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スノードロップ  作者:
2/11

1幕 生死静止

 死にたいという人は驚くほど多い。

 ネットの世界を見てみると、現実世界では決して吐き出せない病的で且つ自虐的な書き込みが溢れかえっている。

 どこにでもある風景だ。もはや特別なことではない。個人個人の自殺観を語る者もいれば、匿名掲示板に「これから自殺します」と携帯電話の番号すら晒す猛者までいる。

 彼らにとっては死という特別な概念は、語れば語るほどに特殊性を失い、あらぬ方向へと暴走し始める。

 あらぬ方向。真逆といっても差し支えない。



 正反対のようでいて、実は表裏一体を表す生と死のベクトルは同じだ。死にたいと語ることは、生きたいと縋り付くことと同義なのだ。

 死にたいのなら死ぬだろう。別に主張することでもない。逡巡も必要ない。そういうものだ。彼らは死にたいともらすが、そのほとんどは死んでしまいたい、なのだろう。その二つは似ているようで決定的に異なる。


 実際俺の遠い親戚は、前日の夜まで笑顔で生きていたはずだったが、数時間後には自らの身体をただの肉塊に変えていた。誰にも何も言わず、ことさら自らの半生を語るでもなく、死を憧憬することもなく死ぬ。死を選ぶ必要もない。当たり前の顔をして隣にいるのだから。


 俺たちはよく誤解をしがちだが、これまで生きてこれたのは運が良かったからだ。運良く生きてこれたと言って差し支えない。数々の知人を失って俺も遅まきながら気がついた。単に運がいいだけだったと。

 一秒早かったから死んでいた。一秒遅かったら生きていた。生死の境目なんてそんなものだ。車の助手席には、たいそう縁起の悪い顔をした死神が乗っているに違いない。


 そもそも生きることの特殊性に気付かないのは、近すぎて見えないからだ。自分が立っているその足裏の地面なんて見えるはずもない。だから生きることに執着する者は、正反対のようで、実は裏側の死という概念を通してしか俯瞰し得ない。これは病気になって、はじめて健康という状態に気づくことに似ている。息を止めて、はじめて呼吸をしていたことに気づくことに似ている。


 もちろん三年前の俺がそんな事を思っていたかと問われると、首を横に振る。そして「当時死にたかったですか?」と言われても、よく分からないとしか答えられない。

 そんなものだ。奴は澄まし顔で隣に座っていて、時折優しく頬をなでるだけだった。


 三年と少し前、俺は両親と妻と娘を一度に亡くした。交通事故だった。娘は五歳という年齢だった。いつかはひとのものになることを覚悟はしていたが、早すぎる別離は現実的ではなく、幻想に足を突っ込んだ気がした。


 島根の水族館からの帰路、対面通行の高速道路でトラックと正面衝突だったようだ。ようだ、というのも俺は運良く休日出勤と重なり、共に行けなかったからだ。

 前日の晩に部下と顧客の間でトラブルが発生したため、謝罪と事態の正常化に向けての緊急出勤だった。


 俺がお客さんに頭を下げている同時刻、妻や娘たちは神に召されて首を垂れていたのだろう。

 気を遣ってか誰もそうは言わなかったが、俺は運が良かったということだ。

 もうひとつ運が良かったのは、居眠りで事故を起こしたトラック運転手は消し炭になったことだろう。生きていたなら、きっと俺は彼を殺した。間違いないと断言できる。

 殺して家族が生き返るわけではない。そんな事を言う人もいるかもしれない。御高説痛み入るが、そんなものは犬にでも喰わせてやる。正論は時として横暴だ。俺は俺が生きるために彼を殺すのだから。

 俺にとっては憎むべき対象がこの世にいないのは大層運が悪いことだったが、今は亡き娘を殺人犯の娘にしないで済んだのだ。

 きっと俺は運が良かった。



 異変に気付いたのは納骨を行う時だ。

 酷く寒い日で、曇天の中樹々に止まったカラスの群れの鳴き声がうるさかった記憶がある。当時の記憶は随分と曖昧で、まるで磨りガラスを通して見ている感じだが、確かに覚えている。

 読経も終わり、数少ない友人知人が寒さに耐え切れず去っても俺は墓前にいた。

 カラスは相変わらず集団で視線を向けているようだった。手向けた果物や菓子を狙っていたのだろう。そういえば張り紙でお供え物は持ち帰るように、といった趣旨の注意書きがされていた。正直面倒だと思った。

 故人が食えるものでもないし、持ち帰ったところで処分に困りそうだなと思っていた矢先、後ろから男の子が話しかけてきた。高い声で「それ、貰っていい?」と言ってきた少年は、季節外れに真っ黒に日焼けした顔で、あどけないつぶらな瞳をしていた。


「いいよ、持って行きな」と言うと、にっと愛嬌のある笑顔で「ありがとう」と言い残して幾らかの果物を持って駆けて行った。子供が供え物をねだる。そんな事もあるのかと不思議に思ったが、考えると暗い話になりそうで俺は詮索することを止めた。


 その矢先だった。

 風を可視化できるほどの羽ばたきが、俺の周りを包み込んだ。思わず耳を塞ぎたくなるほどの大音響だった。驚き立ち上がりながら周囲を見渡すと、真っ黒いカラスの群れが秩序をもって供え物をくわえて、薄暗い空に急上昇していた。

 あらかた獲物がなくなったと見えると、彼らは俺の頭上で旋回し、何かしらを伝えるようにひと鳴きし、山へと帰って行った。


 その中に、確かに一本しか用意してなかったバナナを掴んだカラスの姿を俺は見た。


 それは、先ほどの日焼けの少年が持ち去ったものだったのだ。






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