満月のかたちをした雨の痕は
濃紺の空が降りて来て、わたしはやっと安心する。
混沌とした闇夜。怠惰する夜風。嫉妬する心象。淫乱な身体。渇望する精神。憂鬱なわたし。――満月。
日が暮れて世界が闇に溶け始めると、わたしは白い雲の描かれた水色のカーテンを開ける。ショルダーバッグを斜めにかけ家の鍵を持ってドアノブを握る。振り返ると本や衣類が散乱する、蛍光灯の切れた部屋があった。山積みされた本の縁や棚に綿埃が溜まっている。
少し前から停滞前線がこの部屋に滑り込んできたまま離れてくれない。停留する空気と滞積する想いで部屋が溢れかえる。
大学四年生、八月。内定をもらっていないのにも関わらず、就職活動はほとんどしていない。就職を諦めてしまったわけではないが、どうしても家から出たくなかった。四年生になって半年、大学へも片手で数える程度しか行っていない。
だが、わたしは世に言う引きこもりではない。そこまで深刻ではない。週に一度は買い物に出かけるし、三日に一回はコインランドリーに行く。ただ、夜しか活動できない。太陽を見るとイライラとしてくる。日差しが自分を突き刺してくるような、否定してくるような、嫌な気分になってくる。就職活動を始めてから、スーツを着るようになってから、こんな穴蔵にすむびくびくとした小動物になってしまった。変えたい。そう思う度に苛立ちが競りあがってくる。部屋に埃が溜まっていく。それを見るたびにまたむしゃくしゃする。
ふいに部屋から目を背けたくなって、急いで家を出た。ドアを開けると雨が降っていた。胸が騒ぎ出す。熱く火照った身体のまま、駅に向かった。
***
わたしには想うだけで器官の狭まるような相手がいる。
それは、ちょうど関東に停滞前線が重なっていた五月下旬、土砂降りの深夜だった。
わたしは傘を持って出ても必ず置き忘れてくる人間だった。わたしのなかの検索ワードに〈買いなおした傘の金額〉と打ち込めば、必ず〈三万以上〉と表示されるに違いなかった。だからいつしか諦めに似た感情が生まれてきて、そのために家を出るときに雨が降っていなければ、傘を持っていかなかった。
洪水で地元のT駅が深海の伝説の都市になってしまうのではないかと危惧するような五月下旬の水曜日、わたしは一人、T駅前で雨宿りをしていた。
その日はゼミの一人の誕生日パーティで遅くまで新宿の居酒屋にいた。それなりに楽しかったし、それなりにはしゃいだけれど、居酒屋を出るとあからさまな疲れが来た。煙草を吸うのを我慢していたからだ。普段それほど吸わないものの、人が多い場所に行くと無性に吸いたくなってくる。わたしは笑顔のまま、みんなが酔いつぶれていくのをただじっと眺めていた。途中で抜けるとも言い出せず、結局最後まで居座った。このときまでの自分はこういう場所にいることに息苦しさをさほど感じなかったが、ただひたすらに空虚ではあった。
最終電車で最寄り駅を降りたときもまだ雨は強く降っていた。仕方なく駅の屋根のある柱の隅に寄りかかって雨が止むのを待った。こんな日にタクシーの不機嫌なオヤジに気とお金を遣うのは癪だった。
隣に男の人が立っていた。視界に入る範囲でその人を意識する。顔はうまく見えないが、黒いシャツに黒いネクタイ、黒の綿のパンツに斜めがけのバッグをかけていた。髪はどちらかといえば短髪で、背はわたしより頭ひとつ分くらい大きいから百七十くらいだろう。痩せている、というよりは狭い路地を猫並みに通り抜けられそうな薄さだな、という印象だった。
「雨待ちですか?」
「……」
急にその黒猫男が話しかけてきたので、一瞬で体中が熱くなった。
「……」
わたしは唾を飲み込む。
「やば、きっまずいなぁ」
思わず男の顔を見ると視線がぴたっと合った。
「や、独り言です。すみません」
「は……いや、すみません」
黒猫男の視線がこちらに向いた。これといった特徴はないが、白い肌とシンプルで素朴な顔だった。
「いや、こちらこそ……」
「いえ……」
わたしたちはぺこぺこと頭を下げた。黒猫男がくすりと笑いながら話を切り出す。
「どんぴしゃですね」
「雨ですか?」
「ええ」
「すごいですよね」
「駅から家は近いんですか?」
わたしは一呼吸おいてから呟いた。
「えっと、遠いです」
「そっか、俺も」
「……そ、そうですか」
急に発せられた「俺」という言葉にどきっとした。
「俺の最寄り駅はここから三つほど北上した小さな駅」
笑うと犬みたいだなと思った。それが完璧にわたしの欠けた部分にはまった。
「それって……」
「そ、C駅行きの終電を乗り逃したってわけです」
「ど、どうやって帰るんですか?」
「タクシー使って帰るまでの家じゃないし、漫喫でも居座りますよ。ちょうど明日は休みだし」
「お仕事ですか?」
「うん、サービス業なんだけどね」
「お、お疲れ様です」
「そっちは? 飲みの帰り?」
こちらに視線が来るたびに体が熱くなってくる。
「まぁそんな感じです」
顔が真っ赤だっただろうか、と手の甲で頬を触った。熱い。
「じゃあお腹いっぱいだ?」
首を傾げる。動作のひとつひとつに身体が異常なほど反応する。
「あ、いや、ポテトしか食べてないんで」
「君、あれ? 大人数とか苦手なタイプ?」
「よくそう言われるタイプです」
「食べてく?」
「え?」
「よければ一緒に飯、食べません? いや……もし良かったら時間つぶしに付き合ってくれませんか? 雨宿りと称して」
そのとき、わたしは不思議と警戒心はなかった。直感かもしれないし、家に帰れない同情心からかもしれなかったが、今思えばもっと話がしてみたいという好奇心が先行していたようにも思う。
「大丈夫、無理しなくていいよ。女の子ならいろいろ不安だろうし」
「あ、いえ、そんな。……ぜひ」
目は見られなかった。
それからお酒じゃなくてファミレスなんてどう? と近くのチェーン店のファミレスに入った。向かい合ってボックス席に座る。
「改めて、春瀬昇一です。シュウって呼んでください」
「え、どうしてですか?」
「臭うからシュウ。中学からずっとそう言われてんの」
「え?」
「におうって言っても飼ってる犬のにおいだったんだけどね」
「そっちですか?」
思わず笑ってしまう。
「どっちだと思った? 終了のシュウって?」
「まさかそんな」
「ふふ、まぁ好きなように呼んでいいですよ。そちらは? あ、偽名でもいいんで」
「アキ」
「俺のシュウにかけて?」
一瞬、何のことか分からなかった。
「どういうことですか?」
「漢字にしたら音と訓でしょ? 上手いなと思って」
わたしは視線を落とした。
「あ、そうですね。でも、本名です」
「いや、ごめん」
「あ、いえ、大丈夫です」
胸の前で勢いよく両手を振った。大げさな反応になった自分が恥ずかしくなる。
「アキさんはいくつなんですか?」
「大学四年です」
「ほう、俺は社会人……六年目になるかな」
「じゃあ二十八?」
「そんなふけて見える? 大学行ってないから今年で二十四。介護福祉士なんてやってます」
シュウさんは頬杖をついて笑う。
「あ、すみません」
「ふふ、脅えすぎだよ。大丈夫、取って食ったりしません」
「えっ」
「嘘です、ごめんなさい」
話は尽きなかった。雨は夜の三時を過ぎてようやく小降りになってきたが、初めてなのにも関わらず、わたしたちの会話は止まらなかった。シュウさんが気を遣ってくれたのもしれないが、はずむほどでもなく、落ち着いたトーンで時間だけが台風のように過ぎていく。彼女はいるのか、という肝心な話はどうしても最後まで聞けなかった。
ようやく出ようかと言った時は朝の四時だった。シュウさんは店を出て背伸びをする。
「女の子なのに遅くまでつき合わせてごめん」
「いえ、タクシー代が浮きましたし。それにご飯代まで出してもらっちゃって……すみません」
「こちとら社会人よ? 学生が気遣うなって。損するよ」
「よく言われます。昔から甘えられない損な性格なんです」
「分かりやすいタイプだもんね、アキさんは。あ、雨完全に止んでる。月まで見えるわ」
見上げると、満月一歩手前の月が次第に明るくなってくる空の西で、朝になったことを忘れているようにうっすらと水色の空に取り残されている。
「消しごむで消えそうな月ですね」
「水のついた筆ではらっても消えそうだ」
しばらくわたしたちはひと気のない歩道で立ち止まって上を見上げていた。時間が止まればいいのに、と思っている自分がいた。この人に帰る場所がなければいいのに。
「こりゃ明日はきっと綺麗な満月だわ」
声を聞いてはっとした。思わず背を向けて答えた。
「あ、明日も同じように、見えますかね?」
「そりゃあ見えますとも。どこにいても空は空、満月は満月、俺は俺で、アキさんはアキさんだ」
「そ、……そうですよね」
わたしは明日、シュウさんと同じ満月が見れるんだと思うと、別れが少し寂しくなくなった。そんな自分を確認して、温かい気持ちになる。
それから何事もなかったかのように別れた。連絡先も聞かず、その後の約束もせず、本当に何事もなかったかのように別れた。
出会ったのは土砂降りの雨だったのに、帰りは月も消えかけた夜明けだったのに、満月を見るとあの日を思い出す。わたしの完璧な窪みにはまる完璧な満月。闇夜に彷徨うわたしに光を与える完璧な満月。
当日は、こんなこともあるのだな、というふわふわした感覚だったが、月日が過ぎていくにつれ、その日が絶えずわたしにささやいてきた。道路脇の雑草の間から、路地裏の隙間から、夜の闇の切れ目からささやいてくる。
わたしはその日、一度しか会っていない相手に恋をした。たぶん恋だと思う。日常生活の隙間にするりと予兆もなく滑り込んで来て、散々かき回してから出たり入ったりする。どんな人間で、何が好きで、どんな人生を送ってきたのかも知らない、恋人がいるかさえも判らないのに。
T駅に来ると否応なく彼のことが頭に浮かぶ。駅に来る度に、駅に来てあの土砂降りを想い描くだけで、シュウさんの幻影が見えてくる。毎日のように見える。感じる。あのとき使った傘を見るだけで淫らな感情が夜毎襲ってくる。会いたい。話がしたい。触れたい。触れられたい。交わりたい。今はその欲望だけで生きている。他のことには無気力になる。他のことはどうでもよくなる。こうして抜け殻のように生きているのもいつか会うシュウさんのため、かもしれない。
ほんとうに、どうしようもないな。
駅ビルで今日の分の食料を買い込み、店を出ると雨は止んでいた。
夜空を見上げる。夜空なら見上げられる。今日は満月だ。月自体が光っているような魅惑的な光。月なら眩しくない。わたしを批判したりしない。
両手にビニールを持って、わたしはしばらく立ち止まって空を見上げた。満月の上を薄い雲が流れていく。
『竹取物語』を思い浮かべた。月から使者が下りてくるには絶好の夜だな、と感心した。
あの人も、今日もこの満月を見ているだろうか。こうして少しでも見上げて、わたしと同じようにあの時と同じ満月だなぁなんて思っているだろうか。そうだといいな、と独り言を呟いた。どうも一人暮らしをすると独り言が増えて困る。わたしは首が痛くなってきたのでやっと視線を戻した。ふふ、と笑った。
すると電話が鳴った。現実を連れてくる電子音。
「はい」
「今平気?」
中学校から腐れ縁のたつひだった。
「うん。なに?」
「今、彼氏と仲直りしてきた」
いつの話だっけと記憶を呼び起こす。
「そっか」
「うん、いろいろガチで話し合ってさ、結局許しちゃったよ。惚れた弱みとは思いたくないけどね。一度くらい仕方ないかなってね」
「でも……これからは今までよりいい仲になれるよ」
「ありがと。そういえばアキにはまだいないの? 好きな人」
「……いないよ」
いるよ。
「そっか。恋愛はいいよ。本当に世界変わるよ。人に優しく出来たり、化粧が楽しくなったり。ほんと毎日キラキラするよ」
「うん」
知ってるよ。
「元気ないね?」
「月」
「なに?」
「月、綺麗だね」
わたしは立ち止まって見上げたまま言った。
「そう? こっちは曇って見えないや」
「え? たつひの家、茨城でしょ? そんな遠くないのになんで?」
わたしは電話の手を持ちかえる。
「なんでって、当たり前でしょ。今千葉の家? それなら天候は場所によって違うんだから、必ずしもそこと同じようには見えないよ」
「そっか……」
少なくとも同じ日本なら、どこにいてもだいたい同じように見えるものだと思っていた。
なあんだ、違うのか。なあんだ、一緒じゃないのか。
わたしはしばらくそこに立ち尽くした。
「ちょっとアキ、聴こえてる?」
「……」
あの日から、もう三ヶ月近く経ってしまいました。三ヶ月も経ってしまったのに、相も変わらず世界は回り続け、そんな世界にいながらも、わたしはいっこうに闇から抜け出すことも出来ず、今も夜を彷徨い続けています。だからこそ、いまだにわたしのなかであの一日が光り輝いて止みません。
ねぇ、シュウさん。ずっとなんて言わないから、一生だなんてわがままなことは言わないからせめてあと少しだけは、あなたと会ったあの夜を、わたしのこの闇夜のような日々に差し込む、唯一の光としてもいいですか。