4幕 雪日悲歌
俺は忘れない。
三年前の一月二十二日、瀬戸内では珍しい雪の中での出来事を。
それでも人間の脳髄はとても適当なもので、忘れない様に頭の最も奥深くにそっとしまったとしても、新しく降り積もる雪に隠れて姿が見えなくなることがある。
折に触れて乾いた新雪を払うのだが、それは酷く骨の折れる作業になった。しまったはずの場所にないことも度々で、見渡す限りの雪原を汗をかきながら両手で掘りかえす。
やっと見つけた宝物は石の様に硬くなり、大事に抱えていた時と姿形を変えていることも稀ではなかった。
俺が生きて、飯を食み、酒を呑み、笑い、泣き崩れ、もがき苦しんでゆく道程で常に変遷するそれらは、その時々の俺の宝物に違いはない。しかし、それでも、当時のままの姿を探してしまう俺は、分かってはいるが肩を落としてしまう。
もしかしたら変わっているのは俺かもしれない。
時にそう思うと、まるで自分が化け物にでもなった気もしてくる。やけに周りが足早に去って行くと思っていたら、実は俺自身が速度を上げて前や後ろへ駆け出している。そんな感じだ。
物事の始まりはいつだって曖昧で、俺自身が気付くことはない。
少しでも当時の形のままにしておきたくて、こうして筆をとっている間でさえ蝸牛の様に動いているのかもしれない。
書いていて思い知ったことがある。
文章とは酷く不完全だということ。
深夜につらつらと書き連ね、鳥がさえずる頃に読み返す。するとまるで知らない者が俺の両手を使っていたのではないかと、思わず不安になる程の文章の羅列を見つけることがある。そんな経験を何度も体験した。
つまるところ、刻一刻と姿を変える宝物を余すことなく書き残すことは不可能事である。
つまるところ、知らぬ間に緩慢に動く俺自身が、ある時点での俺自身を残らず克明に明記することは不可能事である。
はっと気づいた時、俺は知らず知らず筆を落としていた。
それでも書き残すしかないと俺は思っている。
鮮明に覚えているユキや順子や楓の事を、いつの日か曖昧に感じるその日のために。その時は今は辛く窮屈な文章の不完全さを、ありがたく思うこともあるのかもしれない。
◇
家族がいた時は外のウッドデッキが喫煙場所だった。
別に妻に言われたわけでもなく、新築と同時に、自然発生的に設置したオールドチークの椅子は、今でも同じ場所にある。
そしてそれは三年前の冬も同様だった。
午前様に指を掛ける一歩手前で帰宅した俺は、風呂場の暖房が温まるまで吹きっさらしのウッドデッキで紫煙を燻らせていた。
あまりの寒さに、吐き出す息が煙なのか水蒸気なのか境は分からなかった。しかし煙であれ水蒸気であれ、堆積した疲れをまるで吐き出している様で、自然と体が軽くなった気がした。
同時に、硬いオールドチークの椅子に沈み込むほど重くも感じ、俺は不思議に思った記憶がある。
その日見つけた八束のハムスターは、飼い主の手に戻った数時間後に残念ながら息を引き取った。
俺は仕事の傍ら、泣き叫ぶ八束に呆れながら彼だったものに視線を落とした。
潰れた大福の様な物が転がっていた。
なるほどと俺は答え合せをした生徒のように思った。
どうやら人間に見えていた奴らも、死んでしまえば元の姿に戻るらしい。確かに転がっている彼はただの肉と骨の塊に過ぎなかった。
神か悪魔かは知らないが、初めて心の中で感謝した。確かに道端で臓物を撒き散らす猫やイタチが、人間に見えたことはない。
狂ってしまった俺だとしても、流石に道端に転がる人間の屍体を見ればどきりとするだろう。要らぬ現象を引き起こす何者かは、意外に律儀なのかもしれなかった。
結局仕事を放棄して帰宅した八束の尻拭いをする羽目になった俺は、直属の上司として仕方ないと思う反面、ハムスターなど放置すればよかったと後悔していた。
その日吐き出していた煙か、はたまた水蒸気の正体など、そんな些細で愚にもつかないものだった。
燻る紫煙の先に人影を見たのは、今年初めての雪がチラつき始めた頃だった。
別に驚きはしなかった。外でタバコを吸っていると、イタチやヌートリアが目の前に現れることは稀ではない。その都度表情をこわばらせていたら、田舎暮らしなど到底不可能と言える。
だから「もし」と女に声をかけられた時、俺はにべもなく「消えろ。お前らと話す気分じゃない」と言い放った。
視線すら投げかけなかったが、視界の端で女は動かなくなっていた事には気付いた。気付いたが、それだけだ。別にどうってことはなかった。
そしてその塊が随分と小さくなっている事に、タバコを吸い終えた頃になって初めて認識したのだ。俺にとって奴らとはその程度のものだった。
だからハチワレの親子猫がウッドデッキの上で肉の塊になっている事に対しても、「あぁ。始末が面倒だな」としか思わなかったのだ。
それらをまたぎ、リビングに戻るとひとまず風呂に入ろうと思った。酷く身体が冷えていた。それもそのはずで、窓から見た庭は街灯に照らされて銀色に光って見えた。うっすらと積雪している様だった。
そんな中で奴らを処分するのも面倒で、翌朝に市道に放り出して役場にでも電話しようと思っていた。
本当に思っていたのだ。親猫の前でうずくまる、ほんの三歳程度の女の子を見るまでは。