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スノードロップ  作者:
9/11

8幕 遠日欠片

 ユキという名は適当につけた。

 特別な想いで付けた名ではない。


 新倉のぞみから色々と猫の飼育に関してアドバイスを頂戴した。そのなかにあった、まずは名前を付けるという、至極当たり前の指示に従ったまでだ。


 ある日仕事から帰宅すると、女の子はリビングの隅で丸くなって眠っていた。一瞬死んでいるのかと思うほど静かで、思わず立ちすくんでしまう。しかし相変わらず人間の幼児の姿をしていることに気付くと、ホッと息が漏れた。


 皿に用意したミルクは辺りに撒き散らされ、すえた臭いが鼻につく。

 癇癪でも起こしたのだろうか。コーヒーテーブルの上に置いていた小物は方々に散らばり、床にはズタズタにされたティッシュペーパーが散乱している。まるで廃墟だ。


 夜の十一時に帰宅して、先ずすることが部屋の掃除である。思わずため息が漏れたが、意外にも重い吐息ではなかった。

 よくよく考えれば、二年前の状況と大きくは違わない。


 当時も帰宅すると、楓が散らかした部屋の掃除が日課だった。妻も楓も九時過ぎには就寝していた。

 妻の順子も勤め人だったので朝は早かった。加えて楓には卵アレルギーがあったため、保育園の給食の代わりに毎日弁当を作っていたのだ。今考えるとハードな生活リズムだと言える。


 家事は自然に分担制となり、料理以外の家事は、おおかた俺がこなしていた。

 だから用意された晩飯を一人で食い、風呂に入ると洗濯が待っていた。深夜十二時を過ぎて妻の下着を干す自分を考えると、なかなかに情けないものがあったが、今にして思えばそれなりに幸せだったのだろうと思う。


 間違いようもなく、見間違いようもなく、幸せだったのだ。何気ない記憶の断片が、まるで朝日を映した水面のように輝いて見えた。


 だから、

 そう、だからこそ、そんな美しかった記憶を呼びさませるユキをうとましく思った。


 目の前で眠る子供は楓ではない。

 まざまざと、残酷に、そして冷酷に、記憶と現実との違いを見せつけられたようだった。


 いつも楓が遊び疲れて眠る場所を、何も知らないで、何も知らないからこそユキは占有する。そんなユキに虫唾が走った。


 いや、違う。ごまかしてはだめだ。

 虫酸が走るのは、自分に対してだ。おめおめと生きつづける、自分自身に対してだ。生きることに流され、そして不可思議な現象にも流されつづける俺に対してだ。


 気が狂っている。

 気が違っている。


 狂って、そして違っている。


 よくよく見れば、楓とユキは似ても似つかない。

 外遊びが好きだった楓は、ユキほど肌が白くなかったし、髪も妻に似て茶色がかっていた。


 俺はユキが着ているトレーナーの襟首をつかんで、そっと持ち上げた。

 先日24時間営業の店で買ってきた物だ。

 楓の遺していった服のなかには、ユキにちょうどいいサイズもあったのだが、どうしても着せる気にはなれなかった。


 ぐにゃりとした手応えと、軽く、しかし確かな体重が右腕に伝わる。


 なぜそんなものを拾った。もう気は済んだろう、捨ててしまえよ


 違ってしまった気を正そうと、狂った気が俺を責める。

 そして俺はそれに突き動かされる。


 違って狂ってしまうより、正しく狂ってしまったほうがよほど良い。


 俺はウッドデッキに出て、箸のように(、、、、、)突き刺さった墓標を眺めた。


 俺はなぜあの場所に埋めたのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだ。

 確かあの場所は、楓と妻が何かを植えていた気がする。種ではなく、球根だった。春になる前に花が咲くと、そう妻は言っていた。あれはなんという花だったろう。うまく思い出せない。思い出す必要もないかもしれない。きっと、もう腐っているのだろうから。


 ウッドデッキから降りて、山桜の根元に立つ。

 せめて母猫のそばに捨ててやろう。どうせすぐに駆けつけるのだろうから。


 そう思って伸ばした腕に、涙のような雫が落ちた。


 違う。

 綿のような雪が腕に止まり、雫となって流れた。


「雪……」


 見上げると、ゆっくりと雪が舞っていた。黒い空から、止めどなく白い雪が発生していた。降るというより、生まれているようだった。それを俺は不思議に思った。ある一定の黒を通り過ぎると、すべては白くなるのだろうか。


「はい」


 右手のぐにゃりとしたものから声が上がった。

 少し大きめのトレーナーのなかで伸びをしている。


「……ユキ?」

「はい」


 眠そうな目で俺を見上げ、喉を鳴らす。


「別にお前のことを呼んだんじゃない。じゃない、けど、ユキ」

「はい。とうちゃん、さむいよ」

「俺はお前のとうちゃんじゃないよ」


 俺はこの時、どんな顔をしていたのだろうか。

 鏡があれば、きっと笑ってしまうに違いない。


 俺はユキを抱きしめて、枯れてしまった芝の上に座り込んでいた。


「とうちゃんはあったかいね」


 耳元でユキは笑った。

 俺の口からは、笑いにも似た、ひどく滑稽な嗚咽が漏れた。


 いつか新倉のぞみに、文句のひとつでも言ってやろう。


 名前を付けるなんて、そんな狂っていないふりなど、しなければよかったのだ。




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