指針
賃貸契約成立の数分後、オヤツで汚れた手を洗ってからトイレで用を済ませ、また手を洗った。
何をやっているんだか、俺は。
新たな同居人は手を洗わなかった。排水口の上に手をかざすと、付着していた油と砂糖とパン屑が手をすり抜けて落ちていった。
「電話借りるよー」
「どーぞ」
その間に着替えることにした。自室に向かう。
伝説少女は我が家に届いたダイレクトメールを右手に、受話器を左手に持って喋っている。
「もしもしー? 私、ナギーよ。いまねー……え? ううん男の子。触れないから大丈夫よー。知っているくせにー」
親にでも連絡しているのだろう。会って数日しか経っていない男子高校生の家に泊まり続ける、と電話で話すとは。親の顔が見てみたい、とは思わない。顔見知りの物の怪を増やしたくはない。
着替えを終えて戻ってみると、ナギーが受話器を置くところだった。
「これからどうするんだ。活動拠点がどうのこうのって話だったよな。何の活動?」
「トレーニングしたりパワースポットめぐりをしたりして、都市伝説力を高めるの。パワーアップね」
「げっ、まだ強くなる気か。もう十分だろ。すでにありえねーレベルになってるじゃないか。そもそも、何でそんなに強いんだ」
「超能力で戦う美少女のイメージなんて、もはや常識。生身の人間として実在しないことも、常識。……あ、ちょっとはいるかな。まあ、そーいうことだから、『核』と意志があれば自然と『都市伝説力』が流れ込んでくるの」
非常識な存在が不自然なことを言っている。
「その『都市伝説力』ってなんだ?」
何度も聞いた言葉だが、想像がつかない。
「うーん。霊能力の親戚? コトダマとか、念力とか、霊力の変種とかが集まって、集合的無意識の反対の集団幻想がどーのこーの、ってある人が言ってた」
どうにも要領を得ない。もっとも、最初から理屈でどうにかなるような世界ではなさそうだ。
「それで、高めてどうするんだ」
「一緒に……じゃなくて、えーと、世界制覇するのよ。シングルマッチで。都市伝説ワールドの世界大会があるの。最強決定戦。その優勝を目指してるの」
すごくどうでもよかった。
「よくある少年漫画みたいだな」
「別にいいじゃない。あなたも少年なんだから協力して。熱く燃え上がる話でしょ? あ、ペアとかダブルスとかタッグとかで、一緒にやりたいのね」
「ノーサンキュー。ファンの一人として生温かい目で見守りたいと思います」
「ファンなら熱い視線を送るべきです。変温ドーブツみたいな追っかけは一匹だけで十分」
一匹とはひどい言い様だ。
「ストーカーみたいな奴がいるのか」
俺に取り憑くストーカーがさらにストーキングされているとは思わなかった。
「そうよ。尻尾を掴まえて叩きのめしてやらないと。私を獲物にしようだなんて許せない。でも、すごく美味しそうに見えてるはずだから、仕方ないのかなあ」
変質者が相手だというのに、何だか呑気だ。
「ここまでそいつが来たら困るな」
「動きが遅いから、ここまで来るのはあと二、三日かな? 他はニブいくせにセンサーだけはよく働くんだから……。とにかく待ち構えて倒してしまいます。とゆーことで、これから待ち伏せ場所の下見に行ってくる」
まあ頑張ってくれ、と言って送り出した。
帰って来るまでの間、俺はオヤツの残りをフォークでのんびりと食うことにした。