52.
「ブラックコーヒーを、お願い」
女性が店員に声をかける。店員は、岩屋をちらりと見る。
「僕はコバラーユを」
「分かりました、ブラックコーヒーとコバラーユですね」
コバラーユとは、向こうの世界では紅茶と呼ばれていた飲み物に近い。コ・バラー・ユと単語に分解することができる飲み物だ。意味としては、コが赤い、バラーは、昔いた領主の名前だ。ユはお湯のこと。つまり、コバラーユとはバラーが作った赤いお湯という意味がある。それでその時に使ったのが、紅茶のような茶葉だった。
この世界では、コバラーユは茶葉を発酵させて作るわけではない。すでに発酵されたのと同じような茶葉があるのだ。それゆえに、緑茶のようにそのまま揉み、紅茶のような飲み物を作ることができる。一方で、緑茶は存在しない。そのような茶の木が存在しないためだ。だからお茶は全て紅茶となる。この世界ではコバラーユだ。
コーヒーは普遍的に存在しており、一般住宅にもコーヒーの木が植えられていることがあるほど、ポピュラーな飲み物だ。牛乳もあるため、コーヒー系統の飲み物、例えばカプチーノやアフォガードは、昔から飲まれている。もっとも、アイスは貴重なものであり、金持ちか高官でなければ手に入らなかった。
「お待たせいたしました、ブラックコーヒーです」
コーヒーの入れ方は、元の世界と変わらない。豆を挽き、フィルターをセットし、そこに挽いた豆を入れる。あとはゆっくりと、丁寧にお湯を入れていく。暖かい香りが、店中に広がっては、どこかへと消えていく。どこへ消えるのかは分からないが、惜しい香りだと、岩屋は思っていた。だが、女性はそうは思っていないようだ。
あっさりとコーヒーを飲む。さすがに熱かったようで、半分ほど飲んだところで、コップをテーブルにおいた。カチンと、ソーサーとコップが当たる音が、静かな店内に響く。その時、ちょうど岩屋の分ができた。紅茶と同じように、何分か蒸した方がおいしく入るため、コーヒーより若干時間がかかるのだ。
「お待たせいたしました。コバラーユです」
岩屋は、片手でソーサー、片手でコップを受け取った。コーヒーと紅茶の香りが入り混じるが、嫌な香りとはならない。それどころか、袋に入れたくなるような香りだ。持って帰って、いつまでも感じていたい香りだった。
「ほぅ……」
一口飲むと、その味わいは素晴らしいの一言に尽きた。おそらくコーヒーも素晴らしい味わいだろう。だが、それを飲む機会は、どうやらこれからもないようだ。
「そういえば、聞きましたか」
「何をでしょうか」
コーヒーやコバラーユを作るのに使った器具を、順次洗っている店員に、岩屋は声をかける。店員は、さきほどと声のトーンを一切変えずに、岩屋へと答える。
「なんでも奉執将軍が奉葎将軍へと攻めてくると言う話」
「ああ、つい先日、宣言をしていらっしゃったようですね」
「本当に出来ると思うか」
「さて、私には分かりかねます」
にこやかな顔を変えず、ただその双眸には何か冷たい光が射した。岩屋はそれを見たが、何か言うよりも先に女性が岩屋へと声をかける。
「貴方はできると思うの?」
「僕は彼なら出来ると思う」
「なぜ?」
店員は、静かになっている。どうやら話をしっかりと聞きたいようだ。
「彼は、奉執将軍を殺した男だろ。ならば、奉葎将軍だって殺してもおかしくない。そうは思わないかい」
「でも、奉葎将軍のところには、何重もの罠や、厳重な警戒網が敷かれているという話よ。それらを全て潜り抜けられると?」
「思うね。奉執将軍だって同様のものをしていたのだろうけど、それを突破しているのだから」
彼女は残ったコーヒーを一気に飲み干す。岩屋はさらに一口飲む。
「ごちそうさま」
彼女はどうやら聞きたいことを聞いたようだ。岩屋を置いて、さっさと店から出て行ってしまう。岩屋はそれを見届けてから、胸をなでおろした。どうやら岩屋を狙ってやってきたということではないらしい。つまり、まだ生き長らえることができると言うことを意味していたからだ。