1話 ミーヴェル
「博士、お時間です」
促す声に、博士と呼ばれた女は愛おしげに、そして名残惜しそうに指を動かした。
無機質なカプセルの中に横たわる赤子。せめてもの手向けか、その体は質の良い、鮮やかな青に金糸の刺繍が施された柔らかい毛布で包まれている。
赤子が母の必死な気遣いに気づくはずもない。「キャッキャ」と無邪気に笑い、差し出された指に手を伸ばす。
その笑顔を見つめるほどに、女の胸からは罪悪感が溢れ出した。
「ごめんなさい。私が、不甲斐ないばかりに……」
「博士、おやめください。あなたのせいではありません。ですが――」
「分かっています」
遮るように告げ、彼女はカプセルの蓋を閉めた。
透明なシールド越しに、最後の一刻まで慈しむように眺める。やがて意を決した彼女の指先が、冷たいタッチパネルを叩いた。
◇◇◇
鬱蒼と茂る草むらから、音を立てないようゆっくりと赤髪を覗かせ、ひょっこりと顔を出す。
空気中に漂うナノヘイズの揺らぎを読み、獲物であるディアを視認した。
「晩飯、発見」
少年――ミーヴェルの服装はくたびれているが、悲壮感はない。
成長に合わせて継ぎ足してきた硬い防護素材の端切れと、出所の知れない配線コードを紐代わりにした継ぎ接ぎの衣。そして肩には、色褪せ、泥に汚れながらも、かつての面影を僅かに残す青い刺繍の毛布。
それがミーヴェルの正装。生まれた時から、自分を包むものは拾ったものと、記憶にない母が遺したものだけ。特に気にする理由もなかった。
一瞬、ディアが草を食べる手を止め、周囲に耳を澄ました。走る緊張感。だが、食事が再開されたのを見て、少年は小さく安堵の息を漏らした。
育ての親であり、それ以上の親友――いや、相棒と共に作り上げた自作の弓を構える。背中からそっと矢を抜き取った。狙いを定め、ゆっくり、ゆっくりと弦を引き絞る。
――そして、放つ。
生きるための日課。風を置き去りにした矢は、一直線にディアへと向かう。
――はずだった。
ひょい、と。ディアはあまりに簡単に矢をかわし、そのまま脱兎のごとく逃げ出した。
「っ! ちっくしょー!!当たんねえー!!!どうすりゃ当たるんだよ!」
これで弓での狩猟は通算99戦99敗。今日という日は、栄えある100敗目の記念日となった。
ミーヴェルがやるせなさをぶちまけるように叫ぶと、逃げゆくディアの背を見えない圧力が押し潰すように、その場で倒れ伏せさせた。
「はぁ……。俺、弓向いてねーのかな」
『諦メタ方ガ良イ。個体ミーヴェルニ遠距離道具ハ向イテイナイ』
「……ふっ、そう褒めんなよ」
『ホメラレタト勘違イスルナラ、思考回路ガ壊レテイル』
ミーヴェルが隣に立つ相棒――人型人造機械に顔を向ける。
アイは背中の一部を分離し、自律式ドローンを展開してふわりと浮かび上がった。それは倒れたディアを回収しに飛んでいく。
◇
焚き火の爆ぜる音が、静かな夜の森に響く。
解体したディアの肉を焼きながら、ミーヴェルは隣に座るアイを見上げた。いつもなら効率的な手順を指示してくるはずのアイが、今日は一度も口を開かない。
その体から、パチ、と嫌な電子音が弾けた。
「なんだよさっきから黙っ……アイ?」
『個体ミーヴェル。報告スル。当機ノ動力源、及ビ全身ノ駆動系ハ……限界点ヲ越エタ』
アイの声にはノイズが混じり、途切れ途絶えだ。アイは重い音を立てて大樹の根元に腰を下ろした。
「限界って、直せばいいだろ。家にあるパーツを使えば――」
『不可能ダ。基板ノ劣化ハ回復不能。ソレニ、ココニアルパーツモ既ニ使イ果タシタ……私ノハードウェアハ、ココデ停止スル』
ミーヴェルの手が止まる。
十五年。物心つく前から、この冷たくて硬い銀色の腕が、自分に食事を与え、敵を退け、破れた青い毛布を無器用な指先で何度も直してくれた。それが動かなくなるなんて、想像したこともなかった。
「……おい。なんだよそれ、急すぎるだろ。置いていくなよ」
『勘違イスルナ。……体ヲ捨テルト言ッタノダ』
アイの背中のハッチが力なく開く。そこから這い出してきたのは、先ほどディアを回収した小さなドローンだった。
『ソフトウェアノ転送ハ完了シタ。……今ノ私ハ、コノ小型端末ダ。コレナラ太陽光デ自動充電デキ、パーツモ地上世界ノ遺物デ足リルダロウ。永遠ノ命ヲ手ニ入レタモ同然ダ』
大きな人型の残骸を残したまま、ドローンがミーヴェルの肩に頼りなく着地した。その赤いカメラアイが、いつものように少年を見つめる。
ミーヴェルは、動かなくなった銀色の巨躯の胸に、そっと手を置いた。
「そうか……お疲れ様、アイ。あとは俺が運んでやるよ」
『視界ガ低イ。歩行時ノ振動ハ最小限ニ抑エヨ。酔ウ』
「……お前、小さくなっても口の悪さは変わんねーな。返せよ、一瞬味わった俺の悲壮感」
ミーヴェルは肩に乗った新しい相棒を指先で小突くと、夕食の準備を再開した。
肉を焼く香ばしい匂いの中、アイのアームが山で採れたばかりの不気味な色のキノコを差し出す。
『野菜ハドウシタ、ミーヴェル。バランス良クタベナイト、オマエノ脆弱な生体組織ハ機能不全ヲ起コス』
「……キノコ嫌いなんだよ。見た目が気持ち悪い」
『ブツ切リニシテ、塩ヲ掛ケテ焼ケバ同ジダ』
「機械のくせに、中身は脳筋だな……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、ミーヴェルはアイが持ってきたキノコをナイフで刻み始めた。
星空を眺めながらの夕食後、二人はかつて研究所であり、現在は住処である家に戻る。
「どうだ?」
『警告。光学迷彩維持率、十二%。浮遊機関、限界高度ヲ維持不能』
アイの無機質な声が、静かな部屋に響く。
「……はぁ。次から次へと問題が尽きないな。アイ。あと、どれくらい保つ?」
『概算デ、三百八十二日。ソレ以降ハ、コノ島ハ地上ヘノ巨大ナ鉄塊ト化ス。……ソレマデニ、地上デ基幹ユニットヲ見ツケネバ、私タチノ家ハ失ワレル』
「そっかー」
ミーヴェルは窓の外を見た。ナノヘイズの雲海の下、500年以上前に母たちが諦めた、けれど今は矛盾するも美しく輝く地上の楽園が広がっている。
「降りるか、アイ」
◇
三日後
「母さん。ちょっと行ってくるよ。パーツが無いとこの島落ちちゃうらしいんだ。あとアイのパーツもついでに。だからそれ探すためにちょっと行ってくる」
墓標の前にしゃがみ込み、ミーヴェルは配線コードで結んだ青い布を整えた。
かつて母が自分を包んでくれたこの布は、今や少年の背中を覆う立派なマントだ。膨大な歳月で刺繍は解け、色も褪せた。けれど、この布だけが母との物理的な唯一の繋がりだった。
『個体ミーヴェル。感傷ニ浸ル時間ハ終了シタ。降下用カプセルノエネルギーチャージ、完了。……ソレトツイデハ余計ダ、更ニ供物トシテ置イタキノコハ回収シロ。モッタイナイ』
肩の上でアイが現実的な声を出す。ミーヴェルは苦笑いしながら立ち上がった。
「分かってるよ。……母さんも、こんな不気味なキノコを供えられても困るだろうしな」
墓地に背を向け、二人は島の端にある発射施設へと向かう。
かつては数多の人間が研究に明け暮れていたであろう広大な施設も、今は静まり返っている。
中央に鎮座する、錆びついた降下ポッド。
ミーヴェルがハッチを開け、狭いシートに身を沈めると、アイがコンソールに接続した。
『地上ノナノヘイズ濃度、極メテ高イ。魔法文明ノ影響ニヨリ、生態系ハ百十五年前トハ完全ニ異ナル。……準備ハ良イカ?』
「ああ。まっ何度も降りた事あるしパーツを見つけて、さっさと帰ってこよう」
ミーヴェルが起動スイッチを押す。
凄まじい衝撃と共に、ポッドが空中孤島の底から射出された。
視界が真っ白な雲海に飲み込まれる。
重力に引かれ、加速する。
やがて雲を突き抜けたその先で、ミーヴェルは視界入った地表を確認する。
眼下に広がるのは、青白く光るナノヘイズの霧に包まれた、幻想的なまでに美しい、死の森。
そこで、悲鳴のような魔法の炸裂音が響いたのは、着地してからすぐの事だった。




