夜の街の白
第1章:夜の街の白
夜の街を歩く悠真の足音は、静かな路地に吸い込まれるように消えていった。空は暗く澄み、星の光もわずかにしか届かない。いつもと変わらぬはずの街並みが、どこか違って見えた。歩道の石畳は濡れて光り、建物の窓は眠ったままの街を静かに見下ろしている。
その時、遠くに白く輝く建物が見えた。白い壁、白い屋根、そして周囲に漂う淡い光。街の闇に浮かぶその建物は、悠真の胸をざわつかせた。「あれは…何だ?」思わず足が向く。
建物の前に立つと、重厚な扉には小さな札が掛かっていた。「白い図書館」。文字はどこか柔らかく光り、見る者を拒むこともなく、誘うように漂っていた。悠真は息を呑み、扉を押した。
中に入ると、空気はひんやりとしている。だが、冷たさは不快ではなく、むしろ心を落ち着かせるものだった。天井まで届く書架には、無数の本が並び、静寂の中でかすかにページが揺れている。まるで建物自体が呼吸しているかのようだった。
「…いらっしゃい。」
悠真が振り返ると、小さなリスが立っていた。手の平ほどの高さで、灰色の毛並みは月光に淡く光る。瞳は知的で、どこか人間の感情を映しているようだった。
「君…迷い込んだのかな?」リスは口を開いた。言葉を発するその姿に、悠真は一瞬目を疑った。しかし声は確かに届き、意味もはっきりしていた。
「迷い込んだ…のかもしれません」悠真はつぶやくように答えた。言葉が口を通るたび、胸の奥が微かに揺れた。街の夜はいつも通りでも、自分の感覚は変わってしまったように感じられた。
リスは悠真を見上げ、微かに笑った。「ここは、夢と記憶の間にある場所。君が持つもの、失うもの、全部が見えるところだ。」
その言葉に、悠真の心は不思議なざわめきに包まれた。夢と記憶…それは、日常では忘れていた感覚。胸の奥底で眠っていたものが、今、静かに揺り動かされている。
リスは悠真を導くように、書架の間を歩き始めた。「まずはこれを見てごらん」手にしたのは、装丁のない白い本だった。ページをめくると、悠真の過去の記憶が淡く浮かび上がる。しかし、次の瞬間、その記憶は手のひらからすり抜けるように消えた。
「…記憶が…」悠真は声にならなかった。
「夢はね、持っているだけでは君のものにならない。選び、手にし、そして手放すことで初めて意味を持つんだ」リスの言葉は静かだが、胸に深く届いた。
その瞬間、扉の向こうからかすかなざわめきが聞こえた。街の夜の音とは違う、夢の囁きのような音。悠真は扉をそっと開け、白い光の中に一歩踏み出した。外の世界は、さっきまでの街と変わらず、しかし何かが微妙にずれているように感じられた。
路地の先には、「夢の市場」と呼ばれる広場が広がっていた。露店には小さな瓶や袋が並び、人々が何やら取引をしている。夢を売る、買う――その言葉の意味を悠真はまだ理解できない。しかし、心の奥に小さな期待と不安が芽生えた。
リスは悠真の肩に手を置いた。「さあ、街の中へ。君の旅はここから始まる。」
悠真は深呼吸をして、白い光に満ちた路地を歩き出す。足取りはまだ重いが、胸の奥のざわめきは確かに希望に近いものだった。夢の街――そこに何が待っているのか、彼にはまだ分からない。ただ、確かなのは、自分の世界が今、静かに揺れ始めたということだった。
夜風が頬を撫で、街は幻想的に輝く。悠真の心は迷いながらも、少しずつ、夢に手を伸ばそうとしていた――。