緊急救出イベント・水の祭り事変 5
薄暗い森の中を縫うようにして走れば不自然な獣道をすぐに見つけることができた。踏まれたばかりの草の道、人ひとりが通り抜けられそうなそれは森の中腹まで続いていた。グナエウス王国の東には隣接するボンベイ王国がある。もし国境を越えられてしまうとこちらからの兵を送ることができず、後手後手に回ることとなる。そのうえ犯人グループがこちら側の人間だとしたらそれこそ外交問題に発展する。アドリア嬢の救出のほかに新たなタスクまで加わってしまった。
上がった呼吸の整え、木々の陰から覗き込む。森の中に開けた空間があった。もう何十年も使われていないだろうあばら家。おそらくかつて森で生計を立てていた猟師が使っていたものだろう。その横に、中型の幌馬車がつけられていた。静かな森の中に数人の話し声が聞こえる。
「日が沈み切ったら出発するぞ。予定通り、夜のうちにアジトまで戻る」
リーダーらしい低い男の声。予想通り、やはり闇夜に紛れ街から離れるのだろう。開けた空間の先には馬車一台が何とか走れそうな道があった。それがどこまで続いているのかはわからなかった。
「にしても、結局捕まえられたのは一人。奴隷として売りに出すには割に合わねえし、身代金を要求する方にしておくか」
「いや、でもあの小娘、顔がよかっただろ。ボンベイじゃあお貴族様まで奴隷を買ってんだ。好き者が買やあ高値が付くんじゃねえか?」
「はっははは、悪くねえな! あいつも貴族の娘だろうが、女じゃ強請れる額も限りがある。そのうえ男の嫡男がいりゃあ娘は手放しても惜しくねえ。吹っ掛けて売っちまった方がいいかもな」
下卑た笑いと皮算用に反吐が出る。幸い、馬車の裏手ではなく馬の様子を見ながら話していたようで、幌の隙間を視認することができた。
履いていたハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で馬車へと近付き幌の隙間に身体をねじ込み乗り込んだ。
暗い荷馬車の中、探していた人物が横たわっているのを見つけた。
「アドリア嬢、アドリア嬢大丈夫ですかっ」
声を落としながら瞼を閉じたままのアドリア嬢を抱き起す。手足に結ばれた縄を解き、顔を軽く叩く。
見たところ大きな外傷もなく、乱暴された様子もない。
「ん、んん……、だ、誰ですか……?」
数度繰り返せばようやく目を覚ましてくれた。全く状況を把握できていないようで、おそらく攫われたという自覚すらないのだろう。
「落ち着いてください。第二王子のシャングリアです」
「……ッシャン、」
シャングリア様!? とでも言おうとしたのだろう。それを見越して開けられた口に指を突っ込む。なぜ目が覚めたら私がいるのだとか、なぜ私が女装をしているのかだとか、突っ込みどころが多いのは百も承知だが、あいにくといつもの彼女の天然テンションに付き合っていられる時間と余裕はない。
「いいですか、落ち着いてください。あんたは今から一時間ほどまえに祭りの最中不届き者に攫われました。……街の中で助けることができず、不甲斐ないばかりです」
「ふぇ、」
何かしゃべろうとするアドリア嬢を制し続ける。
「今私たちは王国の東の森の中にいます。そしてここは犯人の馬車の中。夜の間に王都から離れ、あなたを売りに出すつもりです」
暗い馬車の中で、彼女が身体を固くしたのを感じた。
きっとわかっていなかったのだろう。攫われるというのがどれほどのことか。その先に何があるか。”知って”いても、身に迫った理解はしていなかったのだろう。
「今からあなたを逃がします。そしてここに私があなたの代わりに残ります」
「っ!?」
「幸い今日のあなたの格好と私の格好は比較的に似ています。暗い中ではきっと彼らも見分けがつかない、時間稼ぎくらいにはなるでしょう。あなたはここから離れたら王都へ向かってください。ここから王都まで、獣道があります。月明かりも出ている今なら、きっと迷わず王都へ行けます」
すっかり怯えた様子の彼女の口から指を引き抜いた。今ならきっと大きな声を出そうとはしないだろうという確信があった。冷え切った肩を支え、語り掛ける。
「ヘレン・アドリア嬢。王都へ行き、兄上を呼んできてください。ハボット子息にはすでに近くの警備隊や護衛に伝えるように頼んであります。あなたは王宮、おそらく今は他国の重鎮たちを相手に立食会か何かでもしているでしょう兄、シュトラウスを呼んでください」
「で、でも私なんかが行っても、シュトラウス様に会うなんて、」
「できます。あなたの無礼も奇行も今に始まったわけではありません。……周囲は許します。あなたが近くへ行くことも、第一王子に話しかけることも。あなたは許されます。天真爛漫で、愛らしく、平等なあなたは突拍子のないことをしても許されるんです」
彼女は許される。
各国の要人がいる中でも、彼女は確実に乗り込んでいける。
必死に縋りつかれれば、きっと誰もが耳を傾けてしまう。
「大丈夫。きっと誰もがあなたに心を傾ける。あなたが真摯であれば、必死であれば、誰も邪険にしたりはしない」
「でも、でもシャングリア様っ、シャングリア様を危険に晒すわけにはいきません……!」
「国民を危険に晒すわけにはいかない」
綺麗な瞳に涙を湛えるアドリア嬢はそれはそれは愛らしかった。
今のように真摯であれば、誠実であれば、彼女が邪険にされることも、煙たがれることもきっとない。
「時間がありません。行ってください、アドリア嬢。大丈夫、あなたならできる。することが決まっていればあなたは動けるはずです。攫われることを最初から知っていて、今日水の祭りに来たように」
ひゅっ、と息をのむ音がすぐ傍で聞こえた。唇が戦慄き、身体を震わせる。
「ちが、違うんです、私、私こんなことになるだなんて、」
「知ってはいた、けれどなんとかなると思ったんでしょう。誰かが助けてくれる、そう思って今日あなたはアークタルス・ハボットと共に水の祭りを訪れた」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、わたしのせいでっ……!」
「そして私はあなたがそう動くことを知ったうえで、囮にしました」
彼女の震えが一瞬止まった。細い身体を抱きよせて、頼りない背中をさすった。
「謝らなくてはなりません。……あなたが祭りに来ないようにする方法はいくらでもあった。でも私はあなたが水の祭りに来て、その場で賊を捕らえるという方法を選択しました」
彼女の実家に脅迫状でも送りつければ、間違いなく彼女の家族は彼女を家から出さなかっただろう。私が彼女をなんらかの理由で呼び出し、一日拘束していれば街中に出ることはなかっただろう。他の貴族たちを利用して彼女を王都から遠ざけてしまえば祭りに参加はできなかっただろう。
考えたうえで、彼女を賊の囮にすることを選んだのだ。
どこまで日記帳が正しいのかわからない。けれど日記の通りに動くなら、現れる賊は間違いなく彼女を攫う。そして彼女がいなければ他の名前もない誰かを攫ったことだろう。
その誰かを助けるために、私は彼女を囮にしたのだ。
「そして結果はこのざま。詰めが甘く、申し訳ありません」
「シャ、シャングリア様は、どこまでご存じなんですか……?」
「時間は有限です。質問は帰ってから答えましょう。……さあ、行きなさいヘレン・アドリア嬢。真摯で誠実でいなさい。そうすれば、あなたは必ず許される。あなたには走る足がある。あなたには人を誘う両手がある」
戦慄いていた唇はきつく閉じられ、傷一つない手は握り締められていた。
それでも淡い色の瞳は不安げに涙を湛え揺れていた。
「いつも通り、胸を張りなさい、自信を持ちなさい。君はこの世界の”ヒロイン”なんだろう?」
一筋の涙が流れ、彼女は顔を上げた。
「……行きます。必ず助けを呼んできます。だから、だからシャングリア様もどうかご無事で。それで、あなたが戻ってきたら、そうしたら私に謝らせてください」
そう言った彼女は今まで見てきたアドリア嬢の中でもっとも美しく、毅然としていた。
なるほど彼女は確かに”ヒロイン”だった。
「戻ったら聞きましょう。けれど私が無事なのは当然ですよ。だって私は”ヒーロー”なのだから」
”難攻不落、気高い百合の隠しキャラ”
腐ってもヒーローキャラクターなのだから。
アドリア嬢は少しだけ笑って、それから幌の隙間からするりと抜けて暗い森の中へと駆けていった。




