3幕 日常非情
知らなくてもいい事だった。
しかし知ったとしてもどうという事でもない。実際奴らは大したことを言ってはいない。夢や希望もへったくれもない現実が目の前にあった。
大概は腹減っただの、ここから出せだの愚痴っぽいものが多い。特に小動物はその傾向が顕著だと言える。
犬猫位になるとコミュニケーションを取ることは可能だ。しかし家族を失って二年目の冬、俺の目の前にいた半野生のハムスターともなればそれも難しい。言葉は悪いが痴呆の老人か乳児程度のコミュニケーション能力しか持ち合わせていないようだ。
「かじっていい?」
「ダメだ。コレは齧るもんじゃない」
会社内の大便器に座る俺の前に、やせ細った半野生のハムスターが体育座りで座っていた。頬はこけ、アイボリーのニットもかなり薄汚れていて見窄らしい。おそらく還暦をとうに越してしまった年齢に見える彼はつぶらな瞳で俺を見上げていた。
はじめて彼を見たときよりかなり憔悴して見えた。
俺が務める会社は仕事以外では緩い会社だ。長髪でチャラチャラする男社員もいれば、ピアスをいくつも付けて出勤する男、はたまたペットを持ち込む者までいる。
目の前のハムスターの飼い主は、その全てを満たすダメ社員の八束だ。残念ながら俺の部下でもある。
「にんじんすき。かじっていい?」
「コレは人参じゃない。失礼な奴だな。飼い主にそっくりだ」
彼の視線が私の股間を凝視し続けていた。相当腹を空かせているようだ。何でも食料に見えるのかもしれない。
それもそのはずで、八束のハムスターが逃げたとバカみたいに騒いでから、かれこれ二週間にもなる。よく生き抜いたものだ。
「でさぁ、係長がさぁ『八束、お前自分一人でできると言ったよな?』って何度も何度もネチネチ言うわけよ」
「まぁでも建築士からプランは上がってるんだろ? 問題ないじゃん?」
俺とハムスターが見つめ合うトイレに入ってきたのは、飼い主兼ダメ社員の八束だ。軽薄な喋り方ですぐにわかる。もう一人は八束と同期の三島だろう。
「だろぉ? でも係長がダメ出しすんのよ。そのプランだと大幅に予算超えるから、お客さんに無駄な夢を見させるなってさ。別にお客がそれ選んだら、生活キツかろうが知ったこっちゃねぇよな? 会社も懐あったか、お客は心があったか。みんな幸せじゃん?」
「……まぁでも係長の言うこともわかる気が」
「えぇ? 三島お前まで係長の肩もつのかよ? だってあの人例の事故以来暗いしさ、なんか壁作ってね? 今回だって以前の係長なら、すぐに助けてくれたはずだぜ。周りも気を遣ってんのわっかんねぇかなぁあの人」
「そりゃすまんな八束。で、プランはできたのか?」
本来なら自分の陰口など聞かなかったことにするのだが、目の前のハムスターのこともある。それにプラン提出期限も近かった。
個室の扉を開き、ご自慢の長髪をセットしている八束と鏡越しに目を合わせると、彼は口をあんぐりと開けた。
「げっ!? 係長……そこにおいででございましたか? ご出産は終わりで?」
八束は戯けたように振り向いた。
「ああ、お陰様で安産だったよ。で、プランはできたのか?」
「いゃぁ、キツイっす」
ヘラヘラと笑う八束にイラっとする。こんな男に飼われるハムスターが不憫だ。そりゃ逃げ出したくもなる。
自分のこともまともに出来ない奴に、ペットを飼うことなんてどだい無理な話だ。
「初プラン提出は再来週だぞ。不貞腐れて一人でやるって言い出したのはお前だからな」
「いや、でも……」
もごもごと口ごもる八束を手で制し、俺は三島に向き合った。
「三島。お前も聞いてたよな?」
「はっ。しっかりこの両耳で」
「てめっ! 裏切ったな三島!」
両手を耳に当てる真顔の三島に八束は食ってかかった。しかし三島は真顔のまま、八束の物理的攻撃と口撃をのらりくらりとかわす。はたから見たら戯れているようにしか見えない。
「八束。お遊びはおしまいにして建築士の先生に早く連絡しろ。そうでなくても気難しい先生だからな。これ以上締め切りが近づくと引き受けてくれなくなるぞ」
「……へぇぇい。あぁ、あの玉野先生にプラン駄目出しかぁ……。気が重いっス」
「自業自得だ」
肩を落とす八束の肩を叩きトイレを後にする時、もう一件伝えることを思い出し振り返る。
「ああ、そうそう。アレ、お前のハムスターだろ? 腹を空かせているようだから何か食わせとけよ」
俺の指差した先には痩せ細り年老いた男が体育座りしていた。
「ああっ! ジョセフィーヌ! ワレ生きていたんかああぁぁッ!」
歓喜の声を上げながら駆け寄る八束に、俺は現実を突きつけた。もちろん信じるも信じないも彼次第なのだが。
「そいつな、オスだぞ。それも割と高齢だ。お前さ、ペットショップに騙されてるんじゃないか?」
「ジョセフィーヌぅぅぅッ!」
怯えた老人を抱きしめる八束には俺の言葉は届いていないようだった。
三年前の冬のこの出来事を、俺ははっきりと覚えている。
どうでも良い日常の出来事なのだが、それでも忘れることはできそうにない。
なぜならこの日の晩、この年初めての降雪の中、俺はユキと出逢ったのだから。