13.
この里に岩屋が流れ着いてから1年が経った。それは短いような、長いような。そんな時間であった。岩屋が行う大川辺大学堂の授業は、徐々に噂が広がって行き、今では、近隣の集村だけでなく街村からも、授業を受けるためだけに、この里へ来る人がいるほどだ。
授業の内容は、古典物理学から、哲学思想、兵法、現代物理学、量子力学の基礎、その他岩屋が知っていることなら、なんでも教えた。そのうち、2部だけでは足りなくなっていたが、場所を変えず、席数を増やしたり、遠隔授業という形で、声だけを届けながら里の別の場所での同時授業などを始めた。まだカメラはないが、このままだと岩屋は作ってしまうだろう。
だが、そこまで授業をしていながらも、岩屋は研究も続けていた。元の世界に帰ることは、考えていなかった。妻はいないが、娘がいる。そのことが岩屋を未だこの里へつなぎとめている最大の要因であった。
それでもサザキについては、まだ分からないことがある。岩屋は午後の授業を終え、後片付けを手伝っているサザキを眺めながら考える。なぜ、サザキの両親と出会うことがないのか。なぜ、岩屋がこの里へ流れ着いたのか。そして、ここは死後の世界ではないのか。後ろ二つの質問に対して、答えることができる人は、ここには誰もいない。だが最初の質問については、ライタントが答えてくれたことがある。
「サザキは、森の向こうからやって来たんです」
ある日の晩、ライタントの家に呼ばれて、一緒に夕食を食べている岩屋は、サザキの両親について尋ねると、そんな答えがライタントから返って来た。
「森の向こうから?」
「ええ、流れてきて、たまたまこの里へたどり着いた。それが答えです。ただただ何かから逃げているといった様子で、それが何かからなのか、私にはさっぱりわかりませんでした」
ライタントは話しながらも、お箸を使い机の上にある小鉢から、里芋の煮っころがしをヒョイとつまみ、そのまま食べた。岩屋は、ライタントの次の言葉に注意を払っているが、炊きたての米を、一口づつ食べ進めている。
「しかしながら、サザキという名前は、どうやら本名のようです。保護した当時、私はサザキ、私はサザキと繰り返しつぶやいていましたから」
岩屋は、そうですかというのがやっとだった。それほど逃げたいと思ったのは、一体何からだったのだろうか。それは、まだわからない。サザキ自身に聞こうにも、かなり嫌な思い出を、わざわざ思い出させることはない。そう考えた岩屋は、結局、聞かないことにした。それが一番だと、自身に繰り返し言い聞かせながら。