2幕 曖昧蒙昧
物事の始まりはいつだって曖昧で、犬とUFOの違いのように境界線を引く事は難しい。例えば物心ついた頃、なんて言葉が明確に指し示す年ごろがいつなのか俺は知らない。同じように壮年を迎えた俺が、何日前に青年を卒業したのか知る事はできない。百日前かもしれないし、昨日かもしれない。もしくは未だに俺は青年のままの可能性だって否定しきれない。
別に禅問答をしようというのではない。哲学など糞食らえだ。そんなものは子供に任せておけばいい。
ただ俺が言いたいのは、視界に入った動物たちが、人間の姿をして見えるようになった時期を特定できない。それだけだ。
気付いたのは納骨の時のカラス少年が初めてだ。これは断言できる。しかしだからと言って、それまでに件の現象が起きていなかったとは断言できない。
それほど自然な神の悪戯だった。もしくは悪魔かもしれないが、この際それはどうでもいい。
重要なのは見えるようになったということだ。
つまり、そう見えているのは俺だけ。
当たり前に考えて、世界の法則が、それこそ俺の知らぬ間に改変したとは思えない。もし世界が俺の知っているものと違ってしまったのならば、今朝犬を散歩していた飼い主は、老婆に奴隷よろしく首輪をつけて引きずっていた事になる。
ここは俺の脳髄が狂ってしまったと考えるのが妥当だろう。思い当たる節は手のひらから溢れるほどある。だから当たり前のように受け入れることができた。イチゴを指して「この色は赤と言います」と言われるくらいには納得できた。
俺は狂ってしまったのだ。
そう気付いた時、俺は思いの外随分と気持ちが軽くなった気がした。解き放たれたと言えばいいのだろうか。
小学生の低学年の時、徒歩で帰宅中に尿意を我慢しきれなかったことがある。下腹部の鈍痛に必死で耐えながら脂汗を浮かべていた俺は、ついに限界を超え失禁してしまった。下着が濡れた瞬間から、止めようという意思はなくなった。
やってしまったという後悔よりも、妙な開放感(むしろ快感に近かったかもしれない)に満たされた。
そんな感じだ。
俺はいつから狂っていたのだろうか。物事の始まりはいつだって曖昧で、俺には分からない。
「もうそんなこと、どうだっていいじゃないか」と思った時、カラカラと乾いた笑いが零れた。
他人が見たらさぞ気味が悪いだろうが、生憎もう誰も見る者はいなかった。
ただこの時思っていたことは、『熱帯魚がやかましい』だ。
◇
「それでは佐倉さん、少しお話をしましょう」
顎髭をたくわえた妙にスタイリッシュな医師は、ゆっくりとした口調で言った。
「佐倉さん?」
「あ、はい。すみません」
jazzが緩やかに流れる診療室は、暖色系のダウンライトに照らされている。その中で壁際に鎮座する中型の水槽に俺は気を取られてしまっていた。
水草やサンゴで綺麗にレイアウトされた水槽には、どこかで見たような熱帯魚が泳いでいた。赤と黒のクマの入ったやつだ。
無数の彼らがガラスのヘリに集まり、物珍しそうな視線を私に向けている。ありがたい事に、魚類には擬人化の現象は起きないらしい。騒ぎ立てる声も聞こえない。それでも何となく言いたい事が分かる。まるで囁くように耳打ちされている気分だ。こうも大量だと頭が痛くなる。
それでもまだマシだと自分に言い聞かせる。もし彼らが人間に見えていたら、狂ってしまった俺でも卒倒しかねない。
小さい水槽へ押し込まれた人間に凝視されるとか、もはや恐怖映画でしかない。
ならば東京都内の満員電車を端から見た外人などは、今の俺と同じ気持ちなのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎり、俺は緩む口元を手のひらで隠した。
「なにか辛いことでもありますか?」
医師は首筋をさすりながら言った。何かを隠すような仕草だった。
熱帯魚がやかましい。
わずかに生臭い臭気が鼻をついた。
俺は医師のデスクの下に置かれている屑箱を見た。
熱帯魚がやかましい。
医師が首をさする音が聞こえた。
「それ以外を教えてもらいたいですな」
俺の声には苛立ちが棘となって含まれた。自覚をし、少し後悔したが、それでいいと思った。
「……どういう事です?」
「いえ、戯言です。どうでもいいですがね、ざれごとと、たわごと、って同じ漢字を当てるんですよね」
俺の言葉に医師はわずかに眉をひそめ、両手を机の上で組んだ。さあ、厄介な奴が来たぞ、そんな感じだろうか。
さすりすぎの首は、今まさに熟れた果実のように赤くなっていた。
スマートな心療内科医は辛抱強く俺の言葉を聞いてくれた。気の違った人間の話を四六時中聞かなければならないとは、なんと過酷な仕事だろうか。俺が彼ならば、一日で狂気の深淵に引きずり込まれるだろう。何か精神を保つコツがあるのならば、是非お教え願いたいものだ。どうせ俺には真似のできないことなのだろうが。
俺は両親や妻と娘を亡くした事故の話をしながら、そう思った。
はじめは「それは辛かったですね」とか、「佐倉さんは悪くないですよ」とか肯定の相槌しかしなかった彼の顔色が一変したのは、動物擬人化に話が及んでからだった。
この時俺は彼に病名を賜ったのだろうと、後になって思った。
親切な心療内科医は色々と親身になってアドバイスをしてくれたが、その頃になると、やかましい熱帯魚の囁きから逃げ出したい気分が勝り、あまり真剣に聞く事ができなかった。
そもそも「環境を全て変えてしまうのが一番です」と言われたところで、「はい。そうですか」とあっさりと仕事や住処を変える事など不可能だ。
新築四年目の我が家にはまだたんまりと住宅ローンが残っているし、職場でも責任と期待という押し付けられた重石が俺を縛り上げていた。
全く持って無責任な話だ。さすが高級取りのイケメン医師は言う事が異次元だ。
ぼんやりと囁きを聞きながら俺はそう思った。
「先生。ひとついいですか?」
「はい。何でもおっしゃってください」
俺を気遣う笑顔が煩わしい。俺が何も知らないと思っているから、そんな顔ができるのだ。
「老婆心ながらアドバイスを。受付の女の子とセックスする時は、ここではなく、ホテルを使いましょうよ。金なら唸るほどあるのでしょう?」
「えっ……、それはどういう……」
「露出の癖があるのなら、まあ、止めはしませんがね」
雷に打たれたように硬直する彼に見送られながら、俺は診療室を後にした。処方箋くらいは欲しいと思ったが、扉の向こうで叫んでいる心療内科医の声を聞いて諦める事にした。
それに薬を飲んで狂ってない振りをするのも、なかなかに骨が折れそうだ。
世の中には動物の声が聞きたいとか、会話したいだとか思っている人も多い。俺から言わせれば狂気の沙汰だ。
やめておけと言いたい。
どうせ奴らは大した事は言ってない。
ただ五月蝿いだけだ。