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白紙委任状

作者: 明宏訊

夜の波音を耳にしながら、

置き手紙を開封すると、

中から、

見覚えのある絵が顔を覗かせていた。

人によって評価が分かれるし、

あるいは特殊な部類に入る作品だろうが、

一応、名画と呼んでもいいだろう。

それは『白紙委任状』という油彩作品だった。

もちろん、本物ではなく単なる絵葉書にすぎなかったが、

その意図が、

葉書といういわば属性ではなくて、

あくまでも、絵そのものであることは明白だった。

何しろ、手紙というのは名前だけで、

文章は一切無い。

文字列といえば、

筆者の筆蹟と、

一目でわかる自分の名前ばかりだ。

これからわかることは、

相手によれば、

この絵のみがメッセージなのだろう、ということだけだ。

メッセンジャーは、

きっと、この絵にきっと何かを仮託した。


この絵を破いたときに心に決めたことがある。

おそらく、自分は死ぬまで『白紙委任状』を目にすることはないだろう。

できることならば、本物も含めて、

一流の技量を備えた専門家による、

複製画から、

置き手紙のような、地方の土産物の類まで、

すべてが、

元の形を完全に失って、

無に帰することを望む。

深い森を行く、

あの、騎乗の女竜騎士は明らかに不吉だ。

竜に乗っているにも関わらず騎乗とは・・・・、

言葉とは常々、文化と歴史というものと不可分であることを知らせてくれる。

竜よりも、馬を飼い馴らす歴史の方が古いことに由来している。

竜を使うに当っては隆盛だった中世においては、

竜を繋ぐ宿舎を厩舎と呼んだらしい。

あの女竜騎士も厩舎から出立したにちがいない。

あの絵を思い浮かべていると、

自分もまた彼女のように、戦に向かうために出発したような気がしてくる。

いや、家臣たちがいないので戦ではないのかもしれない。

何の気もなしに、ひょろりと散策に出たとも考えられる。

いや、だがあの軍装はどうなるのだ?

ひょろりと、敵を殺すために罷り出たのかもしれない。

あの軍装からは作者の好戦性が見て取れる。

画家の名前は何だったか?

ハイデッガーだが、フッサールだが、

姓はおぼえていないのに、ファーストネームが朧げに額の裏辺りを彷徨いている。

ジギスムントという音がぴくぴくと電子音を発しながら消えた。

何を考えてあのような、

将来に禍根を残す有罪を遺そうとしたのか、

無名な絵師ならば、

その画家は当時、名前をだれも知らない者はいないくらいに、

最高の芸術家という冠を被ることを愉しんでいたのだ。

無責任な画家の遺志というか、呪いも含めて灰に変じてほしい。

それだけでなく、

できることならば、

それを記憶したすべての人を、

それには自分も含まれてしまうが、

全員をも同じく劫火に投じたい。

もしかしたら、

自分を含めた、

世界のすべてのものを、

無に戻したい、

宇宙をあるべき状態に戻したい、

そんなことを渇望しているのかもしれない。

名目上、手紙が、

報せてきた内容はそれほどまでに深刻だったのだ。


劫火に投じたいと考えたが、

船上ではあいにくとそのようなわけにはいかぬ。

これまでの、

当該人物と共有した時間をかなぐり捨てる意味で、

破った、

手紙もどきを、

夜景を映す海面に投じることで、

その代わりとした。

きっと海の炎は絵を焼き払ってくれたことだろう。

古生物学者は、

生物の起源を太古の海に投じられた光だと説くが、

まさか、

紙くずが海に投じられた瞬間に進化して、

生き物になって、加害者に復讐するために這い上がってくることもなかろう。

だがそういう悪夢を見ることが容易に予想できたので、

今夜は寝具に潜り込むことは止めることにした。

人の頭を丸ごと摑めそうな、

ぬめぬめとした、

カエルの巨大な手が、甲板に貼りつくのが、

じっさいに、目の前に視えた。

だが次の瞬間には、

ネオンサインがキラキラと点滅しているだけだった。

何処かの、

知らない建物の灯火が自分に、

何かしらのメッセージを送り続けているように思えた。

それは、この世界に生きる、

だれしもに送り手の可能性はあるものの、

唯ひとり、

『白紙委任状』を送ってきたような、

じつに無神経な人間だけは、除外されなければならない。


食堂で遅い夕食を摂った。

昼寝をしたせいかもしれない。

自分の他は誰もいなかった。

ウエイターが、

あたかもこの舞台の主演のように振る舞っている。

豪華な調度品も、

彫刻や彫刻も、

すべては彼らのためにあると言っても過言ではない。

そして、

この船の客である自分ですらも。

そのことに関してべつに不満があるわけではない。

むしろ、

その方が自分にとって好都合とすら思える。

手紙の送り主を、

永遠に失ってしまった、

今現在、

むしろ、そうでないと困る。

そして、絵は手元には存在しないが、

自分の脳裏には存在する。

それは永遠に消えることはないだろう。

視力が、

外界に向いているならば、

それは薄れるかもしれないが、

いったん、

内向きになった瞬間に、

姿を現す。

不吉な女竜騎士が長槍を携えて、

不吉な森を往く様子が、

まるで目の前に絵があるように、

いや、それ以上だ。

絵の中にいるような、

いや、それも違う。

絵自体は、

ちょうど、リアリズムと中世の様式美を足して、2で割ったような作品であり、

けっして、リアル、そのものを描いたわけでもないのに、

本物の人間が、

本物の竜が、

そこにいて、ちゃんと呼吸しているようだ。

汗をかかないはずの大理石の肌がぬめっている。

竜の鱗のひとつひとつに神経が通っているかのようだ。

そして、

何よりも、意図的に狂わせた、現実の修辞法。

現実世界への無言で、温度をまったく感じさせない挑戦。

寒々しい世界だが、

じっさいに温度が低いわけではない。

温度がない、のだ。

ちょうど、性に関する、

両性具有と無性にすぎない天使の違いのように。

それと、自分が生きている世界が混在する。

食後のコーヒーが、

異様に苦いのは、

砂糖を入れ忘れたせいだと、

はじめて気づいた。

ウエイターのうちの誰が、

食べ終えた皿を運んだのか、

コーヒーを運んできたのか、

それを憶えていないのは、

自分にありえない失態だった。

旅行に出発して一週間になるが、

勝手に名づけて、遊んでいた。

あたかも自分が舞台の総監督を務めるような感覚で、

彼らに名前を付けて仮想の演技をさせていたのだ。

むろん、じっさいに命令や指導をするわけでもなく、

ちょっとした彼らの動きや、変化に合わせて、

あたかも自分が命じた結果のように思い込んだ。

いわば、

本当に演技をしていたのは自分にすぎなかった。

彼らの一挙手一投足を気にかけていたわけだから、

舞台で起きたことを自分が認識していないはずがない。

突如として出現をした、

頭の中の白に驚いていた。

ウエイターが誰もいなくなった食堂は、

主役俳優がいなくなった舞台と同じで、

寒々しいこと、この上ない。

ちょうどあの絵を思い出す。

あの絵はここにこそ掲げられるべき絵だろう。

不思議なことに、

普段はあまり好きではない抽象画を視たいと思った それは視る人間の介入をまったく許さない。

それと対極にある、

エウロペの伝統的な宗教画の方が好きだった。

表現がリアルであればあるほど、

自分の顔を画の中に見出すことができる。

白皙の肌や画中の鏡に映り込んだ、

細かな画外の情景、など、など。

近代以降の、

やけに自己主張の強すぎる、

石油臭のやけにきついリアリズムとはまったく似て非なるものだろう。

べつに、

エウロペ特有の、

ある宗教を信仰しているわけではない。

食堂の隅で、ウエイターがもじもじしている。

きっと早く出て行ってほしいのだろう。それを無言で告げている。

彼が信仰している宗教は無人の食堂にある。

自分がいなくなれば、きっと立派な聖堂に姿を変えるのだろう。

彼に対して悪意があるわけでもなく、

かつ、ここに執着があるわけでもない。

だから、

なんの抵抗もなく自室に帰ることができた。


備え付けの寝具に寄りかかりながらも、

例の絵が脳裏から消え去ることはない。

白い、

大理石というよりは、むしろ漆喰調の壁は否応なしにあの絵を彷彿とさせる。

虚ろながら眼光が鋭い、という、

激しい葛藤を、

その、

ちいさな頭の外に秘めている。

彼女には、

不思議と内面を感じさせない。

あの表情そのものが、

それを完全に否定している。

彼女は、

画外ががいの人間のことなど一顧だにしていない。

あるいは、作者にとってみれば、

心を奪われてしまったものの、

拒絶されるのが怖くて、言い寄ることすらできない自身を、

彼女を目の当たりにすると再確認させられるだけだろう。

もしくは、

そういう女性をモデルに仕立てたのか?

それとも経年劣化が起こした錯覚だろうか?

寝具に横になると、

長い髪の毛のせいで、

顔が歪んでしまいそうだ。

髪の毛が含む水分量が多すぎるのだろう。

いつか忘れたが、

美容判断士とかいう、

いかにも名前だけが先立っていて、

口とその周りの筋肉だけは異常に発達している。

そういう連中が、

いかにも下した診断。

「お客様の御髪おぐしは本当に綺麗ですね。いかにも理想的な水分量です」

自分が歴史上の人物であるかのような錯覚に苛まれたものだ。

意識が遠のいていく。

このまま永遠に戻らなければいいと思うが、

きっと朝は来るのだろう。

この旅にも終わりがくるのだろう。

よく見知った港に戻るときがくるのだ。


だが、さしあたり、

旅行はまだ始まったばかりである。

そこまで言えばさすがに嘘になるか。

旅行はちょうどクライマックスに当たる。

旅行会社の犬たちがきゃんきゃんと吠えていた。

明日の朝に、

会社が賞賛する、

とある街のランドマークを目の当たりにするらしい。

手紙の差出人にそれを見せなかったことは、

どんな未来の展開に影響するのだろう?

夜の海面を燃やす偽りの炎のなかに没した、

あの男は…。

海面を美しく映えさせるネオンサインに目を奪われていたというのに、

彼は突如として、夜の楽しみを奪った。

大型旅客船といえど、

甲板にいたのは自分だけだった。

きっと豊かな自分の髪が、

多くの人たちの目から、

彼の自死を隠匿したのだと勝手に思っている。

何故か、声が出なかった。

強烈な精神的負担が、随意筋の動きを阻害したわけではない。

彼の救助のために声を出すことがばからしくなったのだ。

彼は自らの意思で旅立った。

すでに旅に出ているにもかかわらず、

不帰の旅に出たのだ。

それに対して、

救助が必要だとは思えなかった。

だから、

声を出すことを止めた。

あたかも最初から一人旅にように振る舞うことにした。

あたかも最初から彼がいなかったかのようにこれから振る舞う。

画中の女竜騎士は、

何かしらの勘気に触れたのか、

家臣を槍で刺殺した後のことかもしれない。

予期せぬ興奮が、

彼女に軍装を強要した。

何ともなしに散策に出た。

自分が何の武器も用意していないことに気付いた。

しかし彼女は誰から襲われる心配もない境涯にある。

門地を散策に、どのような危険があるというのだ?

だが船内は我が領土でもない。

今から思うと、自分こそが彼を守る武器だったのかもしれない。

しかし、

自分で自分を攻撃しようとする人間を防護するスキルは、

残念ながら、

なかった。

ネオンサインを映す海面に没した彼を思い浮かべる。

彼は優しい炎に焼かれて旅立った。

肉体的苦痛を感じることなしに、

まったく熱に、

眉間にしわを寄せることなく、

旅立てた。

そう、魂だけを、

旅立たせるために、

その外皮を焼くだけの、

優しい炎によって。

そう思うことによって区切りをつけることにした。


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