消えない跡を刻み込んで
「へー、引っ越し前の家ってこんな感じなんだ」
昼過ぎにやって来た千波は、そう言って物珍しそうに室内を見渡した。引っ越しの日を明日に控えた家は、あちこちにダンボール箱が置かれている。まだ荷造りが終わっていないこともあって、ちょっとした空き巣に入られたかのような散らかりようだ。
「あれ、親御さんは?」
「お母さんは足りなくなったガムテープの買い出し、お父さんは仕事」
「ええー、佳乃子パパ、こんなギリギリまで仕事に行ってるの?」
相変わらず大変なんだね、と言って千波は苦笑する。それには何も答えずに、真っ直ぐ廊下を歩いて、自分の部屋へと向かう。壁際には荷造りの終わったダンボール箱が積み上げられていて、ただでさえ狭い廊下は横歩きをしないと通れないぐらいだ。
後ろで、乾いた音がする。振り返れば、千波がずれたダンボール箱を戻そうとしているところだった。ちょうどぶつかってしまったのだろう。一番端にある三段目のダンボール箱がはみ出していた。
「へへ、ごめん」
片手で手刀を作って謝ってくる。そして、そのままダンボール箱を動かそうとする。けれど、中身が重たいのか片手ではびくともしなかった。千波は恥ずかしそうに小さく笑って、両手でダンボール箱を触る。今度はちゃんと動いて、きっちり元の位置に戻った。
それを見届けてから、私は自室のドアを開けた。先に中へと体を滑り込ませ、後ろを振り返って入ってくるように示す。すると千波は、お邪魔しまーす、と律儀に言いながらドアをくぐった。
荷物を詰め終わった段ボール箱は全部廊下に出してあるので、部屋に残されているのは、中央に置かれたローテーブルと勉強机、ベッド、あとは空っぽになった本棚ぐらいだ。これらも明日の朝には引っ越し業者さんの手によって搬出される予定になっている。
「なんか、佳乃子の部屋もがらんとしてるねー」
「だってもう明日引っ越しだからね」
きょろきょろと室内を見回している千波を横目に、ベッドに腰かける。古い木製のベッドフレームは、小さく音をたてた。
「こうして見ると、佳乃子の部屋って意外と広かったんだね。うらやましい」
「何言ってんの。間取りは一緒なんだから千波の部屋だって同じぐらいでしょ」
「はは、たしかに」
笑いながら千波は、さもそうするのが当たり前かのように、何の躊躇もなく私の隣に座った。古いマットレスは、二人分の重みを受けて沈み込む。足元に折りたたんである掛け布団を踏まないようにしているのか、その距離は近く、私の太もものすぐ傍に千波の太ももがある。まだ初夏だというのに、ショートパンツから伸びた足は日に焼けて黒い。高校で陸上部に入っているからかその足は適度に筋肉がついていて、きっと健康美というのはこういうことを言うのだろうなと思った。
「で、話があるんだっけ?」
体は正面を向けたまま、顔だけ私の方を向いて問いかけてくる。首は右に小さく傾けられていた。一見かわい子ぶっているように見える仕草。けれどそれは、何かを尋ねる時に千波が無意識にやる癖だということを、この二年と少しの付き合いで知っていた。
千波の問いかけには答えないまま私は、羽織っているパーカーのポケットに手をやる。そして、朝から中にいれておいた物を取り出した。
「……何これ?」
無言で目の前に差し出せば、千波は不思議そうにますます首を傾げた。
「ピアッサー」
「へえ! これがそうなんだ! 初めて見た!」
触ってもいい? と聞かれたので頷く。すると千波は、嬉しそうに顔を綻ばせながら、私の手のひらからピアッサーを取った。
上から下から斜めから、角度を変えて白い小さなピアッサーを眺める。その目は、好奇心を隠すことなく子どものようにキラキラと輝いていた。
「ふーん、こういう風になってるんだ。で、何で佳乃子がこんなの持ってるの?」
親御さんのとか? そう言って千波は、今度は左側に首を倒す。そこで、私が使うという選択肢が出てこないあたりが、これまでの私のキャラを表しているなと思った。もし私が千波の立場だったとしても、きっと自分で使うという発想は出てこないだろう。
不思議そうに私を見ている千波に向かってかぶりを振る。ますますその顔には怪訝そうな表情が広がった。
「え、じゃあ誰?」
「私」
そう答えた瞬間、千波は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。少しの間を置いて、はあ? という間抜けな声が小さく開いた唇からもれてくる。
「佳乃子が? うそ、冗談じゃなく?」
「うん、私が。本気も本気」
予想以上の反応に、笑い出しそうになるのを堪えながら答える。すると千波は、もとから大きな目を更に見開いて私を見てきた。黒目の輪郭がはっきりしたその目は、信じられないとでも言いたげだ。
「佳乃子が次通う高校ってピアスオッケーなの?」
「ううん、たぶん違うと思う」
相変わらず、思っていることがすぐ顔に出るなと思いながら答える。すると千波は、ますます大きく目を見開いた。それを見て、今にもこぼれ落ちてくるんじゃないか、いや、その前に目が乾くんじゃないかと思わず心配になってしまう。けれど、そんな私の心配はよそに、千波は矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「え、何で急に? 誰かに何か言われたとか?」
「ううん、全部自分の意思。ほら、心機一転してがんばろうかなーと思って」
「だからってピアス開けなくても……」
私の佳乃子が不良になったーと嘆かわし気に叫びながら、千波は後ろに倒れて行く。倒れてきた千波の背中を受け止めて、マットレスがくぐもった音をたてる。
「大げさだなー。ピアスぐらい大学生にもなれば千波だって開けるでしょ?」
「うん、そうだね、大学生になったらね。でも佳乃子は今高校二年生だからね」
佳乃子が悪になるーと言いながら、両手で目を覆って泣き真似をする。ひっくひっくと、しゃくり上げているふりをしているが、はっきり言ってちっとも上手くない。
「それで、記念すべき初ピアスを千波に開けてもらおうと思って」
変わらず泣き真似を続けている千波に向かって言う。すると千波は、今まで嘘泣きをしていたのを忘れたかのように、瞬時に手を顔からのけた。
「は? 何それ!」
「何ってそのままの意味だけど?」
「いやいや、百歩譲って佳乃子がピアス開けるのはいいとして、何で私が開けるの?」
「だって、自分で開けるの怖いんだもん」
お願い、と語尾にハートマークでもつけそうな勢いで言えば、千波は露骨に顔をしかめた。声には出さないが、気持ち悪い、と言いたげなのがありありと伝わってくる。
「ええー、そんな怖がるようなキャラじゃないじゃん」
「いいから、何なら片側だけでいいから」
腕を掴んで強引に起き上がらせる。直接触れた肌は滑らかで、肌に吸い付いてくるようだった。
「じゃあ、はい、お願い」
倒れ込んだ拍子にマットレスに放られていたピアッサーを取って、千波の手に握りこませる。意外と千波はあっさりそれを受け取った。
「でも私、どうやって開けるかわかんないよ?」
「大丈夫、途中までは私がやるから」
そう言うなり私は、ピアッサーが入っていたのとは反対側のポケットに入れていた消毒液と脱脂綿を取り出す。消毒液のふたを押し上げて容器を傾け、脱脂綿に液を垂らす。薄い脱脂綿だからか、染みこんだ液が指を濡らした。そのまま脱脂綿を左側の耳たぶに押しあて、消毒をする。控えめな冷たさに、思わず背筋が震えた。
しばらく押しあてたところで脱脂綿を外し、無造作にマットレスの上に投げ捨てる。そして、千波の手を取って自分の耳のところまで持って行く。
「もう挟んであるから、このまま押せば大丈夫だから」
添えていた手を外す。下ろすかと思ったが、千波はその場に固定したままだった。
「ねえ、本当に自分でやらなくていいの?」
「うん。千波にやってほしいの」
怯えたような目で見てくる千波を、真っ直ぐ見つめ返す。戸惑いと不安、そして心配に覆われた目は、私がはじめて見る物だった。
「もう、じゃあ、いくからね?」
開ける位置がずれないように、声だけで肯定を示す。覚悟を決めるためか、千波は一度大きく息を吸った。そして、いつになく真剣な顔で真っ直ぐ私の耳の辺りを見つめた。
バチンッという大きな音が耳元でした。次いでやってきたのは、鈍い痛みと耳たぶが熱くなるような感覚。それで、穴が開いたのだということがわかった。
「ああー怖かったー!」
一気に緊張が抜けたのか、ピアッサーを耳たぶから外した千波は、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「ちゃんと開いてる?」
尋ねられて、自分の耳たぶに触れてみる。そこにはたしかに、小さな石がついていた。
「うん、大丈夫」
「よかったー! もう、ドッキドキしたんだから」
「ごめんごめん、ありがとね」
ベッドに横たわった千波を見下ろしながら言う。すると彼女は、不服気に頬を膨らましながら私を見上げてきた。
「なんか気持ちがこもってない……お礼として、アイスを奢ることを命令する!」
「ええー、明日でお別れの私にたかるの?」
「いいじゃん、別に。お別れって言ってもメールとかはするし」
何でもないように千波は言う。それが、なんだか腹立たしくて、手を伸ばして千波の腕に触れる。きょとんとした顔で見てくる千波をよそに、その腕をつねる。すると千波は、痛い痛いと言って私の手を振り払った。
「もう! 何すんのよ!」
「ねえ、千波、さっき、なんか感触あった?」
まさか質問が返ってくるとは思わなかったのか、千波の口から間抜けな声がもれる。
「感触って……ピアッサー押した時?」
声には出さず、頷いて肯定の意を示す。すると千波は、考え込むように顎に人差し指をあてた。
「うーん、たしかに、何か皮膚を突き破ったみたいな感覚はしたかも」
「そっか」
答えを聞いた私は、それだけ言うと、千波に背を向けて立ち上がってそのまま数歩進む。どうかした? と問いかける声が背後でしたけれど、振り向きはしなかった。今振り向けばきっと、顔に浮かぶ歪んだ笑みを見られる気しかしなかったから。
「ね、やっぱり片側も開けてくれない?」
背を向けたまま問いかける。返ってきたのは、予想通り嫌そうな声。だけど、それで引き下がるつもりなんて毛頭なかった。さっきの答えを聞いてしまえば余計に。
踵を軸にしてくるりと回る。いつの間にか千波は起き上がっていて、不思議そうに私を見つめていた。
「というか、何でそんなに開けてほしいの?」
右側に首を傾げながら聞いてくる。答えならあった。けれど、そのまま伝えることなどできるはずもなかった。
「内緒。開けてくれたらアイス奢るから!」
「ハーゲン?」
「いいよ」
よっし、それならやる! そう言って千波はベッドから立ち上がる。近づいてくる千波を見ながら、やっぱりこの気持ちは言えそうにないと思った。
ピアスなんて本当は開けたくもなかった。だけど、決して消えないものが欲しかった。
思い出なんてそのうち消えるものじゃなくて、たしかなもの。それは、さっき私の耳に開いた空洞であり、千波の手に残った感触でもあった。
「あ、ピアスの石の色、黄色にしたんだ」
左耳に光る石に気づいた千波が、驚いたように言う。
「珍しいね、佳乃子が黄色にするの」
「似合ってない?」
そう聞けば、千波は首を横に振った。そして、混じりけのない綺麗な笑顔を私に向けてくる。
「佳乃子らしくないけどいいと思う。私、黄色好きだよ」
知ってる。そう言いたくなった。千波が好きじゃなかったら黄色なんて選んでない。
ピアッサーを持った手が、右耳へと伸びてくる。それを見ながら思った。どうか、この感触が千波の手から消えませんように。この穴が塞がりませんように。それは、私の身勝手な願いで、けれど、切実な祈りだった。