8幕 遠日欠片
ユキという名は適当につけた。
特別な想いで付けた名ではない。
新倉のぞみから色々と猫の飼育に関してアドバイスを頂戴した。そのなかにあった、まずは名前を付けるという、至極当たり前の指示に従ったまでだ。
ある日仕事から帰宅すると、女の子はリビングの隅で丸くなって眠っていた。一瞬死んでいるのかと思うほど静かで、思わず立ちすくんでしまう。しかし相変わらず人間の幼児の姿をしていることに気付くと、ホッと息が漏れた。
皿に用意したミルクは辺りに撒き散らされ、すえた臭いが鼻につく。
癇癪でも起こしたのだろうか。コーヒーテーブルの上に置いていた小物は方々に散らばり、床にはズタズタにされたティッシュペーパーが散乱している。まるで廃墟だ。
夜の十一時に帰宅して、先ずすることが部屋の掃除である。思わずため息が漏れたが、意外にも重い吐息ではなかった。
よくよく考えれば、二年前の状況と大きくは違わない。
当時も帰宅すると、楓が散らかした部屋の掃除が日課だった。妻も楓も九時過ぎには就寝していた。
妻の順子も勤め人だったので朝は早かった。加えて楓には卵アレルギーがあったため、保育園の給食の代わりに毎日弁当を作っていたのだ。今考えるとハードな生活リズムだと言える。
家事は自然に分担制となり、料理以外の家事は、おおかた俺がこなしていた。
だから用意された晩飯を一人で食い、風呂に入ると洗濯が待っていた。深夜十二時を過ぎて妻の下着を干す自分を考えると、なかなかに情けないものがあったが、今にして思えばそれなりに幸せだったのだろうと思う。
間違いようもなく、見間違いようもなく、幸せだったのだ。何気ない記憶の断片が、まるで朝日を映した水面のように輝いて見えた。
だから、
そう、だからこそ、そんな美しかった記憶を呼びさませるユキをうとましく思った。
目の前で眠る子供は楓ではない。
まざまざと、残酷に、そして冷酷に、記憶と現実との違いを見せつけられたようだった。
いつも楓が遊び疲れて眠る場所を、何も知らないで、何も知らないからこそユキは占有する。そんなユキに虫唾が走った。
いや、違う。ごまかしてはだめだ。
虫酸が走るのは、自分に対してだ。おめおめと生きつづける、自分自身に対してだ。生きることに流され、そして不可思議な現象にも流されつづける俺に対してだ。
気が狂っている。
気が違っている。
狂って、そして違っている。
よくよく見れば、楓とユキは似ても似つかない。
外遊びが好きだった楓は、ユキほど肌が白くなかったし、髪も妻に似て茶色がかっていた。
俺はユキが着ているトレーナーの襟首をつかんで、そっと持ち上げた。
先日24時間営業の店で買ってきた物だ。
楓の遺していった服のなかには、ユキにちょうどいいサイズもあったのだが、どうしても着せる気にはなれなかった。
ぐにゃりとした手応えと、軽く、しかし確かな体重が右腕に伝わる。
なぜそんなものを拾った。もう気は済んだろう、捨ててしまえよ
違ってしまった気を正そうと、狂った気が俺を責める。
そして俺はそれに突き動かされる。
違って狂ってしまうより、正しく狂ってしまったほうがよほど良い。
俺はウッドデッキに出て、箸のように突き刺さった墓標を眺めた。
俺はなぜあの場所に埋めたのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだ。
確かあの場所は、楓と妻が何かを植えていた気がする。種ではなく、球根だった。春になる前に花が咲くと、そう妻は言っていた。あれはなんという花だったろう。うまく思い出せない。思い出す必要もないかもしれない。きっと、もう腐っているのだろうから。
ウッドデッキから降りて、山桜の根元に立つ。
せめて母猫のそばに捨ててやろう。どうせすぐに駆けつけるのだろうから。
そう思って伸ばした腕に、涙のような雫が落ちた。
違う。
綿のような雪が腕に止まり、雫となって流れた。
「雪……」
見上げると、ゆっくりと雪が舞っていた。黒い空から、止めどなく白い雪が発生していた。降るというより、生まれているようだった。それを俺は不思議に思った。ある一定の黒を通り過ぎると、すべては白くなるのだろうか。
「はい」
右手のぐにゃりとしたものから声が上がった。
少し大きめのトレーナーのなかで伸びをしている。
「……ユキ?」
「はい」
眠そうな目で俺を見上げ、喉を鳴らす。
「別にお前のことを呼んだんじゃない。じゃない、けど、ユキ」
「はい。とうちゃん、さむいよ」
「俺はお前のとうちゃんじゃないよ」
俺はこの時、どんな顔をしていたのだろうか。
鏡があれば、きっと笑ってしまうに違いない。
俺はユキを抱きしめて、枯れてしまった芝の上に座り込んでいた。
「とうちゃんはあったかいね」
耳元でユキは笑った。
俺の口からは、笑いにも似た、ひどく滑稽な嗚咽が漏れた。
いつか新倉のぞみに、文句のひとつでも言ってやろう。
名前を付けるなんて、そんな狂っていないふりなど、しなければよかったのだ。