7幕 嫉妬憎悪
ロールカーテンを開くと庭には薄く雪が積もっていた。
早朝と言っていい時間にもかかわらず、まだ辺りは薄暗く、東の空にようやく紫色の色彩が広がっている程度だ。毎朝五時半起きの身にとっては、太陽が寝過ごす季節は大層気が滅入る。
薄闇の中布団から這い出し、日が差し込む前に出勤する。そして夜の帳が下りてから家路につく。日中はほとんど事務所で作業する俺には、太陽の存在を忘れそうになる季節だった。
気が重いのはいつもの事だが、今朝はいつにも増して気だるい。
ウッドデッキには昨晩と同じ姿勢で親猫だったものが転がっていた。見るからに硬そうで、数時間前までこれが生きて、動いて、そして体温を持っていたとは、俺には到底思えなかった。
リビングを振り返ると、女の子は寒そうに身震いして毛布に潜り込む。まだ夢の世界にいるようだった。
「なんてものを残して逝きやがったんだ」
俺は悪態をついて寒さと何かしらを紛らわせた。吐き出した吐息が蒸気となってキラキラと輝いて見える。まるで鋭い刃物の様で、そこかしらが痛い。
俺は首をすくめてフードをかぶり、かつて楓が使っていた小さな緑色のシャベルを握った。
本当ならば市道にでも放り出すはずだった死体を、どういうわけか埋葬するつもりになっていた。
別に何かしらの感慨があるわけでもなく、なんとなくの行動だった。何でもかんでも理由を求めすぎるのは人間の悪いところだ。
若い時分には、人生の目的だとか、生きる意味なんてものを求めがちだ。そんな御大層なものなどありはしないのに、さもあるかの様に感じて、都合よく錯誤して、恐れ多くも誤解して、物怖じすることなく曲解して、あわよくば崇高な気持ちになる。そうじゃないと多感な時期を生きていけないのかもしれない。
そして歳を重ねて気付く。
生きている事に意味はないし、死ぬこともまた同様だ。人生に意味を求めるのは自意識過剰なのだと、痛みをともなって気付く。
死ぬ時は死ぬし、死ななきゃ生きているだけだ。
そうでなければならない。
さもないと、楓が死んだ意味は何だったというのか。意味なんてものはあってはならない。彼女は五年生き、そして死んだだけだ。そうでないといけない。
それは俺の両手が掴む猫にとっても同じで、運良く生きることのできなかった、そう、これは、ただの、成れの果て。死体に意味はないし、これが生きてきた道程にも興味はなかった。
ならば、なぜ俺は埋葬しようとしているのだろうか。
埋葬。そうだ。それならば墓標が必要かもしれない。ただ捨てるならば不必要なそれが、この場合にはきっといるのだろう。
いつかまとめて捨てようと思って集めておいた木切れのなかに、適当な長さのパイン材を見つけた。ふたつに折れば、長さも丁度いい。
膝を立ててふたつに割る。細かい棘が手のひらに刺さる。
ああ、なぜ俺はこんな事をしようと思ったのだろう。
庭の山桜の根元に腰を下ろして考えてみたが、何も思い浮かばず、すぐにどうでも良くなった。
緑色のシャベルを突き立てた土は、硬く凍っていた。
◇
「係長何を見ているんですか?」
PCから目線を上げると、隣で新倉のぞみが画面を覗き込んでいた。
「ああ、猫の飼い方をネットで調べていたんだ」
「猫、飼うんですか?」
新倉のぞみは意外そうに言った。
「まぁ」
曖昧に笑って見せて私用のノートパソコンを閉じる。
この一年の間、俺は会社でプライベートの話をすることは殆どなかった。あえて自ら話をする必要性もないし、部下も上司も事故の件を気遣ってか、話す内容と言えば業務内容に限られている。
ただし何事にも例外がある様に、八束とこの新倉のぞみだけが例に漏れていた。
入社二年目の彼女を指導するのも俺の仕事だった。業務中に時間の取れない場合は時間外での指導も多くなる。長時間行動を共にすると、当たり前に会話が途切れることもある。そんな時、決まって彼女はプライベートの話題を持ち出してきた。
ファションがどうとか、美味しいスイーツのお店だとか、俺にとってはどうでもいい話題が主で、思い返しても何を聞いたか、あるいは聞かれたか殆どと言っていいほど記憶にない。
三年後の今振り返ってみれば、とても彼女に申し訳なかったとは思うのだが、この時の俺には他人に想いを馳せる余裕などなかったのだ。彼女のことを見ていたが、本当の意味で見てはいなかったのだ。
「猫ちゃん拾ったんですか?」
「え、何でそう思うんだ? 新倉くん」
「だって、さっき猫の月齢見てたじゃないですか。生体販売で購入したなら、そんな事調べる必要ないですもの」
「まぁ……そうだな。ちょっと事情があってな」
俺は仔猫の舌がなぞった頬に指先で触れた。
「だいじょうぶ?」
瞳を開けると彼女がいた。
墨を溶かしたような真っ黒なおかっぱの前髪の下で、まだ薄い眉が心配そうに寄っている。
少し寝ぼけているのか、大きな瞳は眠そうに半分閉じられていて、焦点が合っているのかも疑わしかった。
寝起きのためか、触れた身体の体温が高い。
雪のように白い肌は桃色に色づき、頬に見える産毛は俺の呼吸を受けて揺らいでいた。
ほんの小さな女の子にしか見えない。
記憶を辿る。丸い頬にたどたどしい口調。楓が三歳児だった頃と重なって見えた。
「かあちゃがねぇ、いたいところなめて……くれゆ……の」
子供の睡魔は全てに打ち勝つ事を知っている。楓も食事中にスプーンを握ったままよくコックリコックリと船を漕いでいたものだ。
それは猫も同じようで、彼女は現実を知らぬまま、今だけは幸せそうに夢の世界に暫し旅立っていった。
そして俺は布団からそろりと抜け出し、親猫を埋めて家を出た。
一応皿に牛乳を入れて出てきたが、それで良かったのかどうかもわからなかった。
「へぇ、人間で三歳児ですか。猫の月齢だと二ヶ月くらいかなぁ。あと牛乳はお腹壊しますよ。専用のフードをあげないと」
「新倉くん詳しいね」
「昔飼ってたんです。でも係長って変わってますね」
怪訝な顔の俺に、彼女は遠慮なく笑い声をあげた。
「だって普通、猫の二ヶ月って人間でいうと何歳って聞きません? 係長逆なんだもん」
言われてみるとその通りで、思わず二人して笑った。
昼休憩中のこと、珍しく上げた俺の笑い声に反応する者はいなかった。
八束以外には。
「へぇ。鉄の心を持つ係長が猫っスかぁ。代償行為ってやつっスか? そんなんじゃ再婚無理っスよ。ね! のぞみちゃん」
馴れ馴れしそうに八束は新倉のぞみの肩に手を回した。以前から新倉のぞみと話していると、ことある毎に八束が絡んでくる。
あらぬ方向からの嫉妬心に気付いてはいた。
「三十路のおっさんが新卒に手を出しやがって」みたいなことを八束が言っていると周りから報告も受けている。
誤解もいいところだ。
それとなく八束にも話はしていたが、しかし八束は嫉妬の視線を俺から剥がさない。
濁って見えた瞳の色を、俺は見返した。
八束を見上げる俺の瞳は、たぶんもっと酷く汚れている。
お前がいなければ、俺は家族とともに死ねたんだ