霧
昨日の夢は長かった。
夢の中で家に帰って、晩飯を食い、ぼんやりとテレビを見て、適当に宿題を片付け、風呂に入った。それから夢の中であれは本当に夢だったのかどうか考えて、夢の中でなかなか眠れずに寝返りを何度も打ち、やがて夢の中で寝た。夢の中の夢のことは覚えていない。
さて、俺は何時間寝ていたのだろう?
その答えは考えないことにした。毎朝通学するときに通っていた道とは異なる道を歩いているからだ。ぼんやりしていると車に撥ねられる。とはいえ、あの道ならば車とは別のモノに撥ねられる――。いや、夢を気にするのは良くないが……それでも通りたくない。
校門に辿り着いた。
構内に入ると、喧しい声がする。
「ちゃんと鍵かけたのかお前ら!」
「かけたとゆーてるでしょうが! 何度同じこと言わせるんすか!」
朝練を終えたユニフォーム姿の野球部員たちが、着替えもせずに怒鳴りあっている。
俺のそばを通りかかった級友に尋ねた。
「何やってんだ、あいつら」
「備品が盗まれたんやと」
どうでもよかった。
「ああ、そうか」
いい加減に返事をした。級友が言う。
「宇宙人に盗まれたんやろ。UFOが着陸したらしいんや」
こいつもいい加減だ。
「宇宙人が野球するのかよ」
「知らへんかったのか? メジャーリーグの衛星放送の電波を宇宙で受信して、地球人の分析をしとるんやで」
「電波の話はやめてくれ」
不思議そうな顔をした級友を放って、教室に向かった。
代わり映えしない日常が再開――間違えた。今日も継続される。教師の声と、欠伸の音と、鳥の鳴き声の三重奏。少し遅れて、板書の音と、ノートを取る音がした。この学校の設備は古い。教室の右端後方、廊下側に位置する傷跡の多い座席で、そんなことを思った。
一時間目が始まって二十分ぐらいしてから、窓際の連中が何やら騒ぎ出した。
「なん……だと」
「何あれー?」
「えー、ウソー」
「ありえへん……」
「自動……輪……いや、……違う?」
「フルオー……の間に開発さ……」
「おい、そこ! 授業中やぞ!」
一様に窓の外を見下ろしている。俺のところからは見えない。ここが一階であれば見えたかもしれないが、生憎のところ二階だ。
教師の叱声は馬耳東風だったらしい。
さらに二十分後、いったん小さくなった窓際の音量が再び大きくなった。
「……えってきた」
「なにィ!」
「どこに運んどんやろうな」
「ええかげんにせえよ!」
学校に出前でも頼んだ奴がいるのか、こんな時間に。たしかにありえねーな。でも腹減りそうだな、俺。朝めし食ってないし。俺が頼みたい。金ないけど。
はあ……ブドウ糖不足ってやつか。頭も体もイマイチ気合が入らない。でもトーストは食いたくない。
五分後、窓際の連中がちらちらと外の様子をうかがった。
二時間目も三回ぐらいやっていた。
そんなに出前が欲しいのか。もう呼んでしまえばいいのに。机に頬杖を突いて寝かかりながら、連中を眺めていた。
三時間目のことは記憶に無い。いや、正確には居眠りを叱られた記憶だけがある。
四時間目、眠気はない。というより、腹が減って寝ていられない。早く終われ、終われ、終わるんだ、と念じながら、教師と腕時計を交互に凝視する。
俺の念力は凄かった。
前方に血まみれの生首が出たのだ。
日常が再び終わった。
生首は教室前側の戸の前に浮いている。ただ、他の奴は何の反応も示さない。俺だけ見えるということは、幻覚なんだろうか。
生首はあまり大きくない。赤く染まった髪の毛を振り乱して、生首がこちらを向いた。
あの顔だった。
俺の顔を確認してから、にんまりと笑った。
一瞬で行った予想通りに、首の主は体も持っていた。戸をすり抜けて教室の中に入ってくる。
教卓の横まで、この幽霊が歩いた。歩いてきたけれど、たぶん幽霊だろう。おっさん教師の顔をじろじろと眺め回している。
気づけよ、おっさん。米騒動が日本の食文化に与えた影響は、その最初の場所は、なんてやってる場合じゃないだろ?
幽霊少女が軽やかに教卓の上に飛び乗った。
両手を振りながら呼びかけてくる。
「みなさーん。見えますか~? 見える人がいたら手を挙げてくださーい」
この状況で手を挙げるバカはいない。素早く首と目を動かして皆の様子を見たところ、やはり俺の他に見えている奴はいないらしい。声が聞こえている奴もいないようだ。黙々と黒板の文字をノートに写している。俺以外は平常運転だ。
「ミステリアス転校生がやってきたんですよ~。……いないのかあ。残念」
反応が無いとわかると、とても残念な転校生は教卓から飛び降りて、笑顔でこちらに歩いてきた。
「しかし、この中に一人、実は見えている人がいます。正直に名乗り出なさい」
出たくない。実に出たくない。
さらに近づいてきた。
「……でないのね。転校生、すごく悲しいです」
わざわざ俺の目の前に来て言うのが嫌味だ。
俺は頭を抱え込んだ。何だか貧血になった気分だ。空腹とともに、ドス黒い血の記憶が甦る。
「おい久坂、大丈夫か。顔色悪いぞ」
教師が話しかけてきた。
「頭が痛いもので……。気分も良くないので、保健室行っていいですか?」
「一人で行けるか?」
「一人じゃないから痛いんです。あ、いや、大丈夫です」
教室を出て階段を降り、一階にある保健室に向かった。幽霊少女は、俺のすぐ後ろをトコトコと歩いている。
ノックをして保健室のドアを開け、中に身を滑りこませると、すぐに勢いよく閉めた。木同士がぶつかる音と、嵌めガラスが揺れる音とが響いた。
室内にいた保健の先生が口を尖らせる。
「もう、乱暴ね」
「あ、すいません」
「そーよ。ランボーよねー」
振り返ってはいけない。俺は前向きに生きるべきなんだ、前向きに。
「で、どうしたの?」
「気分が良くないんです」
「カワイイ子を前にして緊張しちゃったのかなー」
後ろだろうが。
「とりあえず、熱を測ってみようか。あまりなさそうなんだけどね」
先生は俺の額に手を当ててそう言ったあと、体温計を差し出した。先生の手は温かかった。
「脇に挟んで」
丸椅子に座り、細い電子機器を脇に挟んで一分後、音が鳴った。取り出そうとしたが動かない。気のせいか脇が熱い。三秒ほど引っ張って、取り出せた。すぐに先生に渡す。
「三十七度八分……?」
「え?」
「おかしいわね。予測式じゃなくて、ちゃんと測ってみましょう」
三分後、少し異なる音が体温計から鳴った。
「三十七度六分……。やっぱりあるわね。風邪かしら。口を開けて」
金属のヘラのようなもので俺の舌を抑え、ライトで喉の奥を照らしてくる。
「何かヘンねえ。喉も腫れていないし」
先生、病魔は多分、あなたの目の前にいます。ちゃんと症霊を調べて視て下さい。
「とにかく、ベッドで休んでいなさい。もうすぐ昼休みだし、担任の先生と相談してくるわね。何年何組?」
俺が氏名とクラスを教えると、先生は保健室を出て行った。
俺はすぐにベッドに入って、布団をかぶって身を丸めた。決意を新たにしなくては。今度こそ目を覚ます。
しかし、幽霊少女は決意もろとも俺の体を揺さぶってくる。顔が布団から出た。
「ねえ、もう行っちゃったから話しても怪しまれないよー」
「ああ、俺は夢を見ているんじゃなくて、幽霊に取り憑かれたのか。いや、幽霊に取り憑かれた夢だ。どこで寝ているんだろう、俺」
俺の口から独り言が出た。そう、これは独り言であるべきだ。そうでなくてはならないんだ。
「異議ありっ」
幽霊が申し立てた。
「異議を……認めざるを得ません。どうぞ。保健室では静粛に。死後は慎むように」
出来れば退廷を命じたい。
「一、私は幽霊ではありません。『都市伝説』です。と・し・で・ん・せ・つ。『都市伝説ナギー』として、セットで覚えましょう。二、私は取り憑いているわけではありません。シンクロです。狐憑きとは違います。逃げようとすれば逃げられます。逃がさないけど」
それを取り憑くと言う。
「ゴホン。続けます。三、あなたが寝ているのは学校の保健室です。他のどこでもありません。四、あなたは目を覚ましています。寝ているとは、睡眠の意味ではなく、横たわっているという意味です。以上で異議を終わります」
どうする? どうしよう。逃げ……られない。多分。戦う? ……どうやって? すり抜けたよな、扉。念仏……幽霊じゃないと言っている。いやハッタリかもしれない。やってみよう。
「ナムアミダブツ……、ナンミョーホーレンゲェー……」
小声で唱えた。
般若心経ってどんなんだ? いや、最後の希望、キリスト教だ。……十字架も聖書も無い。それに右の頬も左の頬も差し出したくない。拳相手にそれはきついぜジーザス。貴方にお会いするのはまだ早い。
「ん? 何か言った? まだ時間が要るの?」
駄目だ。念仏は効いてない。……どうしようもない。
「えー。では判決を下します。主文。俺はあきらめた。判決理由。一、加害者ナギーは、被害者久坂雅弘を殺害する機会と能力があった。よって、加害者に殺意は無い。二、加害者ナギーは、授業を妨害する機会と能力があったが、その能力が最大限に行使されたとは言い難い。よって、被害者の全生活を破壊する意図があるとは認められない。三、加害者ナギーと、被害者久坂雅弘との間には面識がある。今後、被害者が遁走することは不可能と見込まれる。また、加害者にはストーカー規制法が適用される見込みが無い。四、被害者久坂雅弘は、何らかの方法で並行世界に所在地を移転したものと思われる。よって、本件は夢ではなく、新世界における怪異である。以上」
さようなら、俺のふるさと現実世界。また会う日まで。
「う~ん、判決理由に一部不服があるけど、量刑にフマンは感じません。控訴はしないでおきましょう! あと次の裁判官は私ね」
次に『量刑』を食らうのは俺かい。何のバチが当たったんだ。『一部』が殺意でないことを祈る。
「ではおたずねします、裁判官殿。俺に一体何の用があるのでしょうか?」
とにかく、これを聞いてみることにした。
「用って……。伝説によれば、え~と。あれ? 『食パンの美少女』ってこのあと何をしたのかな……? あなた知ってる?」
「知るわけないだろ、そんなもの。自分のことだろ?」
「う~んと、そう、新たな学校生活を楽しみながら学校中の注目の的になって、それに嫉妬したイジメっ子に健気に立ち向かって、それをきっかけにイジメっ子の女の子と親友になるの」
イジメる側が命がけだな。それ以前に教師含めて総シカトだけど。
「それ、俺は必要ないだろ」
「えー、うーんと、まだまだ続きがあります。それからぶつかった少年と喧嘩しながら親密になって、それで二人は恋に落ちて、いろいろあった末に、最後には二人で心中……。う……これはちょっと。ここまで伝説をなぞるのは考えもの……」
「どうやったら最後そうなるんだ。サワヤカな思い出を残してまた転校して、少年の前から姿を消しました。ぐらいで終わってくれ」
得体の知れない伝説の少女が、少し考えこんだ。
「それでいーかー。甘酸っぱくて、ほろ苦くて、切なくて、いつまでも心にずしぃーーーーーーんっと残る思い出を残すと。うん、伝説っぽい。よし、これで行きましょう!」
どこがサワヤカなんだ。
「それでいつまで取り憑く気なんだよ。早めに終わってくれないかな」
「都市伝説力が入るまで、かな」
「はあ?」
戸が開いた。
「ええと、久坂君だったわね。もう帰った方がいいわ。寝ているときに何やらうわごとを言ってたみたいだし。荷物はこれ」
わざわざ鞄を持ってきてくれた。
「どうもありがとうございます……」
「歩ける?」
「大丈夫です」
鞄を持ってお辞儀をした。伝説少女が隣で先生に手を振っている。保健室を後にした。
「帰るか……」
「帰ろー」
廊下を二人で歩いた。
校門を二人で出た。
いつもの通学路を二人で歩く。俺が少し前を行く。取り立てて話すことはない。わけのわからない話をされるだけだ。通行人も怪しむ。
例の十字路に差し掛かった。
ここにはでかい陥没孔が……無い。三箇所に応急処置の盛り土がしてある。ガチガチに堅い。マンホールの蓋のようだ。
誰かが通報したか、苦情を言ったらしい。異世界の役所は仕事が早いな。こっちの親父とお袋の愚痴が減れば幸いだ。転勤が多いと役所関係の手続きも増える。
「お前は向こうだよな」
十字路の右を指差して言った。
「え? ああ、うん。そう、そうだよね」
「じゃあな」
返事がない。伝説少女は、じっと俺を見つめている。
「どうした?」
「明日も来るよね?」
妙に真面目な表情だ。
「学校があるからな。もうぶつかるなよ」
少女が頷いた。俺は再び歩き出した。
そして暫くしてから、振り返った。
まだそこにいた。手を振ってくる。
こちらも軽く振り返し、それから家に帰った。