50.
「……それは冗談か何かのつもりか?」
いぶかしむイグノートに、岩屋は普通に答える。岩屋は当然冗談を言うことはない。今の状態なら特にだ。岩屋は、敵と対しているのに、冗談なんて言えるような人では無かった。
「いや、冗談なわけがないだろ」
そう、確かにそれは本当のことだ。岩屋は嘘偽りなく、この目の前に居る、つい数分前までは見ず知らずの人間を奉葎将軍に引き上げると言うことを言っているのだ。イグノートは、文字通りに悩んだ。見も知らずの人を、そのような奉葎将軍という高位の上位に位置するような地位に載せると言うことがあるのだろうか。答えは一つ。それはありえないということだ。冗談ではないと言う、岩屋のその目を見る限り、本当に冗談ではない。だが、それならば、なぜそのような提案をしてくるのか。イグノートは悩んだ。
しばらく時間が経ち、イグノートは岩屋へという。その口は重く、今までのような雰囲気は見られない。これが最後の交渉だと、イグノートは分かっていたからだ。
「他に、奉葎将軍にふさわしい人材はいるだろう。なぜ俺なのだ。それに、見も知らずの人間を、奉葎将軍という高位に与えるのはどうしてだ」
今度は岩屋が悩む番だ。イグノートは明らかに警戒度を最高にまで上げている。顔から、表情から、その姿勢からして、誰が見ても明らかだ。たまに扉の方へ眼をやるのも、もしもの時の逃げ道を探しているようにしか見えない。外は誰もいないようだから、ここで逃げたとしても、だれにも見つからないだろう。とはいっても、岩屋はイグノートが逃げようとも、追いかけるつもりはなかった。逃げるのであれば、そのまま逃げてもらってもかまわないと思っている。罠なら、これからもどんどん出してくるだろうし、それらを全て撃破するだけの知恵や能力は、岩屋には備わっているからだ。
「別に、理由なんてないさ」
「なっ」
その話は、イグノートにとって、さらに訳が分からない答えだったようだ。驚きを隠そうともしない。岩屋は何を考えているのか。イグノートは、その心中を察することができなかった。見通そうにも、もはや何を考えているのか全く読み切れないのだ。それゆえに、これ以上、イグノートは何も言うことができなくなった。それを見て岩屋が言った。
「理由なんて言ったところで、どれも嘘っぽく聞こえるだろう。なら、最初から理由なんて言うのは無い方がいいんだ。しいて言えば、君が君だからだ」
「はっ、何を言っているのか全く分からんな」
イグノートは岩屋の言葉を聞いて、立ちあがった。岩屋は相変わらず座ったままだ。ジッとイグノートを見ている。
「行きたいならば、行けばいい。特に追いはしないよ」
岩屋は動こうとはしない。イグノートはそれを見てから、扉へと向かった。ちょうどイグノートが扉の取っ手に手をかけた時、ああ、と岩屋が声をかける。それが聞こえたのか、イグノートは動きを止めた。
「奉葎将軍の話は、今だけが有効だ。どうする」
イグノートは岩屋の話を、一瞬だけ考えた。それほど魅力的な提案であったからだ。岩屋は最後には奉葎将軍という将軍位をつぶしてしまうだろう。他の将軍にも同じように。だが、それまでは奉葎将軍として、独裁的な地位をふるうことができる。それは魅力だ。
それでも、イグノートは罠だという思いを捨てきることはできなかった。それゆえに、岩屋からの話を無視して、イグノートは部屋から出て行ってしまった。