5幕 不眠夢現
はじめは目の錯覚かと思った。
暗闇を映す掃き出し窓は鏡となり、まるでリビングで眠る娘のように思えたのだ。
しかし振り返った先に愛娘の姿はない。当たり前の話だ。この世を隈無く探そうとも、彼女はもうどこにもいないのだから。
骨は小さな骨壷にちんまりと収まり、魂は煙となって空気に溶けた。忘れもしない半年前の出来事だ。
いよいよおかしくなってしまったかと思った。
改めて窓越しに外を見ると、足を折り曲げてうつ伏せになる女の子の姿が確かに見える。その姿は娘が寝るときの姿そのままだった。
ウチの娘が特殊なのか、それとも子供とはそういう寝相が当たり前なのかは知らない。ただ楓は五歳でこの世を去るまで、いつもその寝姿で俺を癒してくれた。
布団から突き出したお尻と、まるい頬に桃のようにひかる産毛をそっと撫でると、不思議と疲れが消えたものだった。
改めてウッドデッキに出ると、すやすやと寝息を立てる女の子の顔を覗き込む。
飴をなめているように口を動かし、長い睫毛は風にそよいでいた。頬には赤みがさしている。
チラチラと舞う雪が時折触れて、途端に涙のように滑っていった。
驚いたことに、間違いなく、見間違いようもなく生きていた。その傍らにはハチワレの親猫が横たわる。この時まで気が付かなかったのだが、片脚はあらぬ方向を向き、白い何かが突き出していた。
もう動かなくなった口元には血液が付着している。早くも乾きが始まり、赤というよりも黒く変色していた。恐らく車と接触でもしたのだろう。
もし声をかけられた時に気づいていたら助けられただろうか。ふと、ほんの一瞬脳裏をかすめた罪悪感は、泡のように弾けて消えた。
現実はそんなに都合よくはできていないし、自分ならどうにかできた、なんて青い自惚れで自己嫌悪に陥るほど若くはなかった。
自宅の軒先に転がる死体を、まるで方程式を解くように眺める自分に、ただ単に嫌気がさしただけだった。
派手にぶつけた車に、新たにコインで擦った傷を見つけたようなものだ。
何も感じないのだ。
親猫は死に、死んだと思った仔猫は生きていた。
それだけのことだった。
俺はそれらを再びまたぎ、室内に戻った。
シャワーを浴び(一人になってから湯を張ることはなくなった)缶ビールを一本空ける頃には、猫たちのことは綺麗に忘れていた。
その時の俺は二本目の酒を開けるかどうかの方がよほど重要で、日に日に増えてゆく酒量が悩ましかった。シンク周りに並んで行く空き缶が、わざとらしく責めているようで鬱陶しい。
アルミ缶の処理も億劫になり、ワインやウイスキーに手を出した時期もある。しかし空き瓶の捨て方の方が余程面倒なことを、一人になりはじめて知った。
妻はよく文句のひとつも言わずやってくれていたものだと、今更ながらに思ったものだ。
そしてハムスターに始まり猫に終わった一日も当たり前に過ぎ去り、思い出すこともなく綿あめのように口の中で溶けて何も残さないはずだった。
布団に入り微睡みと現を行き来する。
いつものことだがうまく眠れない。長く眠れて二時間。そして再び眠るためにタバコを吸う。毎日これを繰り返してきた。眠剤に手を出したが結果は同じで、結局は早く寝付けるかどうかの違いだけだった。
そのくせ立ち上がると足元がふらつき、幾度か派手に転ぶ。だから眠剤は止めた。どうせ寝れやしないのだから。
この日は久しぶりに夢を見た。
娘が尻を突き出して眠る夢。
とても優しくて、酷く残酷な夢。
手を伸ばせば指先で触れられるほどの距離に、あのまるい頬、ぽってりとした唇を感じた。
寝言で「とうちゃん」と聞こえた声は、とても懐かしく物悲しい。
はたと目を開ければカーテンの隙間からこぼれる光はまだ無い。目覚まし時計の針は、深夜の時間で薄ぼんやりと光っていた。
電気を灯すことなくサイドテーブルに置いているタバコに手を伸ばす。毎日のルーティンワークだった。
ダウンを羽織りウッドデッキへ。
チラついていた雪は止んでいたが、軒下のウッドデッキまで薄く積もっていた。
足元のそれは見るからに硬直していた。
そして相変わらずうずくまる子も、白い毛布を身に纏い震えていた。
「これは猫なんだ」と自分に言い聞かす。
女の子がもぞもぞと動くたびに雪の布団から尻が突き出てくる。
それを見ながらジッポライターを取り出したが、ゴトリと落としてしまった。
指がわななく。
寒さのためだと思い込みたかった。
「ずるいぞ」と初めて神を罵った。
死ぬほど狂っているのに、死ねない自分を呪った。
当たり前に近くにいて、目の前で俺以外の命を奪う死を理不尽だと思った。
そして終着点のある病を羨んだ。
落ちたライターはそのままに、かがんだ俺は女の子をそっと抱き上げていた。
暴力的な温かさが両手を伝い、震えた。
リビングのソファーに女の子を下ろした時、むにゃむにゃと動く口から「かあちゃん」と空気が漏れた。
とても娘によく似た声だった。
思わず天を仰いだ俺の視覚の隅で、スポットライトから吊るしたフラスコグラスが揺れていた。
掃き出し窓は開けたままで、再び降り始めた雪とともに冷たい風が吹き込んでいた。
揺れるフラスコグラスの中で多肉植物が枯れている。
どうやら水をやり過ぎたらしい。
「かあちゃん」
娘によく似た声。
ああ……
その声で
話すのを
やめてくれ