森のプリンス事変 2
「シャングリア殿下、あなたは王になりたいと思ったことはありませんか?」
よもやこんなことを直球に聞かれるとは思いもしなかった。
軽々しくそんな危険な発言してはいけない、それはボンベイ王国からの質問なのかなどと窘めようとして、やめた。無意味だ、そんな注意も何も。
ここに私たち以外に誰もいないことはわかっている。彼の発言を聞いている者は私以外にいないし、ここで話す内容を知るすべを持つ者はいない。
「い、いやっ……申し訳ありません、まだ寝ぼけていたようで」
私の表情で我に返ったのかお粗末に取り繕ってきた。
「……ありませんよ」
「え、」
「ええ、ありません。私にはこの国を背負っていけるだけの器はありません。私はこの国を愛しています。この国の繁栄を心から願っています。そしてこの国の幸福を祈るのに、国王である必要はありません。私は父を、兄を尊敬しています。私にできる限り、私は力を尽くしましょう」
返答すること自体が危険なことだった。
ここですべき私の正答は「聞かなかったことにする」だ。下手な取り繕いに乗ってやり、その言葉をなかったことにしてやることだった。
だがこれは私にとってのチャンスだった。
危険。だが願ったりかなったりだ。
「第二王子だからこそできることがあります。同様に国王でないからこそ、できることもあるでしょう。私は私の役目を全うし、国を、家族を助けます」
少なくとも、私には後ろ暗いところが一点たりともない。私は胸を張って王位に興味がないと言える。家族が、国が大切だと言える。私はただ誠実に事実だけ述べればいい。
「あなたは……あなたは立派な人だ」
幼く頼りない物言いだった。しおれたような声色は、今まで彼の口からきいたことがないものだった。
「周囲から、推されることはありませんか。……あなたを、と推すような派閥は」
「今は私の知る範囲では行動に移す者はいませんよ。直接私に交渉するような者も。私に野心がないことも、私に直接話を持ちに行けば父や兄に筒抜けになることも皆知っているのでしょう。今更そんな軽挙妄動に出る者はいません」
かつてそう言う貴族もいた。私の性別を知らない貴族も多い。私を国王にして傀儡にしたいと、利を貪りたいという者は決していないわけじゃない。だがそこまで見え透いている者がいれば私はすぐさま父や兄に報告した。
単純に危険なのだ。今いる王を蔑ろにし、傀儡を置きたいなどと願うその精神性が。国の利ではなく何よりも自らの利を、私腹を肥やすことに執心する者は。すぐさま重役を解き、動けないように新たな役を与え、不満が溜まりすぎないように飼殺す。そういったことが数回続いたのち、私に直接あることないことを吹き込もうとする不届き者はいなくなった。
もっとも、今は少なくなった、あるいは直接私に吹き込みに来る者がいなくなった、と言うのが正しいだろう。今もその妄想に等しい野心を腹に抱えている者もきっといないわけじゃない。
「……ニコラシカ殿下。あなたは第三王子で、確か三人兄弟でしたね」
「ええ、私は」
「あなたを国王にと、推す派閥がいるんですね」
緑の目が逡巡するように虚空を泳いだがものの数秒で彼は深くため息を吐いて、視線を芝生の生い茂る地面に向けた。
私に聞いていることはどれも彼自身にも当てはまることだ。
「殿下、あなたは王になりたいのですか」
「まさか……、僕はそんな器じゃない」
うんざりしたような顔に、そうだろうな、とため息を飲み込んだ。
あちらで王になろうとするなら、そう軽々と国を離れるはずがない。
他国で勉強して国で活かす、というのも考えられなくはないが、彼は第三王子。のんびりしていれば普通に兄たちに先を越されてしまう。ボンベイ王国で王位につくなら離れず虎視眈々と機会をうかがうべきだろう。
「僕はただ王子に生まれただけだ。一の兄のようなカリスマ性もなければ、二の兄のような頭脳もない。……ただいるだけだよ。だから僕のところには操りたい人しか寄ってこない」
「彼らは、ソーヴィシチさんとストラースチさんは違うでしょう」
「はは、どうかな。個人感情はそうかもしれないけど、周囲はきっと違う。少なくとも僕が即位したら得られる蜜があるとも思って実家から送り込まれているのかもしれない。」
「……そうですか」
物憂げなその横顔も無駄に絵になる。
しかしながら私に言えることなど何もない。よその国のお家事情など、知ったことではない。
どこにでもある話だ。大して珍しくもない。そんな話を聞かされて、どうしろと。
「ではグナエウス王国へ来た当日、私に向かって王女さま、などと言ったのは阿呆のふりをするためですか? 限度を見極めないとうっかり国際問題に発展しかねませんよ」
「……阿呆だと思っていたんですか」
「あの場の誰もが」
あの日の空気を思い出すと膝から崩れ落ちそうな気分とお綺麗な面を引っぱたきたくなる衝動に駆られる。改めて考えるといったい何だったんだあのとんちき空間は。それはそうと、あの時のヒューイさんの顔はよかった。唯一の光、無二の希望。
徐々に水面が橙に染まり始めていた。
聞き出したところで何か面白い話を聞けたわけではない。ただのどこにでもあるようなお家事情だ。それこそ、うちにだってあるような。
「さあ、帰りましょう。もう間もなく日も沈みます」
「ええ……貴重なお休みを邪魔してしまってすみません」
「それはお互い様ですよ」
のろのろと立ち上がるニコラシカに手を貸すが、上背があちらの方があるため傾きそうになる身体を何とかふらつかないよう踏みとどまる。手を貸しておいてふらつくなんて、かっこ悪いじゃないか。手も身体も私より大きい。だがその手は何となく嫋やかだと感じてしまった。
「この国の人たちは、みな優しい。理性的で、穏やかで。……いっそ」
能動性がなく、受動的。風に身体を軋ませる青竹のようにしなやかで、川の流れに身を運ばれる笹の葉のように閑雅だ。
「…………」
やれるな。
「どうしたんですか、シャングリア殿下」
「いいえ、なにも」
にっこり完璧な笑みを返しておく。
やれる、単体ならやれる。数秒もあればその命を刈り取ることができる。
けれどそんな短絡的なものじゃない。彼を排除したところで根本的な解決には至らない。どうして父が退位され、兄より私が優先されるのか、それがわからなければ意味がない。なによりそんなことをすれば当然次の問題がやってくる。
「帰りましょう、送っていきます」
帰りたくはないのだろう。
『いっそこのままここにいられたら』
などと言おうとしたのではないだろうか。
けれどそんなことを言わせるつもりはない。ここにいたい、と。どうやって。もしそれが王配となるためならば、私はそれを決して許しはしない。
様々な込み入った事情があるのだろう。その痛みも苦しみも、私にはわからない。
似たような境遇にあったとしても、私は彼ではないし、彼は私ではない。いくら理解を示そうともそれは結局わかったふりをしているだけだ。
いくら辛かろうが、それはこの国にいていい理由にはならない。
赤の他人の第三王子などよりも、私はこの国が、家族が何より大事なのだ。
そのために、私は彼を生きて国へ帰らせなければならない。
他人の幸せなど、野望など、どうでもいい。
その夜、夢を見た。
一組の男女が、厳かに、しかしそこに確かな幸福を讃えて寄り添っていた。
一目で良いものとわかる重たげなマント、国内の粋を集めて施したような刺繍のドレス、彫像が並ぶその背景から、二人がいるのは謁見の間だとわかった。それと同時に彼らが部屋の上座にいることも。中央の、最上位だ。
雪のような銀髪が天窓から注ぐ光を反射させ、エメラルドの瞳は優し気に細められる。その視線を一身に受ける女は引き結んだ口を微かに綻ばせた。金の髪に、深い海の瞳。
その頭には白いドレスに似合わない豪奢で重たげな冠があった。
私には二人が誰なのかわかった。
けれど同時に、あれは私たちに訪れる未来ではないこともわかった。
私が私であるならば、結婚式であの不似合いな冠を使うことは決してない。あんなただ立場を見せつけるためだけに。
最低な気分で布団から這い出た私は、いまだ暗い未明の空を眺めて首を傾げた。




