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スノードロップ  作者:
7/11

6幕 夢想齟齬

「とうちゃん。ねこちゃんがいるよ」


 はたと気づくと近所の公園のベンチだった。

 公園とは言っても小さな滑り台に六畳ほどの砂場、二脚のブランコだけの簡素なもの。

 大人にしてみれば、空き地に古びた遊具が設置されただけの寂れた空間に思える。住宅街の空白地を適当に埋めただけのその場所は、それでも小さな子供にとっては絶好の遊び場だった様で、もっぱら休日の午前中に娘と訪れたものだった。


「とうちゃぁん」


 ブランコ脇のメッシュフェンスで娘が大きく手を振る。

 フェンスの向こうには黒い仔猫が娘を見上げていた。近寄って見てみれば、安易に触れると折れてしまいそうなほど痩せ細っている。

 黒い毛も所々薄くなり、まだ生え揃っていないのか、それとも何か病気でも持っているのか定かではない。可愛いというよりは、むしろ色々と想像してしまい胸の奥が鈍く痛んだ。


 よく覚えている。

 これは娘がまだ四歳になる少し前の出来事だ。

 ああこれは夢なのかと辺りを見渡す。

 確かあれは夏のことだったかと思えば、途端に照りつける日差しに気付く。そして視界のはずれでは水彩画に水をぶちまけた世界が広がり、目を向けると慌てたように世界が詳細に構築される。


「とうちゃん、ねこちゃんかわいいねぇ」


 目尻を下げて俺を見上げる娘に俺は何と言っただろうか。


「楓は黒猫怖いんじゃなかったの?」


 ああ、そうだ。そんな事を聞いたかもしれない。


 二歳くらいのことだったろうか。

 妻の実家での事だ。

 自営業からトラックで帰宅する祖父を驚かそうと、楓は駐車場に繋がる勝手口にいた。上下にスライドする窓を開けて下から外を見ていたらしい。

 楓の話によれば、その窓に突然黒い猫が顔を覗かせたというのだ。

 子供からしたら、夕闇のなか突如として現れた猫に驚くのも無理はないかもしれない。それも闇に溶ける様な黒猫で、金色の目が光れば尚更だろう。

 その側で夕食の準備をしていた妻は、火がついた様に泣き叫ぶ楓に驚いたと言っていた。

 それ以来黒い猫を楓は怖がるようになっていた。


「んっとね、ジジみてからちいさいのはかわいいの」


 なるほど。繰り返し見ていたジブリアニメの影響か。

 しかしフェンスから楓に手を伸ばす仔猫は、どう見てもジジのような可愛いものには見えない。

 細い鳴き声をあげてしきりに愛想を振る様が痛々しい。


 楓がどうしても触りたいと言うので、仕方なくフェンスを越えて猫を掴む。

 薄汚れていて素手で触れるのを躊躇われた。それでも腹を持ち上げると驚くほど軽く、まるで重みを感じない。

 まるで骨と皮でできたツクリモノみたいだった。


 手の中でそれは、まあるい金色の目で直視してくる。

 俺の良心を突き刺すような視線だ。

 この後俺たちについてきたコイツを、冷たく突き放して帰ったからそう思うのだろうか。

 そんな目をするなよ。仕方ないだろう。


 仔猫は地面に下ろすと、まったく物怖じすることなく娘の肩に駆け上がりすがりつく。

 楓はくすぐったそうに笑顔で首をすくめた。

 神経質な妻が見たなら悲鳴をあげるだろう。汚らしい仔猫はどう見ても衛生的ではない。それでも楓はとても嬉しそうに笑っていたので、俺はしばらくそのままにして微笑んでいた記憶がある。


 そうだ。その時楓はこう言ったのだ。


「とうちゃん、ねこちゃんかいたい」


 駄目だよと言う俺に楓は聞き返してきた。


「えぇ。なんでぇ?」


 子供は何時だって最高の哲学者だ。なんで、どうして、と常に疑問を持つ。大人になるにしたがって失うそれは、親たちを時折悩ませる。

 この時の俺も返答に随分困ったはずだ。

 そしてやっとひねり出した言葉が「死んじゃったらかわいそうでしょ?」という、ロジックとしては破綻した安っぽい適当な文句だった。


 そして記憶では「うぅん。わかった」と恨めしそうに楓は俺を見上げるのだ。よく覚えている。


 しかし楓は俺の記憶にはない表情を浮かべた。

 微笑んでいる。言葉にはできないほど悲しそうに。

 そしてゆっくりと桜色の唇が開く。


「でもね、楓もいつかしぬよ」


 楓の肩にすがる猫に手を伸ばそうとした俺の全身がこわばった。

 頭頂から足先まで電流を流したようだ。

 目から火花が飛ぶ。

 視界の端では、毛細血管を突き破った血液が沸々と沸騰する。


 なんだ?

 どういうことだ?

 こんな事は記憶にない。


 何かを言おうと口を開くが、口内は乾ききって喉奥までひりつく。


 楓の少し茶色っぽい瞳が、ひときわ明るく見えた。


「だから。ね? はい、とうちゃん」


 楓は小さな両手で宝物のように黒猫を包むと、天に捧げるようにそれを俺に差し出した。


「だいじにそだててね」


 それは猫のことか。

 それとも残り僅かな命しか持たない楓のことか。


 魚が餌をねだるように口を開いたが何も言葉が出ない。


 視界の端で世界がぐにゃりと揺れた。


 夢の時間は唐突に終わる。物事の始まりはいつだって曖昧なのに、終わるときは常に突然だ。


 鮮明だった世界が溶けてゆく。

 理の境界線が砕けて万華鏡のように煌めいた。

 その中で楓は光を放って乱反射し、俺だけを置いてけぼりにする。


 駄目だ。

 俺も連れて行ってくれ。

 一人はもうたくさんだ。

 蛇足な人生に意味はない。


 俺を連れて行ってくれ、楓。


 お願いだ。



 懸命に伸ばした俺の手に、楓は手に持っていた仔猫を差し出した。


 あいしてね とうちゃん


 そう聞こえた気がした。




 夢から帰還し目を開く。


 俺の頬に流れる涙を舐める、キミがいた。


 それは三年前の冬の出来事。



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