フォトンベルトの謎と人類滅亡の日
プロローグ
部屋の広さは15帖程。炉の火はあかあかと燃えている。古材や板切れが炉の側に山積みになっている。部屋は暗い。炉の火だけが頼りだ。隅には段ボールの箱が山と積まれている。乾パンやジュース、米、塩、砂糖、野菜、果物など食料が入っている。
段ボールの側にポリ容器がある。30はあろうか、飲料水が入っている。炉の前に大きなヤカンがある。湯が沸騰している。部屋の隅に洋式トイレがある。壁に穴が開いている。そこから外に排泄物を流す様になっている。
簡易ベッドが2つ、ベッドの横の棚に“ゼンマイ式”の置時計が2つ並んでいる。
陽中公平はベッドから起き上がる。時計を見る。午後1時半、昼間の筈なのに外は暗闇だ。電灯もない。都市ガスも水道もない。電気を利用する器具類もない。テレビ、ラジオ、携帯電話、スマホ、パソコンにいてるまで、一切利用できない。
鍋に米と水を入れる。炉の前に置く。時間が経てば飯が炊ける。湯には味噌や昆布、野菜などを入れる。みそ汁の出来上がりだ。
「日奈子、飯が炊けたぞ」
隣のベッドで胡座している娘。飯を盛った茶碗とみそ汁を運ぶ。
日奈子は7歳。色の白い小柄な体だ。
「日奈子、後、何日くらいかな」公平の声に力がない。
「1週間かな・・・」飯を食べながら、日奈子はポツリと答える。
「外はまだ寒いだろう」
「零下30度よ。すごい吹雪が吹いている」
2人のいる所は地下2メートルの地下室。その上に50坪程の平屋が建っていた。壁という壁、板という板、柱などはすべて薪にしている。家は吹雪で倒壊している。
陽中の住まいは、中部国際空港を見下ろせる丘の上にあった。丘からみる飛行機は夕日に照らされて、美しい光景だった。鈴鹿の山々に沈んでいく夕焼けの美しさは、いつ見ても飽きる事がない。
その夕日も、今はない。太陽が光を失って数週間がたつ。天と地が闇の渕に沈む。極限の零下とハリケーンが地上を荒れ狂う。
2033年1月8日、地上で生息する生物は存在しない。零下30度。風速80メートルの猛吹雪、人類の大半は死滅。生き残った者は地下か洞窟で息を潜めて“嵐”の過ぎ去るのを待つのみ。
日奈子は言う。後1週間で、地上の災難は過ぎる。
異常気象の兆候は10数年前からあった。
40度を超える夏の暑さ、冬は零下10度以下で大雪が降る。
2010年以降、冬季に九州、沖縄でも雪が積もる。気象だけではない。人間は凶暴化していた。小学生が友人を刺し殺す。親が我が子の首を絞め殺す。罪悪感はない。
凶暴な犯罪が常態化していた。
世界各地でも不穏な暴動やテロが相次ぐ。石油資源が政争の道具と化して久しい。エネルギー確保のための戦争も勃発している。
――2032年、12月22日、太陽はフォトンベルトに突入する。この日をもって人類は滅亡する――
強烈な電磁波の影響で地球上の電気設備は使用不能となる。電力の供給は停止される。コンピューターから自動車のエンジンに至るまで機能しなくなる。電気で動くものすべてが地上から消滅する。文明社会は崩壊する。
2032年も秋になると、太陽の光が輝きを失う。12月下旬に黒い太陽と化す。暗黒の日が続く。80億の人類は1億人を残して死滅する。
2033年、1月中旬、大地は光を取り戻す。
「日奈子、外の様子はどうだ?」公平は尋ねる。
「飛行場はない」日奈子は眼を瞑っている。色が白い。目鼻立ちがくっきりしている。肩まである髪。セーターの上着にジャンバーを着込んでいる。歳の割に大人びた物言いだ。
「父さん、見る?」日奈子は大きな眼を開ける。
公平は頷く。彼の頭の中は丘の上から見た飛行場がある。
丘の上の陽中家から約5百メートル西に常滑港がある。港から約2キロ先沖合に、中部国際空港がある。飛行場の離発着が手の取るように見える。
「見て!」日奈子は右手をかざす。西側のコンクリートの壁に丸い光景が映し出される。地下室は炉の光以外何もない。映し出された映画のスクリーンのような光景を見る。公平は暗然とする。
外は暗闇だ。激しい雨風が吹き荒れる。樹木は根こそぎ倒されている。伊勢湾の波は荒々しく牙をむいている。高波が常滑港の岸壁を乗り越えている。
コンクリート壁に映し出される丸い光景。漁村の町は、屋根が吹き飛び、多くの家が倒壊している。
次に映し出されるのは飛行場。滑走路が波間に沈んでいる。管制塔、ターミナルビルは半壊、建物の1階部分は海底のもずくと化している。
「見て!」光景が一変する。知多市、東海市の臨海工業地帯が海中に没している。住宅街、繁華街に人気がない。道路や建物の側に行き倒れの死体が累々と横たわる。
3週間前、地球規模で殺戮が繰り広げられていた。ここ知多半島でも、人々は狂ったように殺し合っていたのだ。
今――地上から人々は消滅している。
「日奈子、生き残ったのは、どれくらい?」
「知多半島だけで約5千人・・・」
日奈子の声は冷たい。彼女の霊体は零下30度の地上を駆け巡っているのだ。
「名古屋圏も入れて、約5万人。日本全国で百万人」
仁奈子の声は続く。後1週間で、雨や風は収まる。大地も明るさを取り戻す。
その時、”人間の日”は滅びる。新しい時代、新人類、”神々の日”が始まる。至福2千年の到来だ。
自立
陽中公平が生まれたのが1990年の春、長野県飯田市阿智村陽中。3歳までここで過ごす。以後常滑の母の実家で成長する。
飯田市阿智村陽中は父の実家だ。阿智村の南、約1・5キロ先には日の入り山がある。標高1072メートル、その南西に日の入り部落がある。陽中部落は日の入り山の麓にある。戸数50戸。
父の名は陽中隆一、飯田市の公立高校を卒業後、名古屋の名鉄百貨店の渉外部に勤務。
母、宮内洋子は常滑の公立高校を卒業後、同じく名鉄百貨店に勤務。知り合って3年目に、職場結婚。陽中隆一28歳。宮内洋子21歳の時だ。
陽中隆一の名古屋市内のアパートから夫婦そろって出勤。結婚後半年で湯中の父が死亡。帰郷して家の跡目を継ぐようにと、母に説得される。
父が死ぬと長男が後を継ぐ。陽中部落の習わしだ。隆一の家は2男3女。兄弟は皆飯田市で働いている。
隆一が名古屋に来たのは、家の”しがらみ”が好きになれないからだ。新天地を求める。自由に生きる。隆一の人生観だ。
隆一は故郷に還るのを渋る。次男が跡をつげばよいと主張。ごねた方が勝ちと考えた。
陽中部落の長老が直に隆一のアパートにやってくる。
長老は陽中部落を束ねている。長老の命令が下ると陽中部落の者は長老の元に駆けつける。どこにいようと飛んで帰る。古くからの仕来りだ。バカバカしいと思う。思うが、いざ!となると従わざるを得ない。不思議な力が働く。
隆一は帰郷する事になる。洋子は抵抗する。都会から、山また山の中の田舎で生活する。嫌と首を横に振る。
「来るのが嫌なら、別れろ!」長老の一喝だ。強い力で洋子の胸を打つ。彼女も陽中部落の住人となる。
陽中公平が生まれる。父隆一が30歳。母洋子が23歳の時だ。公平が生まれた時、長老は奇妙な予言をする。この子から生まれた子供は、太陽の住人と結婚する。
――太陽の住人とは――隆一が尋ねる。我らの神々だ。長老は事も無げに答える。
陽中部落の人口は2百名たらず。長老を核としている。一大家族主義だ。盆暮れには必ず帰郷する。長老を中心として、陽中神社に詣でる。
公平が2歳になる。長老は部落の者全員を、陽中神社の境内地に集める。
――40年後、我らの神々が降臨する――
長老は齢90.骸骨のようにやせ細って長身。白髪の落ちくぼんだ眼は遠くを睨む。
――神々の意に添わぬ者は捨てられる――
長老の予言は必ず現実のものになると信じられている。部落民は畏れかしこみ、身を引き締める。
陽中部落は片田舎だ。飯田の中心部まで車で30分。住めば都。隆一、洋子夫妻は田舎暮らしに慣れる。
公平が3つになる。父隆一が行方不明になる。長老は厳しい眼で洋子を見る。子供を連れて常滑に帰れと諭す。
洋子は驚く。夫が消えたのだ。拉致されたのかも知れない。最悪の場合は死んでいるのかも知れない。真っ先に警察に捜索願を出すのが筋だ。
何もしない。隆一の家族や部落民、長老はあっけらかんとしている。切迫した緊張感さえ感じられない。
――実家に還れ――取りつく島もない。早く出ていけとばかりの態度だ。洋子は公平を連れて常滑に帰る。
”1人娘が帰ってきた”両親はむしろ喜んだ。夫が行方不明と聞いて、表情を曇らす。それが当然なのだ。
洋子の父は資産家だ。祖父が築き上げた財産をそっくり受け継いでいる。多くの賃貸マンション、貸地からの賃料で食うに困らない。住まいは常滑市山方町。
常滑港から約3キロ東へ行った高台に居を構えている。
南の方に天沢院というお寺がある、北の方、自宅裏は、30年前は山続きだった。常滑市役所一帯の鯉江新開地の埋め立てに、大量の土砂が使用される。山1つが削り取られる。
宮内家の敷地は東西に狭い。西側は住居の3メートル程先から崖地。その下に家々がひしめいている。東側は約20メートル先で崖地になっている。崖の下が道路。家の北側、約5メートル程先は,30年前にあった山が崖となっている。削り取られて崖になっている。南には普通車が何とか通れる道がある。
1993年、陽中洋子と公平は追われるようにして常滑に帰る。
それから10年後、今度は洋子が忽然と姿を消す。
その年、公平は中学1年生。父の味を知らない。父の面影は写真で知るだけ。
母が姿を消した時は、気が狂う程泣き叫ぶ。悲しみは時間と共に追憶の彼方へとかすんでいく。
高校卒業まで祖父母に育てられる。大学へは行かず、不動産の道を歩む。宮内家の所有する賃貸マンション、借地、借家の管理をやってみたいと思った。
不動産業の経験がない。祖父の知人の紹介で名古屋の不動産屋に就職する。25歳で独立。常滑市役所近くで開業。自立の道を歩む。
故郷
祖父母の愛情に包まれて育つ。公平は苦労知らずで成長する。根は真面目だ。何をやってもコツコツと築き上げていく。名古屋で働いて、その経験を活かす努力をしている。金を持って浮かれ遊ぶことはしない。将来の開業資金の一部にと貯金をする。
開業すれば祖父が資金を出してくれることは判っている。それはそれとして、金で苦労したい。陽中公平の人生哲学である。
25歳の春、祖父母は健在。公平は宮内家の借地借家の管理に乗り出す。家賃や地代は祖父の通帳に振り込む。その他に土地の仲介業務で生活費を得る。
仕事は朝から晩まである訳ではない。自由の利く身だ。公平は暇があると、あちらこちらとドライブする。
両親を失った心の痛手があるものの、祖父母の暖かい愛情で癒されている。伸び伸びと人生を楽しんでいる。生まれつきの楽天家でもある。暗い顔はしたくないのだ。
祖母からお見合いの話が持ち込まれる。公平は容易に首を縦に振らない。結婚したくないというのではない。自分の求める女性と、いつか何処かで巡り会えると信じているのだ。
――待てば海路の日和あり――気楽な発想だ。
祖母はそんな孫に不安を抱いている。宮内家の跡取りを何とかしたい。自分の眼の黒いうちにと焦っている。
2024年夏、陽中公平は33歳。
父の故郷に行こうと思い立つ。
3つまでいた故郷といっても、これといった感慨はない。懐かしさも心に浮かばない。行く理由は、父の故郷、たったそれだけだ。
公平は祖父母に父の故郷に行ってみると話す。2人は苦い顔をする。娘を無情にも追い出した場所だ。良い印象を持っていない。それでも行く事には反対しなかった。
8月10日、早めのお盆休みを摂る。
名古屋インターから中央自動車道に入る。飯田インターの1つ手前の園原インターで降りる。彼の車はクラウン、3000CC,不動産屋は仕事上、見栄の為に高級車に乗る。それに大型車は長距離ドライブが楽だ。
園原インターから阿智村の県道に入る。阿知川と並行して走る国道19号線に乗る。昼神温泉郷を通過。中央自動車道の高架線をくぐる。国道とお別れする。県道天龍公園阿智線を南下する。5キロ走る。すぐ右手に日の入りの町が見える。その西の方に聳える山が日の入り山だ。標高1072メートル。
陽中部落は日の入り町と日の入り山の中程に位置する。日の入り町の喫茶店で休憩する。朝8時に常滑を出発する。時計を見ると11時過ぎ。少し早いがランチでも摂るかと考える。陽中部落へ行くのはそれからでよいと考える。徒歩15分ぐらいで行ける。
喫茶店で昼食。母の手帳を見る。日の入りの町を母は、部落と書いている。公平が3歳の時に陽中部落を出ている。
――あれから30年になるのか――公平は感慨に耽る。
30年前は部落だった。今は観光地として町になっている。
喫茶店の窓から日の入り山が見える。大きな山だから一目瞭然だ。あの麓に陽中部落がある。
「マスター、ちょっと聞きたいだけど・・・」カウンターの中のマスターに声をかける。
「何でしょう」柔和な表情だ。年の頃30前後。公平の顔を眺めている。
「あの山の麓にね・・・」公平が日の入り山を指さす。
「陽中部落ってあるでしょう。今、どうなっているのかしら」
30年も経てば様子も変わっている筈だ。出かける前のそれを知っておきたかった。
「陽中・・・?」マスターは眼をパチパチさせる。
「そんな部落はありませんが・・・」
驚いたのは公平だ。3歳までいた事を話そうと思ったが、マスターの異常な言葉に、出かかった声を押し殺す。
喫茶店内には公平の他に1組の観光客がいる。熱心に観光案内のパンフレットを見ている。
マスターは暇を持て余している。公平の話を興味深そうに聞いている。カウンターから出て、公平のテーブルの前の椅子に腰を降ろす。
「そんな部落があったって事は知っていますが・・・」
この話は大きな声では言えないが・・・1組のお客の方をチラリと見る。彼らはパンフレットに見入っている。
12年ぐらい前に、陽中部落の者全員が忽然と姿を消す。200名ほどいたと聞いている。男も女も、老人も子供も、一夜にして行方不明となる。それから3日後、十数台の大型ダンプ、ブルドーザが部落に乗り込む。1週間がかりで陽中部落の建物という建物、塀や垣根、庭の草に至るまで取り壊していく。ブルドーザが去った後、宏大な空き地が残る。部落があった事など嘘のようだ。広々としたグラウンドが拡がっているのみだ。
陽中部落が消滅する。日の入り部落、阿智村、周辺の住民たちは、呆然と見守るばかり。
どの世界にも人一倍好奇心の強い者がいる。
「これは一体、どういう事だ!」ダンプやブルドーザの運転手に尋ねる。彼らは一様に首を横に振るのみ。
「言われた仕事をやっているだけだ」
陽中部落は、住民のほとんどが陽中姓だ。ほとんどというのは、嫁に行って、姓が変わる。出戻りとなる。別姓の者もいた。
陽中部落の者は、日の入り部落、阿智村、その他周辺の住民とは親しい付き合いはしない。行き来はあるが、親戚付き合いはしない。不思議な事だが、嫁をとる、嫁に行く事は、同じ部落で行われるが、公平の父のように、外に飛び出す者もいる。彼らは例外なく県外に出る。
陽中部落は陸の孤島だ。日の入り部落や周辺の住民らは陽中部落を知っているようで、結局何も知らない。彼らが忽然と消えるまで、関心を払わなかった。注意もしない。大型ダンプがひっきりなしに出入りするのを、呆然と眺めているだけだった。
それから1~2年後、奇妙な事実が判明する。陽中部落に縁のある者、例えば陽中部落の女と結婚した男、その子供や嫁が平成15年(2003年)に行方不明になっている事だ。警察に捜索願いだ出される。行方不明者は皆目不明。
公平は驚きを隠さない。母も平成15年に忽然と姿を消しているのだ。彼はマスターの物静かな表情を見ている。
静かな口調だが、周囲を憚る様な物言いに、緊張感が満ちている。
公平は強度の眼鏡をかけている。大きな眼だ。丸い顔に団子鼻、厚い唇、髪は7・3に分けている。お世辞にも美男子ではない。真面目だけが取り柄だ。性格はよく言えば慎重、悪く言えば臆病、人とは決して争わない。勝っても負けても後味が悪い。人に傷つけられるのは嫌だし、傷つけるのも嫌だ。
・・・でも・・・公平は口ごもる。
子供までもが行方不明というではないか。でも自分はここにこうしている。口に出そうと思ったが、マスターの話を聞くことにした。
1つの部落が忽然と消える。尋常な事件ではない。
新聞やテレビに取り上げられても不思議ではない。新聞記者やカメラマン、報道人がきたという事実はない。ダンプカーやブルドーザだ出入りする。整地が終わる。後は何も無かったように静かになる。
だが・・・、部落民はどこへ消えたのか、探ろうとする者が現れる。不思議な事に、彼らは一様に異常な死に方をする。交通事故で死ぬ、首つり自殺、身投げ、服毒、放火、尋常な死に方ではない。
そして、彼らの死も報道されることはない。
――何かある――この事実を知る者は口を固く閉ざす。
――触らぬ神に祟りなし――
マスターの話が終わる。この時1組の客が店を出ていく。マスターと陽中公平だけとなる。
「実は私・・・」公平は事実を打ち明ける。マスターは驚きの声をあげる。。陽中部落の縁者で公平だけが残っている。
生まれ故郷の跡地を見てみたいと、マスターに告げる。車を駐車場に置かせてもらう。
日の入り町を散策する。この町に温泉や名のある遺跡がある訳ではない。天龍公園を中心とした観光地として、こけし等の木の細工物が観光土産として売れている。
・・・そういえば・・・公平は常滑の町を思う。
焼き物の町としては有名だが、地元民は総体に焼き物に興味を持つ人は少ない。少ないというよりは、日常見慣れている風景だ。時折、観光客が焼き物の店を回る。その姿が目に付くだけなのだ。
それと似た光景が、ここ日の入り町でも起こっている。大きな街ではない。1キロも歩くと町はずれになる。土産物店が軒を並べている。十数人の観光客が歩いている。先ほど喫茶店にいたアベックもいた。
町はずれに出る。北西の方角、日の入り山の麓への道がある。一昔前までは陽中部落へ行く道だった。
”部落”が消える。行き交う人が少なくなる。人の往来が少ないと、道は自然に還る。草地が生い茂る。
”元陽中部落”への道は、幅6メートル。
今は日の入り町の住民が、山の幸を求めて山に入るのみ。道の形態をとどめてはいるが、道幅が狭くなっている。
盛夏、立っているだけでも汗が吹き出る。幸い北の方から風が吹いている。ゆっくり歩く。
母の手帳を見る。手帳には日常の出来事しか書いてない。陽中家の兄弟、親戚縁者の名前、電話帳、住所ぐらいなもので。母の形見として大切にしている。
日の入山の麓に到着する。陽中神社の境内地だ。ここだけは取り壊さなかったらしい。鳥居がある。樹木の囲まれた境内地。荒れた感じはしない。数十段ある石段を登る。神殿がある。清掃が行き届いている。神殿の額を見る。
――日の入り神社――陽中神社の名前が消えている。
陽中部落が消滅する。神社を祀る人も消える。神社は大切にされる。日の入り町の人々の手で祀られている。
・・・ここへきてよかったのかな・・・心の中は空虚だ。
ある筈の故郷がない。しかも故郷を離れたのが3歳。望郷の念が湧く方が無理だ。それでも、来たかった。それが故郷というものだ。
神殿に両手を合わせる。柏手を打つ。礼拝する。砂利を踏んで石段を降りようとした時、神殿奥で、何かが光ったような気がした。
・・・何だろう・・・と思ったが、神殿奥に踏み込むことは憚られる。
石段を降りながら、どこか温泉でも入って帰ろかと考えた。
喫茶店に戻る。車の駐車の礼を言うために店に戻る。
「お客さん、ちょっと」マスターは公平が帰ってくるのを待っていたようだ。彼を客室に座らせる。周囲を見回す。店内には客はいない。
「実はですねえ・・・」マスターは声をひそめる。
公平に会わせたい人がいるが、会わないかという。
マスターは公平が駐車場に車を置いていくのを見計らって電話を入れる。
――陽中部落の生存者がいる。会ってみないか――
相手方の了解をとって、陽中公平の帰ってくるのを待った。
以下マスターの話。
会ってみないかという人は、今年30歳になる角田という男。マスターの幼馴染だ。数年前までは日の入り町に住んでいた。陽中部落の行方不明者について調査をしている。身の危険を感じる。
「身の危険?」公平がオウム返しに聞く。
マスターは口をつぐむ。表情が暗い。公平を直視する。
「角田の説明ですとね・・・」
マスターは一呼吸おく。
1つの部落住民が忽然と消える。それも2百人にのぼる。本来ならばセンセーショナルな事件として報道されてもおかしくない。事実は日の入り町や阿智村など、陽中部落の周辺住民が驚愕し、畏怖しただけだ。
早い話、大型のダンプやブルドーザが行き来したのみ。外部に知られる事もない。普段通りの生活が続く。報道管制が敷かれているのか、新聞やテレビなどにも取り上げられる事もない。
1つの部落民が全員姿を消す。この事実はただ事ではない。何時の時代にも好奇心の強い者がいる。探偵よろしくあれこれと調査をする。聞き込みをしたり、現地周辺の住民に探りを入れたりする。
日が経つうちに、彼らの身辺に異様な空気がまとわりつく。黑い影に尾行される。事故に遭う者、自殺する者が相次ぐ。 角田は言う。陽中部落の事を調べだす。身辺に人の気配を感じるようになる。無言の電話がかかってくる。家が放火に会う。大騒ぎになる。
角田の勤務先は飯田だ。車で通う。尾行される。タイヤをパンクさせられる。ついに妹が暴漢に襲われる。被害はなかったが、後難を恐れて恵那市に引っ越す。陽中部落の調査も表立っては中止する。
今は人に気づかれないように、細々と調査を続けている・
「ここだけの話ですがね・・・」
マスターは小声でささやく。
「2032年に、人類は滅亡するとか・・・」
陽中公平はびっくりしてマスターの顔を見る。冗談を言っている顔ではない。詳しくは角田に会って訊けという。角田の住所と電話番号を書いたメモ用紙を受け取る。
公平はマスターに見送られて恵那市に向かう。
出会い
日の入り町を出たのが昼の1時半。中央自動車道に乗る。恵那インターを降りたのが2時半。
角田の住所は恵那市大井町、恵那ラジュウム温泉の近くという。恵那インターを降りる。北に1キロ行った所にある。近くに恵那峡がある。
恵那峡への看板が出ている。道路沿いには、観光客目当ての喫茶店や食堂、土産物店が並んでいる。ものの5分も走ると恵那ラジュウム温泉館に到着する。ここで角田に電話する。
10分程して、白のカローラが現れる。3分刈りの頭に太い眉の男が車から降りる。鋭い視線を周囲に投げかける。格闘技でもしているのか、素晴らしい肉体だ。半袖シャツから剥き出た二の腕は逞しい。
「角田さん?」陽中公平は度の強い眼鏡をたくし上げる。
気さくに声をかける。角田は公平の体を上から下へと無遠慮に眺める。薄い唇をきっと締めて頷く。
「行きましょうか」角田はカローラに乗り込む。先導するようにゆっくりと発進する。
恵那ラジュウム温泉の西側に県道がある。南北に走っている。南の方は公平が来た道だ。百メートル程走る。右折する。道路幅は3メートル程。道の所どころが、胃袋のように膨れていくる。車のすれ違い用の敷地だ。遠くに中央自動車道の高架線が見える。
角田の車は恵那ラジュウム温泉館の裏手を廻っている。恵那ラジュウム温泉館は宏大な敷地の中にある。鬱蒼たる樹木の中だ。しばらく走る。森林が途切れる。前方に同じような森が見える。道路はその中に続いている。
森の中には数軒の民家がある。森と見えたのは、家を守る樹木の塀と判る。
森の中は意外と広い。一軒一軒の家は大きい。庭も広い。その内の一軒に角田の車が停まる。
家の造りは相当に古い。玄関は一文字瓦、玄関の引き戸は木製のガラス枠。南側の掃き出し窓も木製のガラス障子。
車から降りると角田は”さっどうぞ”と言いながら、玄関の引き戸を開ける。土間は畳の半分の大きさ。左手の掃き出し窓の内側が一間幅の廊下。右手が台所兼居間。廊下の奥が紙障子で仕切られた和室だ。玄関の上り框の奥が台所となっている。
角田は居間に陽中公平を招き入れる。部屋の中は明るい。
「こっちの方が和室より寛ぎやすいでしょう」
角田は明るく陽気だ。
「おーい、佐江子!」角田は奥へ無遠慮な声をかける。
「はーい」声と共に、奥のドアが開く。
丸顔の女性がお茶を持って入ってくる。眼が大きい。半袖のカーディガンを着ている。髪を後ろに束ねている。化粧気がない。
「妹です」角田の紹介で、公平は椅子から立ち上がる。深々と頭を下げる。
「ああ、あなたが・・・」
角田佐江子はハキハキした声だ。大変でしたねえと同情の声を漏らす。日の入り町の喫茶店のマスターから聞いているらしい。
「さっ、どうぞ」角田は手刀を切る。腰を降ろすよう促す。佐江子はテーブルにお茶を置く。
陽中公平が現在までの状況を述べる。3歳まで陽中部落にいた事、父が行方不明になった事、常滑の母の実家に移った事、母の行方不明、その他。
角田兄弟は瞬きもしない。公平の顔を見つめている。角田健一は太い眉を八の字に寄せている。筋肉隆々の体を小さくして、椅子に腰を降ろしている。知的な眼差しだ。妹の佐江子は大きな眼を公平に向けている。頬が豊かで、美しい。形の良い唇をかみしめている。
公平の話が終わる。次に角田が口を切る。自己紹介代わりだ。
2人は元々日の入り町の住民だ。父の代に飯田市内に製材所を持つ。昭和の後半から平成にかけて住宅ブームが続く。一時は好景気で潤った。
やがて・・・。安価な外材の普及で、国内産の製材が下火となる。父の死後製材所を廃止、跡地にアパートを建てる。それが当たる。角田兄妹は働かなくても食っていけるが、一応職に就く。
――まあ、結構な身分でした――苦笑する。
平成15年、陽中部落の住民が一斉に姿を消す。前代未聞の事件だ。陽中部落は日の入り町とは目と鼻の先だ。ただ、住民同士の行き来は少ない。
陽中部落の人間が姿を消す。その3日後、大型ダンプ、ブルドーザがやってくる。家が壊され、道が消える。後は何も無かったように、元の静かさに戻る。
日の入り町の主だった者が役所に駆け込む。警察にも走る。マスコミ関係にも走る。
だが、役所も警察も、陽中部落という部落など、昔から存在しないとあしらわれる。
「そんな馬鹿な!」皆が騒ぎ出す。マスコミを煽り立てるが、反応はない。新聞もテレビも一切報道しない。インターネットで検索しても何も出てこない。
騒ぎ立てたものの、――これは一体何だ――狐に化かされたみたいになる。
興奮していた気概もしぼんでいく。1人去り2人去りしてついには”俺たちがどうかしていたのかな”元の生活に戻る。
角田健一は太い腕をテーブルの上に置く。彼は高校時代からボデイビルに精を出している。
「実に不思議なんですねえ」眉間に皺を寄せる。
200名という1つの部落が忽然と消える。センセーショナルな事件だ。テレビや新聞が、大々的に報道していい筈だ。新聞記者や報道人が押しかけて来てもおかしくはない。
ダンプやブルドーザが出入りするのみ。野次馬も来ない。来ないだけではない。役所などの公共機関に尋ねても”知らん”というのみ。
そんな部落は昔から”ない”という事なのだ。本当にそう信じているのか、あるいは誰かに口止されているのか。
奇々怪々な事件だ。背筋が寒くなる。
陽中部落を知る者は、日の入り町やその周辺の住民たちだけ。陽中部落から出ていった者は、申し合せたように家族を連れて行方不明となる。
人の好奇心を押しつぶす事は出来ない。
陽中部落を知る者は確実に存在する。そう信じて、部落の跡地を調べる。聞き込みの調査をする。
1週間、2週間と立つ。聞き込みをしていた者たちが1人残らず消えていく。交通事故で死ぬ。放火に会う。毒で死ぬ。水死。薄気味悪い事件が起こる。犯人は不明。調べる者もいなくなる。
陽中神社も日の入り神社名に代わる。陽中神社の神殿の額も消える。日の入り神社となる。
陽中部落の住民が消えた理由は何か、一切謎だ。
角田兄妹は厳しい圧力を受ける。日の入り町におれなくなる。やむなくここに移り住む。表立った調査を控える。幸いなことに、インターネットの時代だ。名前を出さずにメールだけで情報交換が出来る。
「相手はですねえ・・・」陽中は忌々しげに言う。
想像もできない連中だ。
陽中部落の住民票、戸籍謄本などは飯田市役所にある。
「私ためしにね・・・」角田は陽中部落の土地台帳や戸籍謄本、住民票の閲覧を申請する。
土地台帳を見て驚く。土地の所有者は、昔から飯田市、住民票、戸籍謄本、も存在しない。
――つまり初めから何もないのだ――
「この時、私は身震いしましたね」」
こんな芸当が出来るのは誰なのか。時の総理大臣でもこれほどの権力を持っていない。報道管制さえ意のままだ。
当然個人の力ではない。巨大な力を持った組織――。
こんな組織が日本に存在するのだろうか。
――秘密結社――
フリーメーソンは有名だが、これほどの力は持っていない。
角田は一息入れる。コーヒーを飲む。天井に眼を向ける。唇を一文字に結ぶ。逞しい二の腕が心なしか細く見える。
「私はね・・・」角田は公平の顔を覗き込む。
消滅したのは陽中部落だけではない。公平は驚愕する。
思わず声をあげる。
――日本中で、あちらこちらで同じ現象が起こっている――
角田はぐっとコーヒーを喉に押し込む。三分刈りの頭をごしごしと撫ぜる。
「もっと調べてみました」
世界中でも同じ現象が起こっていたのだ。消滅した住民、地名などを丹念に調べる。
「驚くべき事にね・・・」
角田は驚くという言葉を連発する。
すべて太陽に関係しているというのだ。陽中部落しかり。九州は鹿児島の日置郡にある日吉村しかり、埼玉県入間郡日高町、その他まだ沢山ある。
太陽信仰に基ずく地名の名残という。
「今言いました入間郡の入、日の入り町の入ですが・・・」
角田はこの意味が判りますかという顔をする。
北朝鮮の独裁者、金日成の日をいるという。日本語では昼をひると発言する。ひる、いるは語源変化して、日本では”ひ”と発音する。太陽の事だ。
入はもともと、ひる、いるの語源変化なのだ。
古事記、日本書紀によるイザナギ、イザナミの国生みの条に、二神の交接のの方法が間違っていて、生まれた児が蛭子、この子は葦舟に入れて流したとある。
聖書のモーゼ誕生の説話そっくりだが、問題なのはひるこという呼び名だ。
ひることは、ひるをひとすれば、ひこ、彦になる。日本では男の子、長男を言う。
ひことは、日の子、太陽という意味になる。
古事記、日本書紀が書かれた時代、ひるという本来、朝鮮半島からの言葉が否定される。
日本では太陽信仰は、天武、持統朝の頃に頂点に達する。
伊勢神宮の天照大神を太陽神と位置図けている。ちなみに、天照には太陽の意味はない。太陽はあくまでも、ひ、ひる、いる、で表現される。
天照の天は本来は月信仰であると考えられる。
陽中公平は驚きあきれる。度の強い眼鏡をたくし上げる。
消滅した部落の住民は、太陽信仰の子孫と言うのか。
「あの・・・」公平はおずおずと尋ねる。。
2032年に人類は滅亡すると聞いた。日の入り町の喫茶店のマスターの柔和な表情が目に浮かぶ。
角田は黙って頷く。
「でも・・・」行方不明者とそれとどういう関係があるのか。
公平は喉まで出かかった疑問を、ぐっと飲み込む。
「話すと長くなりますが・・・」時間の方は良いのかと言う。
公平は今日中に帰らねばならない用事はないという。
「よろしければ、泊っていただいたら?」
佐江子の大きな眼が、兄の同意を求める。角田健一はにこりと笑う。
公平は不思議そうに2人を見る。
辛い目に会っている。佐江子の方は暴漢に襲われている。角田健一も危うく殺されかけた。追われるようにして、ここに隠れ住んでいる。その過去のしがらみをみじんも感じさせない。活力に溢れている。雑草のような逞しさがある。前向きに生きている。
「そうだね、そうしてもらいなさい」1人合点する。公平は素直に好意を謝す。
「ここでは何だから・・・」
角田が立ち上がる。公平に来るように促す。キッチンの奥、左手のドアを開ける。一歩出る。左手南、廊下の先が玄関。そのまま真っ直ぐ、西へ行く。右手にトイレ、フロ場、洗面室がある。左手が和室、2部屋。
5メートル程廊下を歩く。引き戸がある。奥に部屋が2つある。角田兄妹の個室兼寝室と書斎。
書斎は16帖。壁に手作りの本棚がある。三方の壁には天井から床まで、びっしりと本が並んでいる。机が2つ。ノートパソコンがある。テーブルとソファーもある。
「どうぞ、腰を降ろして」角田は本棚から一冊の本を取り出す。佐江子がお茶と茶菓子を持って入ってくる。
「ここね、私達のプライベートルームなの」佐江子がウインクする。
フォトンベルト
角田は本をテーブルに置く。
”フォトンベルトの謎”本の題名だ。数年前に出版された。赤い帯に、――2032年12月22日、太陽系は1万1千年ぶりにフォトンベルトに突入する。人類は終焉を迎えるのか――刺激的な文章が並ぶ。
陽中公平は手に取ってみる。170ページ程度の厚さだ。
「簡単に説明しますとね」
角田は1口お茶を飲む。部屋は程よくクーラーが効いている。窓がないので、昼間でも灯りをつけている。
角田は3分刈りの頭に手をやる。体育系の体に似ず、読書家だ。公平は角田の口元を見詰める。
2032年12月22日、太陽系惑星はフォトンベルトにすっぽりと覆われる。結果、地球の磁場はゼロになる。
フォトンベルトにとは、光エネルギーの事だ。“光子”と訳される。
水素やヘリュウムなどの元素の一番小さな状態を原子と言う。原子の中心には陽子と中性子からできた原子核がある。その周りを回っているのが電子だ。
1932年、アメリカの物理学者カール・アンダーソンは電子の反粒子を発見。陽電子と命名。
フォトンは、この電子と陽電子が衝突する時に生じる。衝突する電子と陽電子は双方ともに消滅する。2
個または3個のフォトンが生まれる。
フォトンエネルギーはすべての生命を原子レベルから変化させる。
光――光の粒子としては光子。波としては電磁波という。光子が電磁波的な力を媒介して、その力が働いているところを”電磁場”と呼んでいる。
光子が帯状になっている状態をフォトンベルトと呼んでいる。
――このエネルギーは人類史上未知なエネルギーだ。2032年にはフォトンベルトにすっぽりと包まれる――
1961年、科学者のポール・オット・ヘッセはフォトンベルトを発見している。
博士は人工衛星を使って宇宙を観測中、ブレアデス星団近くで黄金色に満ちた星雲を見つける。
通常星雲はガスや宇宙塵が集まって出来る巨大な雲のような物で、質量はゼロに等しい。ヘッセ博士が発見した星雲は質量が認められた。この星雲を博士は、後に、ゴールデン・ネピュラ(黄金星雲)と名付けた。
この星雲はプレアデス星団に対して直角に位置する。巨大なトロイド(ドウナツ)をしている事が判明。
ベルとの厚さはおおよそ2000太陽年(759兆8640億マイル)にも及ぶ。地球つまり太陽系は2万000年から2万6000年程の周期で、この星雲の中を入ったり出たりしている事も判明。
フォトンベルトは巨大なドーナツ型で、現在、一方の端がベガサス座のメンカリナン星付近に見られる。
フォトンベルトは強力な多相カラー分光器で処理する事で可視出来る。
フォトンベルトの存在を予言したのは、ハレー彗星の発見者、イギリスの天文学者、エドモンド・ハレーだ。18世紀初頭の事だ。
1996年12月20日、ハップル宇宙望遠鏡で、フォトンベルトの撮影に成功。
角田の眼は天井を見ている。淡々と喋っている。陽中公平は度の強い眼鏡をたくし上げる。角田の口元を凝視する。佐江子は化粧下のない顔を兄に向けている。
・・・すごい話だ・・・
公平は胸中で疑問を感じている。こんなすごい話が、どうして、テレビや週刊誌、新聞に取り上げられないのか。
2032年まであと8年、人類が滅亡するというなら、センセーショナルな事件として報道されても良い。
――フォトンベルトの謎――この本がベストセラーになったとは聞いていない。
”フォトンベルト”初めて聞く言葉だ。陽中だけではない。世の大半の人間も知らない筈だ。
角田は天井を睨みながら、ゆっくりと喋る。
銀河宇宙がフォトンベルトを通過するのに、2000年かかる。それから1万1000年後、ドーナツ型のフォトンベルトのもう一方の帯に突入する。
――つまり――
太陽系を含む銀河宇宙は2万6000ん年かけて、フォトンベルトを一周するのだ。
1987年の春分の前後、地球はフォトンベルトに突入。その時は太陽を廻る公転軌道の関係で、数日間だけだった。
その後、年と共に浸る期間が長くなる。
1999年から2000年にかけて、地球の軌道の半分、つまり1年の半分の期間がフォトンベルトに浸ることになった。
この時期、太陽は完全にフォトンベルトに入り込んでいる。地球は公転軌道の関係で出たり入ったりを繰り返す。
2032年の冬至、完全にフォトンベルトに突入。
その結果、磁場、重力場など、全ての環境は大きな変化に見舞われる。
――地球の磁場が減少する――
2032年に地球の磁場はゼロになると予測される。
太陽は11年周期で活動している。太陽の内部でフレアという大爆発が起こる。結果、太陽磁場が増大する。磁場内に蓄積されているエネルギーが一気に解き放たれる。それが太陽風と呼ばれる。
太陽風の速度は秒速で数百キロメートル。時には千キロメートルを超える。猛烈な勢いで地球周辺に吹き付ける。
太陽風は地球磁場に会うと流れを変える。大規模な発電作用、太陽風発電が生じる。その電力で生じる現象の1つがオーロラである。オーロラは宇宙規模の放電現象なのだ。
このような現象は、高速の荷電粒子が衝突波となって放出される。おびただしい量が太陽系空間に放出されるのだ。これが地球の磁気圏で磁気風が起きる原因となる。地上の電波の通信網が乱される。人工衛星の機器が不調になる。
地球は巨大な磁石である。地球の周囲を磁力線で囲んで磁場を形成している。この磁場が磁気圏やバンアレン帯を作っている。太陽風の有害な放射線を遮っている。
――地球の磁場が消滅する!――
太陽からの有害な放射線にさらされる事を意味する。
地球の温暖化が叫ばれて久しい。原因は炭酸ガスの増加ではないのだ。
年々減少する地球磁場、太陽風の影響によるものだ。
地球に直射する太陽風は気候にも大きな影響をもたらす。異常な雨期や旱魃、季節外れの台風、集中豪雨。
磁場を失った魚は岸に打ち上げられる。渡り鳥は方向感覚を失う。
人間の体や精神にも異常をきたす。”うつ”の人は自殺する。情緒不安定の人は殺人を犯す。動機無なき殺人が増加する。
社会は不安定になる。世界各地でテロや戦争が多発する。
結婚
角田は喋るのをやめる。どうしたのだという表情で公平は角田の顔を見る。
「ここから先は、本で読んで」これ以上話すのが辛いと言うのだ。
陽中公平も無理して聞こうとはしない。
「でも・・・」口ごもって、角田の顔を見る。
このこと部落民の行方不明とはどういう関係があるのか。
角田は頷く。がっちりとした体格で好男子だ。
「フォトンベルト、突入の日・・・」彼は天井を見上げる。
天地異変が地球を襲う。
「多分としか言えないが・・・」
彼らは安全な場所に隔離されていると考えられる。
「でも、それなら、公平さんはどうなの?」
佐江子が異を唱える。
陽中部落の関係者全員が消えている。公平の母もそうだ。だとすると、公平自身も消えていい筈だ。
角田は天井に眼を向けたまま、困ったという顔をする。
「あなたは・・・」公平を直視する。
「大きな役目があるのでは・・・」その為に残されたのではという。苦しい言い訳だ。正解を求めるのは無理と言うものだ。
陽中部落の話は打ち切りとなる。公平は角田の家で一泊する。翌朝帰宅する。帰り際、2人に再会を約す。
9月下旬、角田健一と妹の佐江子が常滑にやってくる。
――宮内――祖父母の姓だ。陽中公平は父方の姓を名乗っている。佐江子の清楚な表情を見るなり、祖父はこの女と結婚しろと言う。
公平はびっくりする。言われて満更でもない。最初あった時から、心秘かに魅力を感じていた。
お盆休みで、角田の家で一泊した時、夜遅くまで語り合った。佐江子は公平の話を熱心に聞いてくれた。彼女の性格は、好き嫌いがはっきりしている事だ。
――妹は公平さんを好いているようですよ――
角田が公平の耳元で囁く。公平は佐江子を意識する。取り立てて美人という訳ではない。清々しい雰囲気を湛えている。知的な眼差しが美しい。
翌朝、佐江子は手土産にとおにぎりを手渡す。公平は有難く受け取る。
再会して1ヵ月有余。たった1日の出会いだった。公平の心には佐江子の面影が支配していた。
祖父に言われる。満更でもないと思う反面、心の中を見透かされているような気持だった。顔が赤くなる。ドギマギする。
「泊っていってもらったら・・・」祖母の声。
公平もそのつもりでいる。角田にその旨を伝える。佐江子の顔が輝く。
公平は2人を車に乗せて、常滑市内を案内する。
常滑は焼き物の町だ。一昔前までは土管を生産していた。昭和30年代、レンガ作りの煙突から、無数の煙が立ち上る。石炭を燃料とする単窯の全盛時代だ。
――常滑の雀は煤けて真っ黒だ――とか――洗濯物を干すと、煤で黒くなる――とか言われていた。
今、レンガ作りの煙突はほとんど姿を消している。
昭和50年代に入って土管の需要が落ちる。代わって駄鉢が生産される。それも、プラスチック製の鉢に取って代われれる。今は朱泥の急須や湯呑茶碗が作られている。
焼き物散歩歩道が整備されている。陶芸作家が店を開く。自作品を並べて売るだけとなっている。
「競艇場がありましてね」公平は佐江子を意識している。
焼き物散歩歩道を歩く。佐江子に寄り添う様にして歩く。兄の健一が公平の横に並ぶ。
「常滑は陶器と縁がありましてね・・・」公平はウインクする。
「競艇も投機=トーキ、ですから・・・」
意味が判ったらしい。
「あら!」佐江子はおかしそうに笑う。健一はにこにこしている。
佐江子は紺のジャケットを着ている。9月下旬と言ってもまだ暑い。兄の健一は半袖のシャツ。太い腕がむき出しだ。
常滑市役所から東へ約5百メートル行く。陶磁器会館がある。そこを出発点として、焼き物散歩歩道がある。常滑を訪れる観光客は例外なく散歩歩道を歩く。近くに喫茶店がある。
「入りましょうか」公平は先導して中に入る。客席は10、客の入りは6分ほど。店内は昔の工場をそのまま改造している。薄暗い。天井が煤けている。テーブルも生地の土管を載せるために利用した、丸い板だ。桟と呼んでいる。コーヒーカップは粘土の焼き物、茶褐色に自然の釉薬がかかっている。ロクロで引いたものではない。手で作った物だ。
「私もこんなものを作ってみたい」
佐江子が目を輝かす。
「公平さん、実はお願いがあって参りました」
角田は周囲を気にしている。声をひそめる。彼の話はこうだ。
飯田市にあるアパートや土地を全部処分したいと考えている。今住んでいる恵那市の借家も引き払いたい。出会って間もない陽中公平にお願いするのは失礼とは思うが、常滑に引き移りたい。
公平はびっくりして、眼鏡をたくし上げる。
「何があったんですか」公平は心配している。2人は殺されかけているのだ。得体の知れない影の力が、2人を脅かしているのか。
角田は手を振る。恵那市に移ってからはその心配はなくなった。
「実は・・・」角田は公平を見詰める。佐江子も公平を見ている。真剣な表情だ。
「妹をもらってもらえませんか」
「えっ!」公平は驚く。佐江子を見る。彼女は硬い表情だ。お願いとばかりに頷いている。
公平にとって願ってもない話だ。どうやってプロポーズしようかと思案していたところだ。それが向こうから飛び込んできた。
・・・カモがネギを背負ってやってくるとはこのことか・・・
内心、公平は欣喜雀躍だ。
「喜んでお受けします」深々と頭を下げる。
実は・・・。と、どうやって心の内を打ち明けようかと思い悩んでいた。公平は真っ直ぐ佐江子を見て話す。
佐江子の顔がパッと輝く。私もあなたに断られたら、どうしょうかと悩んでいた。彼女の口が饒舌に動く。
角田健一はそんな2人をにこにこと見ている。
「兄さん、もう話していいでしょう」
佐江子は真顔になる。兄の同意を求める。
――私達、今年中に、こちらに引っ越してきたいの――
佐江子はハキハキとした物の言い方だ。曖昧さがない。白黒がはっきりしている。結婚、引っ越し、、公平は驚く事ばかりだ。
以下、佐江子の話は驚愕の事実を物語る。
前にも話したように、陽中部落の住民が行方不明になる。それを捜し求める者は、例外なく不審な死を遂げている。
否!例外が2人いる。角田健一、佐江子の兄妹だ。2人は暴漢に襲われたり、家が放火に会ったりしている。後難を恐れて恵那市に引越した。表立っては陽中部落の事は調査していない。それが幸いしたのか、身の危険はなくなった、と言っても安心したわけではない。
――3年前でしょうか――
健一が口を切る。妹の言葉尻を上手くつかむ。
1人の少年が角田家を訪問する。丁度2人が在宅していた。不思議な少年だった。真冬で雪がちらついていた。息も凍るような寒い夜だった。
少年は作務衣のような白い服を着ていた。玄関に立った少年の体からは熱気が発散している。廊下に電燈が点いているが、薄暗い。少年の全身からは金色のオーラが発散している。長い髪が肩まである。初め見た時は女の子かと思った。それ程色が白い。柔和な表情、目鼻立ちが可愛い。
ただ――眼光が鋭い。無邪気な子供の眼の輝きではない。対応に出た2人は上り框に跪く。少年の気力が2人を圧倒している。
神・・・、一瞬2人は直感した。
少年は立ったまま、口を開く。
”3年後、陽中部落の生き残りの者が、この家に来る”
2人は驚く。生き残りがいるとは知らなかったのだ。
”その者は、あなたと結婚する”佐江子を指さす。
その上で、少年は驚くべき事実を述べる。角田健一が陽中部落の事を調べる。交通事故に遭う。暴漢に襲われる。家が放火される。これらは我らの仕業ではない。いずれ判る日が来る。これ以上害に会わないために、ここに避難させた。
2人は驚くばかりで口もきけない。
”3年後、ここを引き払え、結婚する相手の元へ行け”
「もし、その人が見えたら、フォトンベルトの事を話してもいいでしょうか」健一は思い切って質問する。
”もしではない。ここへ来るのは事実だ”
少年の眼は角田健一を威嚇する。凄まじいパワーが2人を包む。2人は平伏する。
”話してもよいが身をもって体験する事になる”
「あの・・・」佐江子は顔を上げる。結婚した後、どうなるのか知りたいのだ。
少年の顔が柔和になる。
”あなたのお腹から、女の子が生まれる”
この子はやがて結婚して、偉大な者を産む。
2人はもっと知りたいと思った。少年は手で遮る。後ずさりする。玄関の引き戸が一人でに開く。少年の姿がそのまま外に出る。引き戸が閉まる。2人はあわてて玄関を降りる。引き戸を開ける。外は雪がチラついている。地面はうっすらと雪化粧している。少年の足跡はない。
2人は呆然と佇むのみ。
薄暗い店内に、2人連れのアベックが入ってくる。角田健一は彼らをチラリと見やる。コーヒーを飲む。
「私の話、信じられますか」陽中公平の顔を見る。
お盆休みに2人に出会っていなければ、信じなかった。
――今は――公平は素直に頷く。
角田健一の話が続く。
「それから3年後・・・」角田の口調は静かだ。
陽中公平が現れる。2人は驚く。少年の言葉は現実のものとなる。
――予言は未来を予測する事、私の言葉は預言だ――
少年は預言の意味を伝える。預言は神の言葉だ。神の言葉はすべて現実のものとなる。
公平を見て、2人は確信する。風采は上がらない。分厚い眼鏡をかけている。丸顔で大人しい性格だ。温厚で篤実な表情をしている。陽中公平への第一印象だ。
・・・この人と結婚するのね・・・佐江子は胸のときめきを覚える。会ったばかりだ。それを口に出すのは憚られる。
自分達の書斎で”フォトンベルトの謎”の解説をする。
「この時、不思議な事が起こりました」
角田健一は不思議という言葉を使う。公平を直視する。
公平はもう驚かない。黙したまま角田の声に耳を傾ける。
――天井から少年の声がする――というのだ。
自分が喋っていながら、声に喋らされている感じだ。
フォトンベルトについて、もっと詳しく説明しようと思った。急に声が途絶える。角田の声も詰まる。それ以上出てこない。声だけではない。話の内容も脳裡に浮かんでこないのだ。
「公平さんが帰られてから、2人で相談しました」
佐江子は言葉を継ぐ。少年の預言を信じよう。
「私、公平さんが結婚してくれると信じていました」
佐江子の大きな眼がキラリと光る。声が大きい。店内の客が振り返る。
公平は深々と頭を下げる。これからよろしくお願いします。真摯な気持ちで2人を見る。
角田兄妹は一旦恵那市に還る。
2022年、12月上旬、飯田市の所有地を整理する。恵那市の借家を後にする。
2023年3月、陽中公平34歳。角田佐江子25歳、結婚。角田健一は宮内家のアパートの1室を借りて住む。2025年10月、陽中日奈子誕生。
孫の誕生を見定めたかのように、翌年祖父母が死亡。
平穏な日々が続いている。社会は地球規模で異常が続く。世界各地でテロが続発。大規模な地震が起こる。2年前、角田兄妹が住んでいた恵那のラジュウム温泉館の源泉が涸れる。マグニチュード5の地震が起こる。角田達が住んでいた部落の家屋は倒壊。死傷者が出る。
テレビの報道を見て、公平や佐江子達は顔を見合わせる。
――我々は守られている――手を取り合って喜ぶ。
だが・・・、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
暗殺者
2025年2月。
大山京一、45歳。北設楽郡稲武町に在住。国道153号線夏焼温泉場の近く、周囲は森林、稲武町役場が近い。平屋の50坪の家は農家を改造したものだ。
2百坪の庭に、スポーツカーや前輪駆動車、その他トヨタクラウンがある。
平屋と言っても中2階の木造住宅。南側の掃き出し窓は網入りガラス。玄関の引き戸は自動式。中に入ると、北側にシステムキッチン、ユニットバス、トイレがある。
玄関右手は食堂、応接室。左手掃き出し窓は、和室を改造して、田の字型の洋間である。パソコンや通信機器がズラリと並んでいる。北西の部屋は書斎。床を持ち上げると、地下室に入る。部屋が3つ。1つはスポーツジム。1つは倉庫、銃器や火薬庫が入っている。後1つは瞑想室。
大山の仕事は殺人請負い。依頼は国家。
判りやすく言うなら、国家権力を背景とした政治家、実業家。それに・・・、彼らを操る謎の組織。
政治家や経済人には談合や汚職がつきものだ。贈収賄は日常茶飯事。問題なのは、不正行為が発覚した時だ。お金や圧力でもみ消し出来れば上々、社会問題と化し、裁判や国会喚問として、白昼にさらけ出された時が問題だ。
誰かに責任を負いかぶせて死んでもらうしかない。
他殺ではまずい。自ら命を絶ってもらわねば、世間が承知しない。
”重要参考人、某大臣の自殺。事件の真相は闇の中へ”
自殺に見せかける――大山の仕事だ。
当然大山1人では出来ない。彼の部下は全国に散らばっている。情報収集はお手の物だ。
数年前から”X”と名乗る人物からの依頼が増えている。
実に奇妙な依頼だ。
2003年頃から全国の村や町から、多くの人間が行方不明になっている。新聞やテレビで報道されても不思議ではない。
・・・そんな事件があったのか・・・大山自身があ然とする。
奇妙だというのは依頼の内容だ。この事件の真相を知ろうと詮索する者がいる。彼らを抹殺しろ。
大山は戸惑う。普通は真相を探れと言うものだ。
大山が扱う殺人依頼はパソコンのメールで送られてくる。
――何々新聞、何月何日、何頁何行――その行の文字を拾っていくと、依頼の文章になる。
ところが”X”なる人物は直接指示してくる。
夜間12時頃、突然眠気に襲われる。頭の中に人の声が響く。殺人依頼の指示だ。有無を言わさない強い響きがある。
報酬の金額が振り込まれる。大山の戸惑いは大きい。
”仕事”の依頼が入った場合、罠ではないかと下調べをする。問題なしと決定した場合、報酬の5割を振り込ませる。成功した後に残金を貰う。
しかし”X”はテレパシーを通じて大山に指示する。翌日望外な報酬が振り込まれる。いつまでにやれという指示もない。
”仕事”は実に簡単だ。陽中部落の場合、詮索者は25名。その内の23名は交通事故、放火、痴話げんか等で始末する。
2名が失敗に終わる。角田兄妹だ。
交通事故で、トラックで体当たりすると、角田の車は大破する。しかし当の本人はピンピンしている。放火で角田の家を焼く。急に雨が降り出す。
暴漢が佐江子を襲う。誰だとばかりに、2~3人の通行人が暴漢に襲い掛かり、佐江子は難を逃れる。
2人は恵那に引っ越す。
・・・2人はもうよい・・・Xの指示でうやむやになる。失敗に終わった分の報酬を返せとは言わない。
大山は頬の張った4角い顔をしている。大柄で茫洋とした風貌だ。普段は人なつこい。北設楽郡に引っ越ししてきて10年になる。表向きは都会の生活に嫌気がさして、田舎で1人、のんびりと暮らしたいというのが理由だ。周囲に農家が多い。大山はお米や野菜などを買ったりする。腰が低いので好感をもたれる。
"仕事”が入ると、1週間か10日、家を留守にする。近所の人に1週間ばかり家を明けるからよろしくと頼んでいく。
”仕事”が無事に終わる。留守の間、有難うと手土産を持っていく。
大山は若い頃から格闘技に秀でている。しなやかで逞しい体をしている。大山の率いる暗殺集団は格闘技仲間だ。
大山は東京生まれ、10年前、知人の政治家から、当時の官房長官を紹介してもらった事がきっかけとなっている。政府要人にはSPがつく。役職を解かれて”ただの政治家”になると警固は自己負担となる。大山たちにお鉢が回ってくる。
やがて、殺しの依頼が入るようになる。個人的な怨みでの復讐的な殺しは引き受けない。大山たちの信条だ。いつ自分達の秘密が漏れるか判らないからだ。権力をもつ政治家や実業家なら、その心配はないと判断している。
だが・・・、Xからの指令が入る。大山たちの信条が狂う。Xの殺人の依頼は一般人ばかりだ。そこいらのチンピラでもやれる仕事だ。
大山達にもプライドがある。ターゲットは社会的に身分の高い人物だ。当然身辺の警護も厳しい。彼らの警固のスキを狙って殺す。自殺に見せかける。その手際の鮮やかさを競う。職人芸の見せどころなのだ。
大山の部下は社会に溶け込んでいる。一市民として家庭を持っている。自営業の者もいれば、会社員の者もいる。連絡はスマホのメールで行われる。釣りをしませんか。登山はどうですか。一泊旅行はいいですね。ごくありふれた文面の中に、大山達だけが判る暗号が隠されている。
例えば、次のターゲットは・・・――の場合、次の・・・は1週間後の日曜日、ターゲットは大山達だけが判る秘密の場所となる。その場所に集合する事という暗号となる。
実に簡単で他愛のない暗号文だ。この方がかえって怪しまれないで済む。
1年に一回、大山達は親睦を兼ねて、集合する。
欠けた者はいないか。身辺に異常はないか、確認し合う。
総勢30名が山里のお寺、観光から外れた温泉宿に宿泊。人気のない場所で1年の反省や今後の見通しが話し合われる。話の内容が尋常ではないが、会話は穏やかなで、声も小さい。
親睦会は春に行われる。この年2025年は愛知県鳳来町湯谷温泉が選ばれる。湯谷温泉から徒歩10分の所にこじんまりとした丘がある。ハイキングを兼ねて、反省会が行われる。
その席上、部下の一人がXについて言上する。
――高額な報酬を得るとしても、我々の信条から外れた仕事だ。断るべきではないか――
大山・・・そうしたいが、どうしても断れぬ。
30名の部下から異論が出る。信条は信条、報酬は報酬と割り切ればよいではないか。いや、信条から外れた仕事はやるべきではない。
端からみると、和気あいあい、談笑の風景だ。
5月、からりと晴れた天気、雲1つ無い空、涼しい風が吹く。草原に寝そべっての議論、平和な雰囲気だ。
信条を貫く者、報酬を重要視する者、意見が2つに分かれる。
この時だ。急に肌寒い風が吹く。全員スポーツウエアーを着ている。身震いする風に身を縮こませる。雲が出たのか暗くなる。睡魔に襲われる。
――よく聞け――全員の耳元で、しわがれた声がする。Xの声だ。
――私の言葉は命令だ。違反は許さない――高圧的な口調だが、反発心は起こらない。圧倒的なパワーを感じる。
Xの話は驚愕に満ちたものだ。
――今後は政府高官や実業家からの依頼はない。行方不明者を探索する者を殺す事もない――
・・・それでは我々の仕事は・・・
――2032年12月22日、人類の大半は死滅する。この事実からは誰も逃れられない――
大山は睡魔の中で絶句する。後7年先ではないか。そんな重大な事実は聞いた事がない。情報収集能力に自信がある。
――これから与える仕事は――
Xの声が一瞬途絶える。
――2032年に人類滅亡を声高に叫ぶ者を始末せよ――
声が消える。睡魔から目覚める。周囲が明るくなる。30名の者は互いに顔を見合わせる。黙したまま呆然としている。
燦々とした太陽が頂上にある。鮮やかな緑が美しい。西の方に鳳来寺山が見える。鳳来寺山パークウエイが白く蛇行している。東も北も山また山だ。南の方に新城市の町並みがかすんで見える。
15名の男達が野原で寝そべっている。長閑な風景だ。
一泊旅行を早々に切り上げる。
2032年に何が起こるのか、30名の暗殺者たちは調べ上げる。大山を中心として、インターネットの情報交換を行う。結果、とんでもない事実が浮かび上がる。
フォトンベルト、太陽系がその帯を通過するのに2千年かかる。電気を使用する物は一切使用不可となる。それだけではない。シューマン共振に異変が生ずる。結果的に、人間の精神に異常をきたす事になる。
――シュウマン共振――
大山は呟く。聞きなれない言葉だ。パソコンで調べる。
1952年、アメリカ、イリノイ大学のシュウマン教授によって、低周波の電磁波が地球全体と共振している事実を発見。シュウマン共振と名付けられる。
地上から数百キロ離れたところに電離層がある。地球の大気の上部層で、空気分子の多くが電離している領域の事だ。
電離層は3つの層に分けられる。
下の方はD層。太陽からの紫外線で空気分子はイオン化される。真空状態なので、イオン間の衝突はほとんど起こらない。イオン化されたままが多い。高度60~90キロメートル。この層は日中のみ発生する。
その上はE層。高度90キロ~130キロメートル。短波などの低周波の電磁波を反射する。
さらに130キロメートルから始まるF1層と300キロメートルから始まるF2層。F層の位置は毎日変化する。それに応じて電波の反射振波も変わる。
電離層と地上との間には巨大な電気的共振作用のある空間が存在する。最下層のD層と大地の間で、超低周波が反射し合う”シューマン共振”が起こっている。
雷によって電離層に電波が発生する。電波は電離層の空間を共振状態を作りながら伝播する。
地球を包み込む共振波は、太陽風、月の引力、他の天体からのエネルギー波動にも連動して変化する。
D層で発生する共振波動は、7.8ヘルツ.から31.7ヘルツの超低周波帯に集中している。
シューマン共振とは、雷で派生した電波が地球を一周する事によって共振する同調周波数を指す。
7.8ヘルツ周辺の周波数は約4万キロメートルの波長を持っている。これは地球を一周する距離に当たる。
電離層には55キロメートル程の穴が開いている。共振した波動はそこから地上に伝播する。
地球には北極と南極の間に長大な地磁気の磁力線が走っている。巨大な磁石だ。この磁気園(バンアレン帯)によって、強力な渦巻きが磁力線で、太陽風は遮断されている。地上の生物が無事なのはこのためだ。
シューマン共振は他の天体からのエネルギー活動と地上からの磁気が共鳴し合って発生する。そこから、シューマン共振は、、地球そのものが発生する波動=地球の基礎周波数ともいわれている。シューマン共振は地球の太古から存在して、生物に大きな影響を与えてきた。
NASAの宇宙船の中に”シューマン共振発生装置”が装備されている。宇宙飛行士が安定した精神状態で過ごすためにシューマン共振が不可欠なのだ。
シューマン共振が発する7.8ヘルツの周波数こそは、人間の脳が発するα波なのだ。
脳波は、興奮状態の時の12~26ヘルツのβ波。リラックスしている時の7~12ヘルツのα波、まどろんでいる時の4~7ヘルツのθ波と分けられる。
α波――精神的に非常に心地よい状態。
風や海面の波動、小鳥のさえずり、小川の音、虫の音などはα波なのだ。
現在――シューマン共振に異変が表れている。
久留米大学の末永一男医学博士の学説――人間の脳には微弱な電気が流れている。神経系を通じて体の隅々まで流れている。この流れを電磁波が混濁している。人間の内部機能に影響を及ぼしている。
シューマン共振は1980年頃を境に波動が上昇している。1997年には10.1ヘルツ。現在は14ヘルツまで上昇している。
2030年頃までには20.0ヘルツまで上昇すると予測される。
大山は天井を見上げる。嘆息する。このとんでもない事実は1部の知識人しか知られていない。新聞やテレビ、雑誌などで報じられる事もない。政府高官もこの事実を把握していると知る。アメリカ政府も知っていながら、公表すらしない。もっぱら環境問題として、地球温暖化ばかりを取り上げている。国民の眼を環境問題に釘付けにする。
シューマン共振の異変を封印しようとしている。
1つの部落民全員が行方不明になる。テレビや新聞は一切報道しない。それを詮索する者を抹殺する。
・・・何かある・・・
大山の血が騒ぐ。
陰謀
新たな情報が入ってくる。パソコンのディスプレイを見る。
シューマン共振の異常・・・14へルツの恐怖、人体の原子分子、細胞は新陳代謝や病気の進行が早くなる。精神は興奮状態にある。好戦的な人間が多くなるのだ。人を殺しても平然としている。親が子を殺す。子が親を殺害する。
営々として築き上げてきた倫理感が崩壊する。
シューマン共振の異常はそれだけではない。気象異常が訪れる。
1992年、マサチューセッツ工科大学のアール・ウイリアムズ博士は”シューマン共振”が熱帯の気象に多大な影響を与えると発表。熱帯地域の温度を1度上昇させると言うのだ。
地球の温暖化現象について、二酸化炭素の大量発生説が流布して久しい。
だが欧米の科学者の多くはこの説を支持していない。
1991年、フィリピンのビナツボ火山が噴火する。その後2年間、大気中の炭酸ガス濃度は増えなかった。人間が炭酸ガスを排出しなかったせいではない。
ビナツボ火山の噴火で、埃が日光を遮断する。気温が上がらない。その結果、炭酸ガス濃度が増加しない、という事だ。つまり気温が先で、炭酸ガス濃度が後なのだ。
シューマン共振の上昇――フォトンベルトの影響によるものだとささやかれて久しい。だがこの事実を公表う者は少ない。
2032年12月22日、太陽系惑星はフォトンベルトに突入する。人類は滅亡。このショッキングな事実が、どうして世に受け入れられないのか。
大山は四角い顔を撫ぜる。フォトンベルトと、部落民の行方不明者とどういう関係があるのか。詮索者をどうして殺さねばならないのか。
・・・俺たちはとんでもない事に手を貸しているのではないのか・・・
X・・・一体何者なのだ。人の心を自在に操る。テレパシーで直接命令を伝える。命令と同時に莫大な報酬が振り込まれる。資金源はどこなのか、一国の政治的権力さへ意に介していない。
考えれば考える程判らなくなる。
フォトンベルトに関して、とてつもない力が働いている。
X・・・彼は何をしようとするのか。
大山はパソコンから目を離す。急に睡魔に襲われる。
――お前の疑問に答えてやろう――Xのしわがれた声
2032年12月22日に人類が滅亡する。それを政府が公表したらどうなる。アメリカ合衆国の大統領が全世界に向けて演説したらどうなる。
パニックが起こる。秩序が崩壊する。国民の統制が効かなくなる。テロや暴動が多発する。フォトンベルトは決して公表してはならぬのだ。それを公然と世に出す者は抹殺せねばならぬ。
部落民の行方不明、彼らはフォトンベルトの災害から避難したのだ。これも決して世に出してはならぬ。詮索していきつく先はフォトンベルトだからだ。
――だが、2032年は間近だ。いずれ知れ渡るではないのか――大山の疑問だ。
その通りだ。その時は人類の大半が死滅している時だ。
――それなら何もせずに放っておけばよいではないか――
大山は釈然としない。
――お前は死にたいか――Xの笑い声。
たった1つ助かる方法がある。その為には宏大な土地と巨額の資金が必要だ。生き残るための施設が世界各地で建設中だ。日本でも富士山麓の青木ヶ原で進められている。
大山は驚愕する。
――生き残るのは世界中で1億人――残りの人類は死滅からは免れない。この事実を公表するとどうなる。暴動が送る。資金調達に支障が出る。
地球の温暖化防止に二酸化炭素を削減しよう。世界中の首脳に呼びかける。いずれ石油資源が枯渇する。代替エネルギーの開発を国家が主導する。
世界中の人々の眼を環境問題に向ける。その裏で着々とフォトンベルトからの避難シールドの建設が進められる。
生き残るのは、Xから選ばれた者、日本でも生き残るのは百万人程度。彼らが生き残るために、国民の眼を欺く必要がある。
世界規模での陰謀が張り巡らされる。
北朝鮮の核問題
日本やアメリカは北朝鮮が核爆弾を発射させると、本当に信じているのだろうか。東京やワシントン、ニューヨークに核を打ち込んだらどうなるか。一瞬の内に北朝鮮の領土は焦土と化す。
北朝鮮の国民を救うなら、現体制を崩壊させるべきだ。現体制が続く限り、国民は救われない。そんなことは百も承知しているのに、現体制の延命を図っている。核放棄という名目で物資の援助を行っている。
核開発や核実験には膨大な資金が必要だ。北朝鮮は国民生活を犠牲にしてまで行っている。いつまでも続く訳がない。アメリカはその事を承知の上で核放棄をせまる。
何故か。北朝鮮が核を持つことが怖いのではない。核の恐怖を全世界に知らしめる。大国による核支配が永遠に世界平和に寄与すると思い込ませる。
2032年12月22日をもって、核爆弾は無力となる。核だけではない。ミサイル、人工衛星、飛行機、軍艦に至るまで無能化する、つまり屑になる。
アメリカはそれを知っている。この事実を全世界に公表したらどうなるか。核抑止力で世界に君臨するアメリカの威信は地に落ちる。北朝鮮の政府首脳も知っている。知っていながら、米よこせ、核開発を強行するぞと脅かす。何の事はない。狐と狸の化かし合いだ。
だが――、大山の疑念は深まるばかりだ。
フォトンベルトに突入する。核物質は核分裂を起す。世界中の核爆弾が爆発するという説もあるのだ。
・・・これは有り得ない・・・
これが事実なら、アメリカやロシア、中国などの核保有国は核放棄の対策を講じている筈だ。
アメリカによる湾岸戦争、イラク侵攻。
フセイン大統領が核を持っているという理由でイラクに侵攻。イラク制圧後、自爆テロの続発。アメリカの軍事費は垂れ流し状態だ。
軍事費の一部あるいは大部分が、フォトンベルト避難シェルター制作に流用されているとしたら・・・。
9月11日の世界貿易センター爆破はアメリカの大統領の陰謀によるものだ、との説がささやかれている。
イラク戦争の口実のためという説だ。
自分達の運命を”X”に賭けるしかない。
大山は部下たちに呼びかける。今後はXの指示に従う。
日奈子
陽中日奈子が生まれたのが2025年、秋、東の空から太陽が顔を出した時に誕生している。
産婦人科で出産するのが普通だ。佐江子もそのつもりでいた。彼女の臨月が近くなる。出産予定日の2週間ぐらい前の事だ。1人の老婆が陽中家を訪問する。少し腰が曲がっている。白衣を着ている。白髪を後ろで束ねただけの簡素な姿だが、卑しからぬ風貌が漂う。
「この家で出産しなさい」対面した陽中公平に話しかける。命令口調だ。見方によっては”失礼な人”だ。
老婆の風貌から威厳が漂っている。”ただの人”ではない。そう感じ取ったのは公平だけではない。大きなお腹をかかえた佐江子もそうだ。2人は顔を見合わせて頷く。
「どうぞ、お上がりください」2人の声が和する。
老婆は家の中にズカズカと上がり込む。
陽中家は南に玄関がある。引き戸を開ける。1坪の玄関。上がり框を上がる。左手に2間の広縁。8帖2間の和室。1つは書院造りだ。雪見障子から広縁を通して、10坪程の庭が見える。上がり框の奥に、1間幅の廊下。和室と廊下の間に16帖の応接室がある。応接室の奥に食堂。その西奥に夫婦の寝室。廊下の右手が和室2部屋と洋間が2つ。ここは元は祖父母の部屋だった。2年前に2人とも相次いで亡くなった。今は佐江子の兄、健一の部屋となっている。
老婆は佐江子を伴って、夫婦の部屋に入る。
「旦那さん!」後からついてくる公平を制する。
「赤ちゃんが生まれるまで・・・」老婆はしっかりとした眼で公平を見上げる。老婆は佐江子と2人で生活すると言う。
「あなた・・・」佐江子は申し訳なさそうな顔をする。兄の部屋で寝ろと言うのだ。公平は唯唯諾諾と従う。老婆の声に逆らい難い力が有るのだ。
これからの食事や家事は老婆が行う。買い物は公平の役目。
角田健一は一ヵ月前から不在だ。彼は1つ所にじっとしているのが嫌いだ。探求心も強い。
2032年のフォトンベルト突入の日も近い。調べたい事は山ほどある。
・・・無理はしないで・・・佐江子の願いだ。陽中部落の行方不明者を調べた時、殺されそうになった。
「判っている」彼は自分に言い聞かせるように頷く。
老婆は名前を言わない。どこから来たのか、一切不明だ。彼女は家の掃除、庭の草むしり、洗濯に至るまで、実によく働く。家の中が明るくなった感じだ。
公平に布切れを集めるように指示する。昔ながらの”おむつ”を作れという。公平は知人、友人の家を回る。衣類は今は使い捨てだ。山ほど集まる。それを適当な長さに切る。洗濯をしてきれいにする。簡易式ミシンで縫う。大量のおむつが出来上がり。
出産当日、ユニットバス一杯に湯を沸かす。と言っても湯沸かし器のスイッチを入れるだけ。
陽中日奈子が生まれたのが明け方。産声が上がると同時に朝日が顔を出す。部屋は西奥の夫婦の寝室。窓が西側にある。窓を開けると中部国際空港が見える。
日奈子誕生と共に、1つの不思議な現象が起こる。西奥の部屋は朝日が射しこむことがないのに、黄金色の光が部屋に充満する。
老婆は産着を着た日奈子を、公平に抱かせる。
日奈子は公平をじっと見る。
・・・生まれたばかりなのに、俺が判るのか・・・
公平はいぶかしそうに赤ん坊を見る。
その時だ、日奈子がにこっと笑う。
・・・生まれたばかりの赤ん坊が笑うなど聞いた事がない・・・公平は戸惑う。
老婆は公平から赤ん坊を取り上げると、佐江子に抱かせる。
「この子は将来、奇瑞を表します」老婆の顔は黄金色の光沢の中で輝いている。その顔が曇る。
「この子を救うために、多くの命が失われました」
公平は老婆の言葉が理解できない。赤ん坊に頬ずりしている佐江子も、怪訝そうに老婆を見る。
「おばあ様、どういう事でしょうか」
老婆は8時のニュースを見ろと言う。
午前8時、テレビのニュースを見る。
映し出された光景はどこかで見た事がある。
「これ、市民病院よ」佐江子が叫ぶ。赤ん坊は佐江子の胸の中で熟睡している。
テレビの中でニュースリポーターがマイクを持って叫んでいる。看護師や女の患者を捕まえては質問している。警察官が立ち入る禁止の縄を張っている。カメラはその奥を大写しにする。煙が充満している。
・・・一体何があったのか・・・公平と佐江子は固唾を呑む。
リポーターが事件のあらましを述べる。
――今朝、7時頃、常滑市民病院、2階の産婦人科の保育室が爆発。13名の幼児、3名の看護師、5名の妊婦が死亡、爆発は爆発物によるものと思われる――
公平は佐江子と顔を見合わせて、慄然とする。
老婆が来なければ、市民病院でお産していたのだ。
部屋のドアが開く。朝食を作っていた老婆が入ってくる。
「ここで食事されますか」老婆は甲斐甲斐しく立ち働く。
「おばあ様!」名前が判らないからこう叫ぶ。
老婆はテレビの惨状を見て、悲しい顔をする。
「この子の為に、21名の命が失われました」日奈子の誕生を喜ばぬ者がいるという。亡くなった者への冥福を祈る。
やがて部屋を充満していた黄金の光が消える。
1週間後、老婆は立ち去る。来た時もそうだが玄関を出ていく時も、忽然と姿を消す。
公平はもっと老婆にいてほしかった。引き留めようとしたが、老婆はかぶりを振る。
――赤ん坊を狙う者はもういない。彼らは赤ん坊は死んだと思っている――
老婆は以下のような予言をする。
日奈子が4歳になると、妻の佐江子が姿を消す。陽中部落の者と同じところへ行く。
2032年12月下旬から2033年1月下旬まで、地球上のあらゆる生物は滅亡する。
行方不明になった者は、その影響から逃れるために避難している。
「あなたは・・・」老婆は慈しむように佐江子を見る。
「おばあ様、兄はどうなりますか!」
佐江子は健一が心配なのだ。何物にも縛られたくない性格だ。自由奔放で、好奇心が人一倍強い。
「心配無用です」老婆はにこやかに言う。
老婆は具体的な事はなに1つ言わない。言わないが、言葉は真実に満ちている。兄は助かる。佐江子は確信する。
2人は老婆に頭を下げる。佐江子に抱かれている日奈子が、老婆の後姿を見送っている。
Xの正体
2025年、2月、日奈子が生まれる2ケ月前の事だ。
夜11時、大山京一は稲武町の自宅にいた。パソコンのメールで全国に散らばる部下と連絡を取り合っていた。
フォトンベルトに興味を持つ者は少なからずいる。彼ら一人一人の居場所を捜し出す。事故に見せかけて殺す。Xの命令とは言え、大山は違和感を抱いている。
本来、大山の仕事は汚職、贈収賄、天下りによる公共事業の斡旋、工事の入札妨害など、国民の税金を食い物にする連中を抹殺する事だ。
大山に仕事を依頼する連中は、政府高官、実業家、叩けば埃の出る輩だ。わが身可愛さに、トカゲの尻尾切りをする連中だ。証人を殺してしまえば、事件はうやむやになる。
大山は殺しに依頼を受ける時、内容が間違いないか、ウラを摂る。罠だという事もありうるのだ。
Xはこれらの仕事から手を引けと言う。事実、政府高官や実業家からの仕事は、バッタリと無くなる。
大山のターゲットは罪のない素人ばかりとなる。フォトンベルトに興味を抱く者、ただそれだけの事だ。新聞やテレビ、週刊誌も取り上げようとはしない。世間的には無視されている。放っておいても害はない。
それをXは執拗に追い詰めて殺せと命ずる。
大山や部下たちにも良心がある。汚職事件で殺される者は、殺されるだけの理由がある。利権を食い物にする。公共事業を独占するなど、汚れ切った輩だ。殺されて当然だ。
だが、Xの殺しに依頼は小市民ばかりだ。名誉や地位、金が目的ではない。好奇心に揺り動かされて、知りたいために首を突っ込んでいる連中だ。
殺害には、良心の呵責を覚える。しかもXの命令は有無を言わさない。
2月上旬、零下5度。北設楽郡稲武町の大山の住まいは特に寒さが厳しい。山林に吹雪が舞う。
数日前、Xから指令が入る。愛知県下の部下3名を集める。彼らは猛吹雪の中を、大山の家にやってくる。何事かと互いに顔を見合わす。
2月5日、夜11時。雪は間断なく降る。車はチェーン無しでは走れない。周囲は森閑としている。
大山は3名の部下を地下の瞑想室に招く。Xとの応答はここで行う。3名の部下は35歳を筆頭に、29歳が2人。彼らは世間では小市民に過ぎない。既婚者もいればの未婚者もいる。社会的には雑草のような存在だ。決して目立つことはない。
瞑想室は10帖の広さ。周囲の壁はコンクリートだ。冷暖房完備。床は畳敷き。天井の蛍光灯が淡い光を放つ。瞑想室と名付けただけあって、部屋の中には何もない。天井高も2メートル。ここは”仕事”の密談の場所でもある。
明かりを消す。大山達は壁を背にして胡座する。
急に睡魔が襲う。Xの声が頭の中に響き渡る。
・・・4月15日、払暁、常滑市民病院で13名の赤ん坊が生まれる。全員殺せ。部屋ごと爆破しろ・・・
睡魔の中、大山達は驚愕する。夢見の状態にある。大山には1人1人の部下の気持ちが伝わってくる。部下たちも同じだ。
・・・赤ん坊を殺すなんて・・・
・・・それも全員とは・・・
Xは殺す理由は言わない。言下、命令を下すだけだ。
大山達にはまずその事が不満だ。Xの命令としても、罠ではないか、ウラを取る。”仕事”が犯罪行為だから当然の事なのだ。その余裕さえ与えない。ターゲットの情報さえ極めて少ない。
まして、今回は赤ん坊だ。何の罪があるというのか。
・・・あなたは一体、何者ですか。何故赤ん坊を・・・
大山は心の内で叫ぶ。精一杯の抗議だ。
しばらく沈黙が続く。部屋の中は暖かい。外は深い雪が降っている。
――そこまで言うなら教えてやろう。ただし、聴いたからには背反は許さぬ――
裏切ったらどうなるか、大山達が一番よく知っている。
Xの話は大山達の想像を超えたものだ。
まず赤ん坊暗殺、
2025年、4月15日、払暁に生まれる子供は、将来大いなるものの妻となる。彼女から1人の男子がれる。
2032年以後、2000年間の至福の時代が訪れる。
人間は滅びる。人間以上の存在=神々の時代がやってくる。その2000年の将来を方向付ける神が誕生するのだ。
彼女の誕生地は常滑。今は昔と違って産婆はいない。出産は病院で行うのが常識となっている。彼女を殺す事で、神の出現を阻止する。神さえ出現しなければ、神々の時代は到来しない。
地下のシェルターで生き延びる人間にも生存の可能性がある。詳しくは追々と話してやる。
・・・しかし、赤ん坊とは、もう少し大きくなってからでもよいではないか・・・
大山達の疑問だ。彼らは暗殺者だが、無差別に殺しをする殺戮者ではない。赤ん坊殺しはさすがに良心がとがめる。
――彼女は――Xの声が止まる。大山達は夢見の中だ。外部からの刺激はシャックアウトされている。
Xの声だけが脳裏に伝わる。
――彼女は生まれながらにして神々なのだ――
赤ん坊の内は神々の力は発揮できない。3歳4歳と物心がつく。彼女の持つ能力に対抗できる人間はいなくなる。
――どんな能力なのか――
思念で巨石も宙に浮く。居ながらにして、外の光景を見る事が出来る。思う相手を自由に操る。死者をも蘇らせる。
・・・まるでキリストではないか・・・
それ以上の存在だ。だがフォトンベルトに突入後、人間が生き残るのには邪魔な存在となる。
・・・よく判らない・・・
何故神々が邪魔なのか、大山達には理解できない。
Xは黙したままだ。これ以上は教えないという事なのか。大山は顎の張った四角い顔を左右に揺る。
――私の名は・・・――Xの甲高い声が響く。部屋の中は森閑としている。4名の者、誰1人として身じろぎしない。張り詰めた空気が全員を包み込んでいる。彼らの脳裏にはXの声が響いている。
――私に名はマルデク。古代シュメールではマルドウクと呼ばれた――
Xは答える。私は人類の創造者、太古から人類を支配し続けてきた人間の神なのだ。
2032年フォトンベルトに突入により人類は滅亡する。私と1億人の人間は生き残る。
だが、1人の女から生まれる1人の神の意志によってすべての人類は滅びる。私の魂はそれから2000年余、地の底で眠る。なんと虚しい事か!
赤ん坊を殺せ! 人間を救え!
内閣情報室
斉田はソファに深々と腰を降ろす。天井の吸音テックスの虫食い穴を睨みつけたまま身動きしない。
・・・何という事を・・・
2025年、4月15日、明け方、常滑市民病院、産婦人科保育室で生まれたばかりの赤ん坊13名、妊婦5名、看護師3名が死亡。原因は時限爆弾の爆発による。動機は不明。
警察の捜査による原因究明の結果、中部国際空港が近い事から、爆弾テロによる犯行との見方を強めている。だが犯行の動機は不明のままだ。
――この事件は大々的に報道される――
常滑は飛行場があるものの、爆弾テロとは無縁の地である。それだけに、地元民の受けた衝撃は大きい。
それも幼児殺害を狙った犯行だ。政府も、常滑警察署内にテロ特別対策班を設置する。各方面からの反響も凄まじい。各テレビ局が特別番組を流す。
斉田は内閣情報室、室長だ。この年75歳。彼を含めて10名の部下が所属している。彼らは外務省、国家機密機構に所属後、定年退職して、情報室に配属される。斉田を先頭に、60歳以上の者ばかりだ。
内閣情報室は総理大臣の諮問機関に所属する。それは形の上だけだ。どこの省や局からも束縛されない。独立した行政機関で、実体を知る者は僅かしかいない。時の総理大臣もこの存在を知らない。
彼らの仕事は2032年12月22日に突入するフォトンベルトに関する情報の収集と分析。富士山麓の青木ヶ原に建設中の地下施設の進捗状況の把握など。
それに謎の人物”X”への資金供与。
フォトンベルトに異常な興味を抱く者は、Xの関係者たちが抹殺していく。この事実は承知している。
――フォトンベルトは存在しない――
日本は勿論の事、アメリカ、中国、ロシア、ヨーロッパ諸国、イギリス等、世界中の秘密機関が暗黙の了解を取っている。世界各国の首脳もフォトンベルトの事は承知しているのだ。
だが誰も口には出さない。議会にもその対策を提出しない。
フォトンベルトの事が世評で話題になるが、一切無視される。フォトンベルトに関する本が出版されても新聞や雑誌の、テレビの時評に取り上げられる事はない。本が書店に並んでも、2~3か月で消えていく。
斉田の仕事は世界中の秘密機構と情報を交換し合う事だ。フォトンベルトに関する情報は厖大な量に達する。
そして――地下の核シェルターで生き残る方策も検討していくことになる。それらはすべて秘密議に進行させる――
だが――、ここに新たな問題が発生した。
常滑市民病院内での幼児殺害事件だ。1人の幼児を闇から闇に葬る事だけなら問題はない。
斉田は頭を抱える。
この事件は日本中、いや世界中の話題となっている。テロならば飛行場のロビーをターゲットにする筈だ。何故幼児なのか、新聞テレビ雑誌で喧々の議論が交わされている。謎が謎を呼ぶ。議論は毎日のように繰り返される。事件の喧騒は止むことがない。
――このままでは――誰かがフォトンベルトへと辿り着くかもしれない。人類滅亡の真実を国民の眼から覆い隠しているが、それが白日に下にさられれる。
斉田は恐怖心におののく。緊張の高まりが頂点に達する。ほっと息を抜く。お茶を飲む。急激な睡魔に襲われる。
――心配は無用――
Xのしわがれた声が心の底に響く。
・・・しかし・・・斉田は抵抗する。彼は歳の割には頑丈な体をしている。若い頃からサーッキトトレーニングに励んでいる。総髪の髪は白く、顔にも深い皺が刻まれている。肌も浅黒い。責任感は強い。一本気な性格だ。自分が納得しない限りは後に引かない。
Xはマスコミの怖さを知らないのか、斉田な不安なのだ。
――マスコミの事は任せておけ――
斉田は驚愕する。心の中を読み取るのか!
・・・あなたは一体・・・後は言葉にならない。
Xの声が脳裏に響く。全て命令だ。あらがう事のできない強い口調だ。
斉田が内閣情報室長に就任してから間もなくのことだった。前任者の死の為に、Xが斉田を指名した。
Xの声には不思議な響きがある。催眠術にかかったように無抵抗に心が動いていく。不条理な命令にも抵抗できない。
内閣情報室――総理大臣も知らない。本来存在さえ許されるのもではない。いつできたのか誰も知らない。誰も詮索もしない。
だが、幼児殺害事件は、さすがの斉田も無抵抗に無視できる事件ではない。13名の赤ん坊を爆死させる事など、人道上許されるものではない。
――フォトンベルト――を秘密にするために、どうしてここまでやらなければならないのか、良心の呵責が声をあげるのだ。納得できる説明があっても、良心が痛む。
X・・・得体の知れない存在だ。人の心を自在に操る。
Xの存在を知るのは斉田だけではない。暗殺者の大山も知っている。日本だけではない。アメリカを筆頭に、世界の主要国の首脳も知っている。しかも命令には唯唯諾諾と従っている。
――あなたは誰なんですか――問わざるを得ないのだ。
幼児殺害事件は息をひそめて見守るしかない。マスコミや多くの者が真相の核心に迫ろうとしている。それらの者は暗殺者の手で抹殺される。いずれ事件は闇の中に消える。
2032年まで後7年しかない。事件の真相が白日の下に晒されたとしても、もはや手遅れだ。
斉田は夢見の状態にある。9名の部下は世界各地から集まる情報の整理と分析に多忙だ。
・・・あなたは誰ですか・・・
――私の名はマルデク――大山に与えたと同じ答えだ。
覚醒後、斉田はマルデクの名について調査する。
そして・・・、戦慄する。彼は太古から人類の神として地球上君臨している。人類創造の神、支配神なのだ。
マルデク
シュメール人が、メソポタミアで人類最初の文明をもたらした。彼らはどこからやってきたのかは定かではない。
紀元前3000年頃の事だ。
その後セム語族が西方からやってくる。シュメール人の都市を征服する。統一王朝を確立する。アッカド王朝である。サルゴン1世が支配する。紀元前2334年から2125年まで続く。
このメソポタミア地域の遺跡から”エヌマ・エリュ”と呼ばれる石板が発掘される。天地創造物語だ。
物語はシュメール起源と推測される。アッカド人に伝承されたものだ。
物語は天地創造神話であるが、同時に天界の戦争物語でもある。北欧神話の神々の戦争と酷似している。
――エヌマ・エリシュ――はマルドウク(マルデク)という、後世バビロンの祭神について述べている。
この神話自体がマルドウク神の縁起物語を記した大叙事誌でもある。
物語は以下の通りである。
世界がまだ混沌として天も地もなかったころ、男神アプスと女神ティアマト、それに生命力を表すムンム(小人)だけが存在していた。アプスとティアマトは交合する。ラフムとラハムが生まれる。
ラフムとラハムからアンシャルとキシャルが生まれる。
この2神から天神アヌが生まれる。
アヌの息子がエア(知恵の神、ヌディンムド、エンキとも呼ばれる)やエンリルである。
物語はアプスとティアマトの夫婦から始まる。1対の神がさらに1対の神を産む形で進行する。
やがて古い神と新しい神の対立が生じる。
新しい神の代表アマやエア(エンキ)は騒々しく動き回る。宇宙のおおもとの長老格の神アプスやティアマトを悩ませる。
だが――、原初の神アプスは我慢できなくなる。ムンムの助言を聞く。若い神々を滅ぼそうとする。しかし知恵の神エア(エンキ)はこれを知る。アプスを捕らえて殺す。ムンムも投獄する。
エアは美しいダムキナ(ニンキ)と結婚する。息子が誕生する。その子はバビロニアの主神となるマルドウクである。彼は成長する。4つの眼、4つの耳、火を吐く口、光り輝く衣など、他の神々の2倍の能力を持つ様になる。
彼に対抗するため、古い神々はティアマトを中心にして戦いの計画を練る。ティアマトは戦闘に立たせるために、多くの怪物を創造する。彼女はキングー神を全軍の指揮官に任命する。こうして古い神々の軍勢はマルドウク軍に向かって進軍する。
エアはティアマト軍を迎え撃つが、敗退する。そこでエアの父アヌがとって代わる。それでもティアマト軍の怪物には歯が立たない。
新しい神々側の祖父アンシャル(天霊)は神々を呼び集める。ティアマト軍に太刀打ちできるのはマルドウクだけだと宣言する。彼の応援を依頼する。
彼、マルドウクは、天界を支配するチャンスと考える。
戦争に勝ったら、自分を神々の主にするよう、アンシャルに条件を出す。アンシャルは条件を受け入れる。
宰相ガガに命じて、神々を参集させる。ラフム、ラハムらの神々が集まる。ここでアンシャルは、マルドウクにシムトウ(神命=支配のシンボル)を与えるよう、神々に求める。
神々はマルドウクに、力を示すよう求める。マルドウクは天空にしるしを現わしたり消したりする。神々は歓呼する。マルドウクにシムトウが授けられる。
マルドウクは手に雷火を持つ。つむじ風の戦車に乗って戦いに出かける。ティアマト軍は敗退する。ティアマトとキングーは捕らえられる。ティアマトの体は2つに切られる。一方は天空に、他方は下界の水に被せて大地になる。
アヌが天の神、知恵の神エアは地水(大洋)の神となる。エンリルはその中間の大気の神たされる。それからマルドウクは、太陽、月、惑星、恒星を創る。それらを天に配置する。1年を12の月に分ける。月ごとに3つの星座(合計36星座)が造られる。
ティアマトの両眼はユーフラテスとチグリス川の源となる。その体からバビロニアの国土が造られる。
マルドウクは国土の主権者となる。一族は彼を祝福する。マルドウクは国土の中心に聖殿を作る。 バビロン(バーブイル、神の門)と名付けられる。
知恵の神エアの提案で、ティアマト軍の指揮者キングーが殺される。彼の血から人間が創り出される。神々に奉仕させるためだ。
マルドウクは次にアヌンナキ(天の神々の総称)を分ける。3百柱を天界に、6百柱を地上界に住まわせる。
祭儀が執り行われる。バビロンの造営が始まる。後にバベルの塔と知られる。ジグラットが築かれる。
マルドウク、エンリル、エア(エンキ)たちの神殿が建造されるのである。
以上のマルデク神話で、斉田は疑問を持つ。
新しい神々と古い神々の戦いである。何時の世でも古い思想や体制は新しい流れにとって代わられる。
この神話が語ろうとするのはそれだけではない。神々の主となったマルデクが成したのは天地創造である。太陽や月、惑星、恒星を配置したとある。
つまり――マルデクが神々の主になるまでは、太陽も月もなかったと言っているのだ。
マルデクにこれを成す力を与えたのは、シムトウ(神命)である。
シムトウとは何を表すのか。
具体的にそれを表現する言葉はない。ただ神話の流れから太陽系全体の支配権と解すべきであろう。
もう1つ、シュメール、アッカド神話の太陽神ウトウ(ウツ)のバビロニア名が”シュマシュ”である事だ。太陽神シュマシュがシムトウに近い発言となる。
マルドク――人類を創造した神、神々の中の最高神。
マルドクは太古より人類を支配している。
彼は今なお”生きている”のだ。人間の想像を超えたちからを持つ神=マルドク
2032年12月22日、フォトンベルト突入の日。
人類は滅亡するという。さすがのマルドクも全人類は救えない。その上謎が残る。町ごと、部落ごと行方不明になった人間はどこへ消えたのか。
マルドクは一切口をつぐむ。
マルデクにも手に負えない存在者がいるというのか。
斉田は瞑目したまま、ソファに腰を降ろしている。
奇妙な暗殺指令
2026年春、Xことマルデクから大山京一は奇妙な暗殺指令を受ける。
――私を殺せ――
深い睡魔の中とは言え、大山は戸惑いを隠せない。暗殺の依頼者を殺せなどとは、聴いた事がない。第一マルデクの正体が不明だ。どこに住んでいるのか、どんな姿をしているのか、全てが謎なのだ。
マルデクは答える。
――京都貴船神社麓に宇宙統一教会がある――
名前は大きいが信者数5百名の小さな宗教団体だ。
教祖は神野真50歳。この教会は太陽信仰を教義としている。一ヵ月に1回、月初めに月例祭を執り行う。
この時に、教祖を殺せ、常滑市民病院で使用した時限爆弾を使え。
大山の戸惑いは収まらない。私を殺せという事と、教祖を殺す事の因果関係が不明だ。
――神野教祖は、マルデク神の生まれ変わりと主張している。その傲慢さが許されないのだ――
・・・何と人間臭い仕打ちか・・・
要は自分の名前をかたる者を殺せと言うのだ。殺す日、場所、時間も指定している。
貴船神社は京都の北に位置している。近くに鞍馬寺がある。貴船山は標高7百メートル。その麓に、民家を改造した小さな教会がある。鞍馬寺の近くだ。周囲は由岐神社、鬼一法眼堂、吉鞍大明神、毘沙門天など、貴船神社、鞍馬寺を中心とした神社仏閣が密集している。
多くの神社仏閣に埋もれている形だ。古い二階建ての民家の正面玄関に”宇宙統一教会”の看板があるのみ。
大山は京都在住の部下に調査を命ずる。
マルデクの暗殺指令は難しくはない。宇宙統一教会の月例祭の数日前に、時限爆弾を取り付ける。リモートコントロール式の時限爆弾をセットする。電気配線の点検と偽って、天井裏にプラスチックス爆弾を取り付ける。リモートコントロール式のタイマーをセットする。
大山は宇宙統一教会の月例祭の前日、鞍馬寺に詣でる。三人の部下と落ち合う。鞍馬温泉で一泊。露天風呂に入る。夜の宴会まで周囲を散策する。
「神野教祖はどんな人物だ?」大山が部下に尋ねる。
3人の部下は顔を見合わす。彼らは京都に在住。皆自営業、部下の1人が散歩道の路傍の石に腰を降ろす。大山と2人の部下も腰を降ろす。旅館の半纏を着ている。どこから見ても観光客だ。
「何のとりえもない男でしてね」
部下の話は以下の通り。
神野真が宇宙統一教会を立ち上げたのは15年前。
彼は京都市の市職員だった。30歳の時に、”想う所があって”という理由で仕事を辞める。忽然と姿を消す。マヤ、エジプト、中国、インドと世界各地を旅行する。
最後にたどり着いた地がメソポタミア、そこでシュメール文明に出会う。
33歳の時、滝行や断食などの修行に入る。35歳の時、宇宙統一教会を創設。
――我はマルデクの生まれ変わりなり――と宣言。
しかし、マルデクの名は日本人にはなじみがない。教団設立当初は信者が集まらない。
――近い将来、世界は終末に向かう。マルデク神を信じない者は救われない――と説く。
だが、聞く耳を持つ者はいなかった。
彼は説教の傍ら、手かざしで病気快癒、商売繁盛などの現世利益を行う。それが功を奏して徐々に入信者が増える。現在信者数5百名。
月例祭はマルデク神に化した神野の説教が主だ。
終末思想は1999年に大いに流行する。だが何も起こらなかった。
いつの世でも人々の関心は現世利益だ。商売がうまくいきますように、お金が貯まりますように、病気が治りますように。どの宗教でも現世利益を説く。高邁な思想を説いても信者が集まらなければ、教団は成り立たない。
――教祖としての神野ですがねえ――
部下は言いずらそうに大山の顔を見つめる。ほっと息をつく。
「何のとりえもない男でしてねえ」独身で身内がいない。温厚な性格だ。信者からは慕われている。大きな教団にしようという野心がない。
朝6時に起床。必ず日の出を拝む。マルデクの信仰としての特徴は太陽信仰だ。
人類の創造者マルデクは太陽からやってきたというものだ。古代の宗教に共通するのは太陽信仰だった。
マヤの宗教も太陽神ケツアルコアトルが再来すると説く。古代エジプトも太陽神ラーを信仰していた。
ギリシャはエジプトの影響を受けている。眼に見える太陽をロゴス(神、宇宙の秩序)の息子と考えだす。
キリスト教も太陽信仰から始まっている。
キリストの誕生日は12月25日となっている。本来は12月22日の冬至の日であった。暦のずれで25日になったのである。
神野教祖はマルデク信仰を説く。関心を抱く信者は少ない。
――それにですね。2032年のフォトンベルトについては、一言も言っていないんですよ――
神野は世の終末が近いと説くが、2032年という時間を言っていない。フォトンベルトについても言及していない。
マルデクの生まれ変わり――と主張する教祖。信者数も少ない宇宙統一教会。
人知れずに暗殺しろと言うのなら、まだ判る。爆弾で殺せという。当然建物は吹き飛ぶ。集散している信者も死ぬ。センセーショナルな事件として、テレビや新聞に取り上げられる。
――こんな殺し方をするだけの価値があるのか――
マルデクは人間ではない。人類を創造した神だ。
――俺は人類の創造神だ――声高に主張しても誰も相手にしない。馬鹿かと笑い者にされるだけだ。
マルデクの名前を知る者はほとんどいない。これが世の実情だ。
俺はマルデク神の生まれ変わりだ。声高に主張する。
あんな奴殺してやれ――神のする事だろうか。
Ⅹ――マルデクの真意が掴めない。
それでも大山は、月例祭の当日、午前10時、時限爆弾のリモートスイッチを押す。
宇宙統一教会の建物は一瞬の内に崩壊する。
テロの脅威
宇宙統一教会爆破事件は、その日の内に大々的に報じられる。時限爆弾の火薬成分が常滑市民病院乳児殺害と同一である事が判明。テロリストの仕業かと世間の耳目を集める。
同時に、世界各地で同じような事件が発生する。
西欧、アメリカ、中南米等宗教と言うと、キリスト教と断定しがちだが、21世紀のの現在、キリスト教中心の時代は終わっている。小さな宗教団体が数多く世に現れている。その数、数万と言われている。
エジプト、ペルー、インド、中国、アメリカ、イギリス、ヨーロッパ諸国等の世界各地で、ミニ教団の教祖と信者が殺害される。爆発物による無差別虐殺が特徴だ。信者の中には女、子供もいる。
大山は情報網を駆使する。内閣情報室の斉田室長とも、パソコンのメールで連絡を取り合う。
判明した事実に、2人は声を失う。
爆破テロに会った教団は、いずれも太陽信仰である事。主祭神はエジプトの神ではラー、ギリシャ神ではアポロン、マヤの宗教ではケツアルコアトル。
世界各地に残る古代宗教への回帰が顕著になってきている。太陽信仰は昔からある。伊勢神宮の天照大神も太陽神として信仰されている。
太陽信仰の始原は、太陽による恵みに感謝する事と言われている。人々もそう信じている。太陽神を拝む事で心の安定を保てる。
だが――、大山と斉田は疑問を呈する。20世紀後半から陸続と広がった太陽信仰は従来からの太陽信仰とは趣が異なる。
宇宙統一教会の神野教祖――我はマルデクなり。我は太陽神なりと叫ぶ。狂気じみて奇異に映る。
――世の終末が近い。心を入れ替えよ――
泰平になれた信者は耳を傾けない。彼の病気治癒能力、商売繁盛などの現世利益に関心を向ける。
爆破テロに会った宗教団体。教祖は自らを太陽神とは叫んではいない。太陽神に還れと説いているのだ。太陽神に心を向ける。罪、穢れを払えと強調しているのだ。
――世界の破滅は近い。太陽神に救いを求めよ――
教祖たちの叫びには悲愴的な響きがある。
大山は地下の瞑想室で黙然とする。
――マルデクの化身なり――神野教祖の殺害はこんな稚拙な理由ではない。なにかもっと大きな理由がある筈だ。
マルデクはそれを言わない。大山達を軽視して言わないのか、あるいは言えない理由があるのか。
・・・マルデクとは何者なのか。人類の創造者と主張する。自らを太陽神と位置付けている。
だが一方で、太陽信仰の崇拝者達を無惨に殺していく。しかも、これ見よがしに、爆発という残酷な方法で・・・
2032年12月22日まで6年しかない。
フォトンベルト突入という厳然たる事実。人類滅亡。文明は原始時代に還る。営々として築いてきた文化は一瞬の内に消滅。
マルデクは本当に俺たちを助けてくれるのか。
富士山麓、青木ヶ原の地下、秘密裏に巨大な地下シェルターが造られている。この他には九州の阿蘇山麓の地下、高知、鳥取、奈良、群馬、青森、北海道では十勝平野。
巨額の資金を投入している。
・・・マルデクは人類の誰を救おうとしているのか・・・
一方で太陽信仰に向かう者、行方不明者を捜そうとする者を抹殺していく。人類の行く手はマルデクに握られている、と言っても過言ではない。
いつだったか、マルデクが漏らした事がある。
――私は旧約聖書の絶対神ヤハウエに反映されている。我は在りてある者――永遠の存在者と言っているのだ。
マヤの暦
2028年夏、角田健一は三重県紀伊長島町にいた。
2年前、インターネットで知り合ったメル友を頼って旅に出た。陽中公平や妹の佐江子には住所を知らせてある。
赤羽川の側、島地峠に一軒家の借家を借りる。
昨年、常滑市民病院、京都鞍馬寺近くの教団などが爆破されている。多数の死傷者が出ている。
2020年前後から世界各地でテロ活動や自然災害、ウイルスの発生などが頻繁に起こっている。これもフォトンベルトのせいなのか?。
世相も酷くなっている。親が子を殺す。子は親を殺す。虐め問題も深刻化している。
・・・世相はもっと酷くなるだろう・・・
角田が一軒家を借りた近くに、海野という男が居る。
年は60歳、独身,インターネットで知り合った仲だ。
彼は2032年の事は知っていた。それを表立って追求すると殺される事も知っていた。
彼の家はこの地方では旧家だ。百坪の邸宅に住んでいる。角田に一緒に住もうと言ってくれる。気持ちは有難く受ける。彼の近くに借家があったので、今借りている一軒家から移り住むことにした。高台から眺める風景は明媚だ。東の方に海が展望できる。丸山島、赤野島、大島などが浮かんで見える。
近くに熊野灘レクレーション都市がある。
赤羽川の北の方に有久寺温泉がある。観光地としては申し分のない土地柄だ。
海野は紀伊長島町で借家やアパートをやっている。その管理を知り合いの不動産屋に一任して、自由気ままに過ごしている。寡黙だが、インターネットでは活発に情報のやり取りをしている。
根は親切で面倒見も良い。3分刈りの頭は白い。体も小さい。歳以上に老けて見える。
角田を見た時、海野は眼を見張っている。ボデイビルで鍛えた肉体は、見た目よりも若く見える。角田の性格は温厚で、2人はすぐにも意気投合する。
海野の書斎は20帖ある。特製のスチール棚には書斎がびっしりと並んでいる。本に囲まれて、読書に没頭するのが生き甲斐という。
「結婚は?」角田の問いに、つまらなさそうな顔をする。30年前に結婚した。毎日の生活にあれこれと干渉してくる。うるさくなって、1年で別れた。以来1人暮らし。
5年前にパソコンを購入。インターネットに興味を持つ。同じ考え方の人を友好を深める。彼を頼ってきたのは角田のみ。自分の考え方に共鳴してくれるので感激している。
今、一番関心があるのは2032年12月22日の問題だ。フォトンベルト突入の日。人類の滅亡の日と言われている。この問題を突き詰めていくと、太陽信仰に突き当たる。
角田と海野は兄弟のようにウマが合う。趣味や物の考え方が似ている。朝から晩まで書斎で過ごす。息抜きに近くの喫茶店でコーヒーを飲む。
話は当然、2032年の事になる。
「マヤの暦を知っていますが」海野は皺の多い顔を角田に向ける。彼は美食家のためか、あるいは自分で食事を作るのが面倒なのか、いつも夜は料理店で一杯やっている。
角田が訪問するまでは、規則正しい生活とは縁がなかった。食事は角田が作る。食事代も節約できて角田も助かっている。
――マヤの暦は2012年12月22日で終わっている――
あまりにも有名な事実だ。
マヤ暦はハアブと呼ばれる365日周期の概年を併用している。1ヵ月を20日とする。18ヵ月で360日、そこに不吉な5日の閏年の短い月を加える。
20キン(日)=1ウイナル(20日=1ヵ月)
18ウイナル=1トウン(360日=1年)
20トウン=1カトウン(7200日)
20カトウン=1パクトウン(14万4000日)
マヤの特異な暦は太陽黒点の成因と深い関係がある。
太陽黒点は11・1年の周期がある。
マヤ暦には超数136万6560日がある。
太陽黒点の周期は分割すると、太陽の磁場の極性変化、歪曲中性層に対応する。その周囲は5つに分けられる。
1つの周期は187年。現代科学から得られた5周期は136万6040日これはマヤ暦の超数に近い数値となる。
マヤ人は我々の時代に先立って4つの時代があったとしている。この136万6560、日を年に換算する。3744年。この年数を3倍にすると1万1千232年。
フォトンベルトの帯の端からもう一方の端までの到達年数の1万1千年に比例できる。
人類は原始時代を出発点として、1万1千年で終わる。
フォトンベルトに突入。2千年後、人類の歴史が始まる。
過去4回の歴史が繰り返されたと言っているのだ。
そして――2012年12月22日から5回目の人類の終焉が始まるのだと言っている。
だが、2012年には何も起こらなかった。人類が滅亡するような厄災は生じなかった。2012年問題を取り上げた人々はペテン師呼ばわりされた。
しかし、この年から人類滅亡の序曲が始まっていたのだ。宇宙規模の変化は10年20年規模で差異が生じるのは止むをえないのだ。心ある専門家がマヤ暦らフォトンベルトとの関係を調べ直す。
そして――20年の誤差を確認した。つまり2012年は2032年に衝撃的な事実となって現れる事を証明したのだ。
「ただしね――」海野は皺の多い顔を角田に向ける。
マヤの歴史の中にはフォトンベルトの事は1つも出てこないのだ。彼らが知っていたかどうかは不明だ。
マヤにしろ、エジプトにしろ、暦が精緻だ。その根源がシュメール文明にある事は周知の事実だ。
――シュメール人は忽然と姿を現す。人類の文明の基礎を築き上げて姿を消す。エジプト、中国,マヤ、人類は文明の黎明を迎える。
「2012年問題を告げていたのはマヤ人だけですか」角田は質問する。
「私の知る限りでは、そうです」海野は頷く。
2人は顔を見合わせる。マヤの暦は現代の暦と負けず劣らず正確である。幾多の研究者によってマヤ暦の解明が行われている。
にもかかわらず、2012年(実際は2032年)の問題は無視されたままなのだ。
海野の書斎は納屋を改造している。彼の家は築3百年経っている。頑丈な造りだが、痛みも激しい。補修に補修を重ねている。
海野が日頃使っている部屋は台所、書斎、フロ場、トイレ、寝室だけだ。それだけでも建物全体の3分の1しか利用していない。残りの部屋は荒れるに任せている。
陽中公平殺害
西暦2029年、陽中公平39歳、妻佐江子30歳。一人娘日奈子4歳。
21世紀初頭、世界各地でテロや暴動が多発している。異常気象に見舞われる。大型ハリケーンがアメリカ南部を襲う。持てる国と持たざる国の格差が激しくなる。
コンピューター、インターネットの進歩も著しい。科学技術の発達は人類の幸福や平和には寄与しない。持てる国は科学技術を政治利用する。貧しい国を政治的経済的に影響下に置くことに腐心する。
陽中日奈子が生まれた年に、常滑市民病院の爆発事件が起こった。世の中は騒然とする。
陽中夫妻は日奈子を守るために、平穏な暮らしに徹する。不動産の仕事も、借家の仲介と、土地建物の売買の仲介のみに徹する。一時は土地を購入して、建売も検討していた。
この場合、新聞の折り込み広告や同業者からの情報提供が必要となる。不動産屋との付き合いも頻繁になる。名前を売るために会合や付き合いに顔を出すことになる。
そうなると当然の事ながら、家族構成を公表する事になる。角田兄妹は飯田地方で危ない目に会っている。そちらの方面から、日奈子の事が漏れる可能性がある。
公平は陽中不動産の看板は出すが、業者同士の積極的な交流を避ける事にする。土地建物の情報は、名古屋の不動産協会の方から流れてくる。情報が欲しいお客のみに流す事にする。
佐江子も陽中姓に代えている。近所付き合いもない。買い物は近所のスーパーで済ます。日用品なども常滑市内のスーパーで購入する。
家族旅行も控える。家の中で”じっと”している。
必要な情報はインターネットで間に合う。日奈子が成長するまで息をひそめる事にする。
時々、角田健一から連絡が入る。彼も派手な動きはやめている。いつ”眼に見えない力”に襲われるか判らないからだ。
2029年、一旦景気浮揚に向かいかけた日本経済は下降する。2020年に10パーセントの消費税アップ、消費者の販売意欲が減退。
2006年以前に小泉総理大臣によって導入された競争原理で、持てる者と持たざる者との格差が開く。
持てる者=富裕層は全国民の約1割。残りの9割の国民は厳しい現実に晒される。一時期は国の歳入はアップするが、国の厳しい財政事情は変わらない。
2007年、市県民税アップ、2020年の消費税の増税を行うが、歳出の引き締めは上手くいかない。
その上に、台風、地震のなどの自然災害が多発。国家予算は緊縮財政に頼らざるを得ない。そのつけが増税となって跳ね返る。国民の収入は増えない。税金が増えるのみ。国家の財政は悪化の一途をたどるのみ。
この年の秋、陽中佐江子もが行方不明となる。この事は事前に知らされている。
2032年12月22日、人類の大半は死滅する。このまま時を過ごすと、佐江子の肉体も崩壊。死ぬことになる。彼女は安全な”場所”に隔離される。庇護を受けて、2033年以降の”神々”の仲間入りをする。
この時から日奈子を守るのは陽中公平のみとなる。
“守る”と言ったところで、敵は得体が知れない。息をひそめて人との接触を避けるしかない。当の日奈子は天真爛漫だ。肉体の成長は人並みだ。近所の子供達と遊ぶのが好きだ。子供用の自転車に乗る。遊園地でメリーゴーランドに乗ってはしゃぐ。
常滑市内のスーパーでの買い物を特に喜ぶ。日奈子は母親似だ。目鼻立ちがはっきりしている。大きな瞳が魅力的だ。人見知りしない。幼いので怖いもの知らずだ。
佐江子が消息を絶った時、公平は不動産の仕事から足を洗う。アパート、借家、借地の管理は知人の不動産屋に一任。
一日中、日奈子と一緒の生活に入る。食事も公平が作る。日奈子が外で遊ぶ時も眼を離さない。
日奈子が生まれる時、産婆役の老婆が言った。
――この子はキリストよりも、もっと力のある者になります――
公平にはこの言葉がにわかに信じられなかった。
・・・この子は・・・日奈子が寝入った時、公平は嘆息をつく。朝起きてから、夜寝るまで振り回されどうしだ。1日が終わると、くたくたになる。
玩具を買い与える。2,3日は眼を輝かせて遊ぶ。飽きてくると玩具を放り出す。また新しいのを与える。お陰で部屋の中は玩具だらけだ。
絵本を読んで聴かす。文字を覚える。CDを購入、童謡を覚える。取り立てて頭が良い訳ではない。並みの能力だ。
食事がまずいと、ぐずって食べない。友達が遊びに来る。食事中でも、ほったらかしで外に飛び出す。
公平は眼が回るが、不思議な事に、怒る気にはなれない。守ってやらねば、そんな気持ちが強くなるばかりだ。
たった1つ、普通の子供と違う点があった。
子供でも4歳になると、物心がつく。母親や父親の事は判るようになる。
昔、公平が分譲住宅を請け負う大工と知り合った。腕も良い。大人しくて仕事熱心だった。奥さんが急死する。葬式に行く。2人の女の子は人目も憚らずに泣いていた。可哀そうで見ておれなかった。
佐江子の場合、2029年の秋、突然姿を消す。
「お母さん、行ったのね」日奈子はあっけらかんとしていた。今まで抱いてくれた母親がいなくなったのだ。ワンワンと泣き叫ぶのが普通だ。
母親が居ようと居まいと、今までの生活に変わりがない。公平が母親代わりもする事になる。1人2役、日奈子に振り回されて、眼の回る忙しさになる。
この年の10月10日
「父さん、ドライブに行こうよ」日奈子が声をかける。
「うん、いいよ」公平は思わず応諾する。はっとする。日奈子の顔を見る。
玩具が欲しい。絵本が見たい。スーパーに行きたい。ぐずる様な声で要求する。どうみても幼児の表情だ。駄目だというと、泣き出す。仕方がないので要求通りにする。駄々っ子を持つ親の辛さだ。
公平は日奈子の顔を見る。幼児らしからぬ表情だ。
眼が遠くを見ている。ぐずっている顔ではない。切羽詰まった表情だ。
・・・大人の顔だ・・・公平は我が子をまじまじと見る。
3日後、朝8時に自宅を出る。白のクラウンは東海市の産業道路を通過。湾岸道路に入る。東名高速、豊田インターに乗る。中央自動車道多治見インターまでひた走る。
子供はトイレが近い。2度3度、パーキングエリアで休息をとる。多治見インターを降りた時は11時。
「まだ先かい?」公平は日奈子に尋ねる。
娘とドライブと言っても、行先は日奈子が決めている。
国道248号線を北上する。可児市を通過、美濃加茂市から県道に入る。武儀町からサンバークランド大鍾乳洞の手前、本覚寺に向かう。登り道だが3000CCのクラウンは軽いエンジン音を響かせて快走する。
本覚寺に車を乗り捨てる。歩いて5分くらいの所に夕谷がある。
・・・ここは・・・角田から聞いた事がある。陽中部落の住民が行方不明となる。丁度同じ頃、夕谷の住民35名も行方不明となる。ここは名勝旧跡地。絶景だ。
ここに点在していた十数戸の家々は、今は跡形もない。
東に標高796メートルの黒岳が聳える。遙か北の方に標高1625メートル烏帽子岳がかすんで見える。
東は八幡町のある市街地が近い。風光明媚な土地柄だ。温泉地も多い。折角ドライブにやってきたのだ。一泊していこうと考える。
日奈子は父の手を握る。10月、山間部の空気は冷たい。肌に気持ち良い風が吹いている。散策でもするのか、手を取られながら、公平は日奈子の後に続く。
小高い丘がある。神社という程ではない。四方一間ほどの祠がある。周囲にススキなどの秋の草が密集している。祠の横で1人の男が腰を降ろしている。ハイキング姿だ。年の頃は五〇くらい。山高帽子を被っている。
・・・何をしているのだろう・・・
公平たちのいる所はサンバークランド大鍾乳洞への道端だ。祠までは約百メートル。
日奈子は道路から男を見ている。視線に気づいた男は怯えた表情になる。あたふたと祠の後ろに走り去っていく。日奈子はその場を動かない。表情が厳しい。
この時だ。大鍾乳洞の方から中型の貨物車が猛スピードで走ってくる。道路は蛇行している。
――危ない――車の異常なスピードに気付いた時は、眼の前だ。避ける間もない。
車はブレーキをかけない。2人に目掛けて突進する。
あっという間もない。陽中公平と日奈子は車にはね飛ばされる。車はそのまま本覚寺のほうへ走り去る。周囲には人は居ない。
突き飛ばされた公平は全身血だるまとなる。道路脇1メートル下の崖下に転げ落ちる。即死だ。
日奈子は反対側の道路の端に突き飛ばされる。彼女はかすり傷1つ追っていない。車が消えた時、むっくりと起き上がる。ゆっくりと父親の方へ歩く。父親のの死に脅えた様子はない。微笑すら浮かべている。
――つづき――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織等と
は一切関係ありません。
なお、ここに登場する地名等は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情
景ではありません。