりと喉を鳴らす。


 「はい、パパ。味見して」


 差し出されたスープ皿を受け取り、魔王は静かにスプーンを口に運んだ。


 「……うまい」


 ぽつりとこぼれた一言に、食堂がざわめく。


 「出た……!」


 「魔王陛下の“うまい”が出た……!」


 「年に何度も聞けぬ貴重なお言葉……!」


 りんはにこにこしながら、自分の皿にも同じように魔法をかけた。


 「ね、魔法ってべんり」


 当たり前のように言う娘を見ながら、魔王は内心でため息をつく。


 (べんり、で済ませられる力ではないのだが)


 彼女が何気なくかけたその魔法は、味を整えるだけではない。

 食材の鮮度を保ち、毒を抜き、栄養のバランスまで調整している。


 魔王軍が昔より健康で丈夫になった理由の半分は、きっとこの“ついで”の魔法のせいだろう。


 「今日の予定は?」


 スープを飲みながら、魔王が問う。


 「えっとね、中庭でネネと遊んで、魔法の練習して、本読んで、おやつ食べて、昼寝して──」


 「忙しそうだな」


 「りんの一日は多忙なんだよ?」


 胸をはる娘に、魔王は小さく笑った。


 「危ないところには近づくな」


 「はーい」


 返事は軽い。


 けれど、約束を守る子だということを、魔王はよく知っていた。


 問題があるとすれば──


 (この城で一番“危ない”のは、おまえ自身だということだ)


 という事実くらいだ。


◇ ◇ ◇


 朝食を終えたりんは、ネネと一緒に中庭へ向かった。


 黒い城壁に囲まれたその場所には、色とりどりの花が咲き乱れている。魔界の毒花と、人間界から持ち込まれた草花と、りんが“きれい〜”と一度言っただけで変異した謎の植物が、仲良く同居していた。


 「風、ちょっとだけ、さわやかに」


 りんが空へ手を伸ばす。


 柔らかな風が、中庭を撫でた。

 花の香りと土の匂いが混ざって、心地よい空気に変わる。


 「ついでに、あそこの花壇、元気にな〜れ」


 すこししょんぼりしていた花々が、一斉にしゃんと立ち上がった。


 「お嬢、“ちょっとだけ”って言いましたよね」


 ネネの耳がぴくりと動く。


 「うん、“ちょっとだけ”だよ?」


 「これ、普通の庭師から見たら、十年分の手入れです」


 尻尾をぱたぱたさせながら、ネネはため息をついた。


 「でも、きれいになったよ?」


 「きれいですけど……世界のバランスって概念、知ってます?」


 「しってる〜。“やりすぎないように気をつけよう”ってパパに言われた」


 「その“やりすぎない”のラインを、いったいどこに引いてるのか聞きたいです」


 呆れたように言いながらも、ネネの表情はどこか楽しそうだった。


 「ねえネネ」


 花壇の前に腰を下ろしながら、りんがぽつりと口を開く。


 「人間の街って、どんなところ?」


 ネネの耳が、ぴんと立った。


 「……またそれですか」


 「だって気になるもん。人間の本、いっぱい読んだけど、ほんもの見てみたい」


 りんの金色の瞳が、遠くを見つめる。


 「パン屋さんとか、市場とか、お祭りとか。魔界にはないもの、いっぱいあるんでしょ?」


 「ありますけど」


 ネネは尻尾をゆっくり揺らした。


 「人間は、魔族を怖がりますよ」


 「りんのことも?」


 「見た目だけなら、ただの可愛い女の子ですけどね。問題は、その後ろにある魔力と、魔王陛下という存在で……」


 「パパのこと、悪く言わないでね」


 りんがむっとする。


 「悪く言ってないですよ。ただの事実です」


 ネネは肩をすくめた。


 「それに、お嬢が人間界に行こうとすると、護衛隊と魔王会議が発狂します」


 「なんで?」


 「“魔王の娘が人間界へ観光に”ってだけで、大事件なんですよ、あちら的には」


 「観光って言った」


 「実際そうじゃないですか」


 りんは少し考えてから、口を尖らせた。


 「りん、戦いに行きたいわけじゃないもん。ただ、見てみたいだけ」


 「それが一番、止めづらいんですよねえ……」


 ネネは空を見上げる。


 魔王城の上空には、いつも薄い雲がかかっている。

 その向こうに、たぶん人間界の空もつながっているのだろう。


 (どうせ、いつかは止められなくなる)


 ネネは心の中で小さくため息をついた。


 魔界最強クラスの魔力を持つ魔王の娘が、人間の街を“見てみたい”と言い出したなら。


 それはきっと、世界がゆっくりと動き出す合図だ。


 「りん」


 不意に、背後から声がした。


 振り返ると、いつの間にか中庭の入口に魔王が立っていた。


 「パパ!」


 りんは駆け寄り、その胸に勢いよく飛び込む。


 魔王はよろめきながらも、しっかりと娘を受け止めた。


 「また、外にまで魔力を漏らしているぞ」


 「え、さっきちょっと風と花だけだよ?」


 「その“ちょっと”で、城の結界が喜びすぎて震えていた」


 「結界が喜ぶってなに」


 「良くない兆候だ」


 魔王はため息をついた。


 「おまえの魔法は、世界の理に触れている。あまりやりすぎると、人間界にも影響が出るぞ」


 「……人間界」


 りんの目が、きらりと光った。


 「ねえパパ」


 「なんだ」


 「人間の街って、どんなところ?」


 魔王の眉が、わずかに動く。


 中庭の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。


 ネネはそっと耳を伏せ、尻尾を丸める。


 「賑やかで、せわしない。弱くて、賢くて、欲深い者たちの世界だ」


 魔王は、遠くを見るような目をした。


 「そこに、りんも行ってみたい?」


 「うん。見てみたい」


 迷いのない返事。


 魔王はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと頷く。


 「いずれ、見せてやろう」


 「ほんと?」


 「魔王の言葉は重いぞ」


 「やった!」


 りんのローツインテールが、嬉しさでふわりと跳ねる。

 金色の髪が、朝の光を受けてやわらかく流れた。


 その光景を見ながら、ネネは胸の奥でひそかに思う。


 (たぶん、その“いずれ”は、そんなに遠くない)


 魔王の娘であり、転生者であり、自分の力を“ちょっとべんり”くらいにしか思っていない少女。


 その小さな「見てみたい」が、やがて魔界と人間界のあいだに、静かに波紋を広げていくことになる──


 このときのりんは、まだなにも知らない。


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