迷走ヒロイズム
さてこんにちは、グナエウス王国第二王子のシャングリア・グナエウスです。
先日学園の人気者、男爵令嬢ヘレン・アドリア嬢と階段でエンカウントし、爆弾と言っても過言ではない日記帳を拾った。その日記帳にはなんとこの世界の未来が!何ともあほらしく下手したら一人の傾国によって滅亡しかねない未来が書かれていた。この国重鎮の息子たちが悉く、ヒロイン、ヘレン・アドリア嬢に誑かされ、悪役令嬢のパトラ・ミオス嬢は国外追放されるそうな。
そんなことさせない!とばかりに息巻いていたが息巻く必要もないただの夢見がちな令嬢だということが発覚。必死に誑かそうとし、悪役令嬢こと義姉上パトラさんに対し牙をむいているが可哀想なくらいうまくいっていないようだ。まあ当然である。いくら可愛いとはいえ、言ってしまえばそれだけである。貴族としての常識もあまりないし破天荒に振る舞う彼女は愛され上手の困ったさんだ。可愛くなければ許されない振る舞い、というのも考えるだけで恐ろしいが、その可愛さ上に許されている彼女もまた恐ろしい。可愛さは正義とはよく言ったものである。
ただまあ見てくれがどれだけ正義であろうとも、人のものとっちゃだめだよねーということで、婚約者持ちの子息に手を出すのはよくないし、婚約者のいるこの国の王子に狙うのもよくない。そしてさらに言えば男装しているだけで実際は王女である私に秋波を送るのもやめてほしいなー。いや私? 男装してるけど女ですし? 彼女のことは可愛いと思うけど恋愛対象ではありませんし? そんなことより護衛部隊隊長殿を私は攻略したいですし?
……などと思っている時期が私にもありました。
今目の前に座っているのは諸悪の根源であるポンコツヒロイン。普段の天真爛漫な様子はなりを潜め、どこか気まずそうに、怒られるのを察した飼い犬のような表情をしている。
本来であれば婚約関係でもない未婚の男女が二人きりで会うのは非常にまずいのだがここは王城内の一室。城の関係者であればこの部屋にいるのが女同士だということは把握している。
今日彼女をここに呼んだのは表向き先日の水の祭りの誘拐事件への謝罪と説明、という名目だ。
だが実際のところその辺の話は全て済んでいて、彼女の両親、アドリア男爵家にもすでに話を通してある。
祭りの最中に攫われたとあればそれは警備を行っていた政府側の失態である。国内といえど大問題となりかねなかったが本人が無傷であったこと、第二王子である私が直々に救出したこと、犯人グループをすべて捕縛したことで男爵が政府側に怒り詰るということはなかった。なにより男爵は自分の娘の破天荒で常識知らずな行動に頭を抱えていて、今回は彼女にとって良い灸になったと礼を言うほどであった。
今目の前にあるのは今回の誘拐事件に関する問題ではない。
私とアドリア嬢の間にあるローテーブルの上には一つの桃色の日記帳があった。
そうつまり、ヒロインであるヘレン・アドリア嬢の書いた爆弾である。
「アドリア嬢、改めてお伺いします。こちらの日記帳はあなたのもので間違いありませんね?」
「……はい、そちらの日記帳は私のものです」
目を逸らしながら答えた彼女は自分のものだというその日記を手に取ることはなかった。
「まず最初に謝らなければならないことがこれについてです。数か月前、階段から落ちそうになったあなたを受け止めました。そしてあなたのいなくなったあと、階段にこの日記帳があるのに気が付きました。そのあとあなたがこの日記帳を探しているのを知りながら、あなたに返却しませんでした。そのことについては本当に申し訳ないと思っています。これについては弁明のしようがありません」
あなたの日記帳を拾い、あなたのものだと気づきながら所持し続けて返さなかった。そこだけ聞けば私がとんでもないクズか変態のように思える。そしてこれがただの日記帳であればもちろんアドリア嬢は私を怒っていいだろう。
しかし彼女は怒ることも気にするなということも、あれほど探していた日記帳を手繰り寄せることもしなかった。
それはつまり彼女は日記帳の中に書かれていたことを認識していて、それが私に読まれたことも知っているのだ。
「……それでは本題に入らせていただきましょう。勝手ながら、こちらの日記の中身を読んでしまいました。内容としては日記に書くようなことではなかったのですが。ここまで来たら回りくどく話すのも時間の無駄でしょう。非常に無粋な言葉で申し訳ないのですが」
膝の上に揃えておかれた小さな両手は緊張したようにぎゅっと握り締められていた。
怯えてしまって可哀そうなことだ。
けれどもう彼女は逃げられないところまで来てしまった。
「ヘレン・アドリア男爵令嬢。あなたはいったい何者ですか?」
泣き出しそうな顔をした彼女に助けの手を差し伸べてやれる人間はここにいない。
何事か逡巡するように視線を彷徨わせ、彼女は唇を戦慄かせた。
「わ、私は、アドリア男爵家の、一人娘の、ヘレンと言います」
空色の瞳が揺れる。当然のことを言っているはずなのに、彼女はどこか自信なさげだった。誰から見ても同じ事実が見えるはずなのに彼女とその客観的事実はかみ合っていないようだった。
「シャングリア様は、馬鹿馬鹿しく思われるかもしれません。私のことを、あ、頭のおかしな子だと思うかもしれません」
「それは、」
それはもはや今更では、という本心をなんとか飲み込んだ。正直なところ、今までで見た彼女の中で今が一番まともに見える。いつも振りまいている笑顔は見えずとも、真摯さが感じ取れていた。
「そんなことはどうでもいいことです。信じられないようなことが確かにあなたの周囲で起きているのですから。どんなことをあなたが言いだそうとも、それはきっとあなたにとっての事実でしょうから。私はあくまでも、あなたが見ていたもの、見ているものを知りたいのです」
ぐ、と唇をかんだ彼女を見て、なんとなく違和感を抱いた。彼女はそのしぐさがひどく似合わなかった。それはきっと我慢だとか、耐えることだとか、そういうものが似合わないのだと思う。私の知るヘレン・アドリア嬢であれば悲しみのまま涙を流し、喜びのまま笑顔を浮かべ、怒りのまま不服の表情を浮かべることだろう。けれど今の彼女は何かに耐えるように唇をかみ、こぼれだしそうな感情を何とか押し留めようとしているように見えた。
戸惑い、耐える彼女を、急かすことなくただ黙って待っていた。
「私、は……何者なんでしょうか」
そしてようやく彼女の口から出た言葉はひどく頼りなく、不安定だった。
とつとつと、自身の中にある何かを紐解くように、言葉を紡ぎだすように、彼女の世界を語りだした。
「私の名前は、瓜子すずめ、と申します」
ウリコ・スズメ。ひどく聞きなれない音だった。ぱっと頭を働かせるがスズメなどという家名は国内で聞いたこともなかった。しかしアドリア嬢はそれを自身の名前とした。
「そしてこの世界はいわゆる乙女ゲームの『手のひらのブルームーン』です。シャングリア様も日記をお読みなったと思いますが、そのままです」
「……そのまま、とは」
「……ゲームのヒロイン、ヘレン・アドリア男爵令嬢が、数々の困難を越えながら”完全なる愛”を手に入れるまでの物語、です。プレイヤーはヒロインのヘレンを動かしながら彼女をハッピーエンドへ導くんです」
「”完全なる愛”?」
自嘲気味に話す彼女に対して、私は得も言われぬ寒気に襲われていた。
私には、目の前にいる人間が一体何なのか、いったい誰なのかわからなかった。
「完全なる愛の定義は知りません。ただタイトルのカクテル言葉から取っているだけだと思います。……ただたぶん、誰かと結ばれるエンドのことかと」
目の前の彼女はひどく疲れていた。
いつものエネルギーに溢れ、素直な阿呆の子の面影はない。ただ疲れ、諦め、自嘲していた。
「……アドリア嬢、いえスズメさんはどなたかと結ばれるつもりだったんですか?」
遠回しにそうは見えなかったということを伝える。
彼女の動きは恋を成就させようとする人間のそれではない。感情のベクトルは定まっておらずどれもこれも真摯さも必死さもなかった。
「シャングリア様には誰でもよかった、ように見えましたか?」
「失礼ながら。あなたは恋をしているように見えませんでしたので」
愛だの恋だの、言えるような立場ではないのは知っている。あいにくと私も兄も拗らせに拗らせ、一般的な恋愛からかなり離れたところにいる気がする。けれど例えば義姉であるパトラさん、例えばマートンを見ていたマーガレット嬢さん。私たちの熱量、彼女たちの熱量、その十分の一も彼女の中にあるようには思えなかった。
「恋、してませんでしたよ。私は」
ヒロインは誰かを馬鹿にするように、それでも泣き出しだしそうな声でそう言った。
「私は日本に住む、一般的な成人女性でした」
こんなのでも、シャングリア様より実はずっと年上なんですよ、情けない。
何の目標もなく、ただ毎日仕事に追われて。それ以外する余裕も時間もなくて。できたことといえばあまり労力を使わないゲームくらい。そのときやってたのが、この世界を舞台にした『手のひらのブルームーン』でした。
たぶん私、別の人になりたかったんです。
何かに一生懸命で、誰かを愛して愛されて、他の誰でもない一人になれるような人間に。
私はいつも、その他大勢の中の一人にしか、なれなかったから。
「面白くなくて、緩やかに苦しい生活の中で、このゲームが数少ない癒しでした。……それから、私は」
また逡巡するように視線を彷徨わせ、口元を歪めるようにして彼女は笑った。
「私は、死にました。ビル火災で、逃げることもできず死にました。日々弊社燃えてしまえなんて思ってましたけど、本当に燃えるなんて……。死ぬ時も私、たくさんいるうちの一人にしかたぶんなれてませんでしたよ」
目をつむって長く息を吐いた。その心情はきっと私ではどうにもできないものだった。
「死んで、気づいたらここにいました。ヘレン・アドリア嬢として、私は生まれ変わってました」
最初は、うれしかったですよ。誰でもない大勢の内の一人だった私が世界に一人しかいない主人公になれただなんて。すごく、うれしかった。鏡を見ればこの世に他にいないような美少女で。両親は優しくて、できることが多ければそれだけ褒めてくれた。何もかも、満たされた生活でした。
それで大きくなってこのアクティウム学園に入ることが分かった時は胸を高鳴らせていました。ここ行けば物語が始まる。どうなるかわからないけど、液晶越しに見ていたあの光あふれる光景手に入れることができるって。
「でも始まってわかりました。私は所詮、ヘレン・アドリア嬢になりきれない人間なんだって」
ゲームの中の彼女はそれはそれは愛らしい少女でした。美しい容姿、優しい性根、実直でまっすぐな性格。でもそのどれも、私は素で持ってはいませんでした。だから私は演じました。少しでも彼女に近づけるように。
「少しでも彼女になれるように。記憶にある限りのイベントやストーリーを日記帳に書き出して、それに従い、動きました。……もっとも、ご存じの通り、日記を拾ったあなたによって数々のフラグをへし折られたわけですが」
「……申し訳ありません。ですがあれほどの壮大な野望が書かれていれば看過するわけでには行きませんよ。私たちは攻略されるわけにも、国外追放されるわけにもいかないんです」
「ええ、本当に。これでもかというほどご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
もう私の目の前にいる人間は天真爛漫なヒロイン、ヘレン・アドリア嬢ではなかった。
私の前で話すのは、ヒロインになり損ねてしまった大人の女性、ウリコ・スズメさんだった。
「……ごめんなさい、こんないい大人が。身勝手に振舞って、シャングリア様だけじゃない。周囲のほとんどの人に迷惑をかけてしまったわ。ヒロインの立場になれたのに、私は愛する方法も愛される方法もわからなかった。だからあんなてんでバラバラな行動をとることになってしまった」
ヒロインの幸福は、物語の中で誰かと結ばれることでした。それなのに私は誰にも恋をしていませんでした。
この国の第一王子であるシュトラウス・グナエウス様。物腰が柔らかくて、美しい容姿。誰もを惹きつけるカリスマ性。
でも私は恋をしませんでした。
昔馴染みであるアークタルス・ハボット。口うるさいけど真面目で、本気で私のことも心配してくれる優しい子。
でも私は恋をしませんでした。
同じ学年のマートン・ヴェーガル。馬鹿正直で優しすぎるお人よし。こちらの気が軽くなるくらい元気でよく笑う子。
でも私は恋をしませんでした。
恋をすることができませんでした。
「どの人も好きにはなれませんでした。ヒロインとして誰かを好きにならなくてはいけないのに。……それがたぶん、今回の水の祭りにもつながりました」
自棄になったように話していた彼女がすっと背筋を伸ばして私に向かい合った。
あまりの情報量の押し流されそうになっていた私は思わず肩を跳ねさせた。ここまでだけでも処理能力を超えているのにこれ以上、彼女はいったい何を話すつもりなのか無意識に身構えた。
「シャングリア・グナエウス様。この度は私の身勝手な行動で多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
ローテーブルに額が付きそうなほど彼女は深々と頭を下げた。




