海戦
自殺の手段は複数ある。
荒れた海に乗り出すことも、その一つ。
陸を離れてから後方を眺めると、この船の出発点である漁港のすぐ南隣に貨物港、少し北に東尋房の崖が見えた。崖からさらに北には、列車から降りたときの島がある。ここで海に落ちたら、崖と同じようにあの島に流れ着くのだろうか。
「はーい、観覧はそこまでー。撮影の準備に入ってくださーい!」
俺の前途に暗雲を立ち込めさせる、能天気な少女の声が聞こえた。
「あーはいはい。カメラスタンバイしまーす」
デジタルビデオカメラを取り出して、海を撮影する。
あるのはだだっ広い日本海だけ。波が高い。白いしぶきが跳ね上がっては海面に叩きつけられ、飛び散っては海原に呑まれる。
本来ならば、迫力ある映像になるはずだ。
しかし、ほとんど揺れていない船上から撮っているのでぶち壊しだろう。押し寄せる波は透明な壁に阻まれている。数メートル離れてこの船を取り囲んでいるバリアーは合成映像の境界線そのもので、リアリティ激減。ヘタクソな特撮のようだ。
「カァーット!」
撮影を中断する。
「一体なんだよ」
「もっといろんなアングルから撮ってください」
「断る。あれが映ったらどうするんだ。変なビデオになるぞ」
俺が親指で示した先には、船室屋上からロープで吊り下げられた少女がいる。この船に加護をもたらす『人柱』様だ。ロープの状態は語りたくない。服を着ていなければ、彼女はエロスの神様からも加護を受けることだろう。
「うーん、そうだね。でもアクセスを稼ぐにはそのほうが……でも、私の伝説にならないし……迷うなあ……。う~ん……」
「そんなところで迷うな」
「う、う~ん」
悩ましい声が、二重音声になった。
「あれー? もう起きちゃった?」
「うーん……あと五分。いえ、修行が嫌だということではありませんの。ホルモンの分泌を……」
目を覚ましたようだ。修羅場が始まる。
「はっ!? あいたたたた。何ですかこれはっ!? 降ろしなさいっ!」
「暴れると落ちるよー。落ちると荒れるよー。都市伝説『照る照る坊主』の効果が切れてもいいのー?」
吊るし上げた主犯が呑気に言った。人柱じゃないのかよ。
「わたくしは坊主じゃありませんっ!! 陰陽師ですっ!!」
「似たようなものだよね」
「覚えておきなさいっ! 式札の加工が間に合えば、まともなものを作れたのにっ……!」
目が開きすぎていて怖い。レーザーが出て船を焼き切るかもしれない。
「え、ええと今どのへんかなあ。俺、船長さんに聞いてくるよ」
目を合わせないようにして距離を置く。
ナギーが後をついてきた。放置プレイになった。
「鬱血しないか? あれ」
「コマメにちょっとずつ瀉血しておけば大丈夫よ。血の気も多いし」
増やしたのはお前だ。
この釣り船を操舵する漁師のおっさんに現在位置を尋ねると、三国港から西へ約三十キロ。まっすぐ南に行くと、小浜港に着くという。操舵室にあった地図によると、小浜から五、六十キロ真南に京都がある。
さらに航海が進む。照る照る陰陽師様のおかげで、順調だ。
「そろそろ降ろしましょう。二、三時間は持つはず」
降ろす相手のこめかみの動きを消してからにしてもらいたい。
降ろしてからロープの結び目を緩めた瞬間に、陰陽師アニーが縄を一気に振りほどいた。その勢いでロープが女王様のムチのように飛び、ナギーの頬をすり抜けた。
ナギーの頭を左右から両手でがっしりと掴んで、アニーが睨みつける。掴めるとはさすがだ。
「よくもやってくれましたわね。ご丁寧に恥ずかしい縛り方までして下さるとは」
「あ、アタマ痛いアタマ痛い。指食い込んでます。あれをやったのはこっち」
苦笑いしながら、ナギーが俺を指差して言った。
「おいこら! 縛ったのは俺じゃない」
「本当ですか?」
アニーが俺とナギーを交互に睨み続ける。
ナギーがすっとぼけた調子で言い出した。
「『記憶にない』。やっぱりマサヒロよ。秘書のマサヒロ。『ぜんぶ秘書が勝手にやった』のよ」
「だから俺のせいにするなって!」
まあ、こんな言い訳が通じるとも思えない。ただ、こいつの唇が赤く光っているのが何か不吉だ。気のせいか、喋るときに唇の間から赤い舌が二枚見えたような……。
「雅弘さん……。許しません!」
え?
「だから俺じゃないっ! 秘書でもな……」
首を絞めてくる細腕をつかんでも、振りほどけない。
おや、黒雲の隙間から見える青空が綺麗だなあ。俺の次の故郷になる世界はあそこか……。
「あ、死んじゃうよ」
「あら、わたくしとしたことが」
やっと解放された。わざとやってるんじゃないのか、二人とも。
「刑の執行も終わったし、準備に入りましょう!」
「そうですわね」
再審請求は受理されそうにない。
「わたくしは結界を張ります」
「私はお昼ごはんです」
落差が激しいな。
「出して」
ナップザックの中にビデオカメラを片付け、替わりにタッパーを取り出す。サランラップに包まれたサンドイッチが入っている。朝作ったものだ。箱ごと渡した。
「ここで食うのか」
甲板はまだ濡れている。
「雄大な海を見ながらの立食というのも、ワイルドな気分でいいものです。一緒に食べましょう、はい」
ナギーはサンドを一つを手に取って、俺に差し出した。受け取って包みを解く。
「貴女、本当に手伝う気ございますの?」
ナギーに向かってアニーが言った。少しイラッときたらしい。
「もちろん。エネルギー充填は必須です。あ、持ってきてないの?」
「ありますわよ。ごはんが胃にもたれるから頂かないだけです」
「ハラモチの良さが仇ね。こーゆーときは軽いものにしないといけません。はい、おすそ分け。友情に涙してください」
アニーは疑惑の目をナギーに向けていたが、結局サンドイッチを受け取って食べ始めた。
「う……」
アニーの目から猜疑の色が消えた。
涙が浮かぶ。
「辛っ! まったく貴女って人は」
それは俺だ。サンドでは辛口。マスタード・マイスター・マサヒロとでも呼んでくれ。口に物が入っているので、説明できないのが辛い。
「あれ、一個だけ? せっかくの手作り料理です。ちゃんと食べられる幸せを噛みしめないといけません。……具の味が……都市伝説力が薄くてあまり……」
「ふふふぉ。くぉのあふぃがわくぁるのはおりぇだふぇ……」
「食べてから喋って」
俺たちが昼食を取っている間に、アニーは準備作業に入ったようだ。船室の外壁に何枚もの札を貼り付けて、ぶつぶつと呪文を唱えている。
「んぐ……。俺も何かしなきゃまずいかな」
「出来ることないでしょ」
「まあそうなんだけど……」
無力というのは気分が悪いものだ。
「ごちそーさま。ねー、できたー?」
「まだですわよー。エンジンも護らないといけませんのー」
手持ち無沙汰のまま、五分ほどが経過した。
作業を終えたアニーが戻ってきた。彼女の手には双眼鏡がある。
「そろそろ見えますかしら」
持ってきた双眼鏡をさっそく覗いている。見ているのは船の前方正面だ。
来るのは何だろう。
超巨大なタコかイカ? それとも何十メートルもある人面魚? でも、それだと海中から一気に来るだろうから違うよな……。
「どう?」
ゆっくりと準備体操をしていたナギーが尋ねた。
「まだですわ。今の内に着替えておきましょう。戦闘用の衣装でないと霊気のノリがよろしくありませんの」
そう言うと、アニーは船室に歩いていった。
陰陽師の衣装といえば、平安時代の貴族のような服装が思い浮かぶ。時間がかかりそうだな。あの風呂敷包みに入ったのだろうか。
ところが、予想に反して三分ほどで戻ってきた。
着替えていない。羽織を脱いだだけだ。
「着替えるのやめたの?」
俺が尋ねた。
「もう済みましたわ。スパッツを穿くだけですもの」
「着替えってそれ? それで戦うの?」
イメージが壊れるな。それになぜスパッツで気合が入るのだろう。
「セーラー服は水兵の服ですのよ。むしろ、この場に相応しい衣装ではありませんこと?」
「だよねー」
セーラー服を着ていない戦闘員が同意した。
「お前はブレザーだろ。間違いなく場違いだ」
「そーでもないと思うよー。どっちの語源が都市伝説であっても、今の私にピッタリだと思います」
ブレザーの語源など知らないので、これ以上突っ込まないことにする。
アニーが再び双眼鏡で海の彼方を窺う。
「あ、来ましたわね……。あの船、帆の印……。情報どおりの典型ぶりですわ」
「都市伝説は典型的なほうが安定するからねー。つぎ私ね」
船で来た? しかも『帆』って。
双眼鏡をナギーに渡した後、アニーはブリッジに向かって両手の平を突き出した。合図を受けて船が停止した。
「うんうん、やっぱりアレね。はい、どうぞ」
順番が回ってきた。
覗く。
水平線上に複数の帆船が浮かんでいる。船首はこちらを向いている。波と風が強いのに、帆を高々と揚げているのが異様だ。都市伝説の列車が空気抵抗を受けないのだから、あの都市伝説船団も同様に風をすり抜けているのかもしれない。
船体は茶色。木造か。
帆は黒く染められている。そこに白抜きで模様が描かれている。白い丸の下にバツ印……じゃないな。骨だ。二本の骨。その上のは頭蓋骨。
これはまさに典型的な……。
「昔の海賊船だよな、あれ。カリブ海ってバミューダの三角形に近いのか」
「実際には何百キロも離れてるけど、イメージの上では同じかなあ。アメリカ生まれのネズミと魔法の国のアトラクションになるくらいだもの」
「アメリカ東海岸も海賊被害に遭っていましたのよ」
「一、二、三、四、五隻か」
「もう一隻いますわね」
「なぜわかる?」
「真ん中に見える船ほどこちらに近いでしょう? 三角形ですわ。見えている船の後ろにもいます。魚鱗の陣といいますの」
「これからどう戦うの?」
ナギーが尋ねた。
「白兵戦に持ち込みましょう。こちらは釣り船が一隻。撃ち合いではどうにもなりません」
「突っ込むのね」
「わたくしがこの船を守りますから、貴女はあちらの船に乗り込んで沈めていってください。いいですわね」
突撃するだって?
不安になったので質問する。
「ちょっと待った。あっちの船って大砲付き?」
「そうですわよ」
「それでも突撃?」
「小回りの利かない大船と大砲が相手ですもの、一気に近づいてすぐに離脱すれば大丈夫ですわ」
「銃や弓矢でうたれたら……」
蜂の巣にはされたくない。
「実弾ならともかく、気の弾なら用意した護符と結界で防げます」
「私は実弾相手のほうが楽なんだけどなー」
「そんなことを言っている場合ではございません。かなり近づいてきましたわよ」
肉眼で見える距離になった。
「雅弘さん、あなたはこれを持って船室近くの後甲板にいてください。後ろの見張りを頼みます。危険になったら船室に入ってください。都市伝説と都市伝説力をはじくようになっています」
双眼鏡を渡された。紐で首にかけておく。
「わかった」
「それと、念のために救命胴衣を着けてください。船室にありますわ。船長さんにも胴衣を着けていただくようにお伝え願えますか」
「了解」
駆け足で船室へ向かう。床は走っても滑らない程度にまで乾いている。
背中越しにナギーの声が聞こえる。
「あの結界、帰りは外してよねー。私まではじかれちゃう」
外した結界を借りたいところだ。無事に帰れたら。
前部キャビンで荷物を置き、操舵室に行く。船長を務める漁師の男は、前方にいる海賊船団を見ながら頭を掻いていた。
「結構いるなあ……」
用件を伝えた。
「ああ、胴衣ね。兄ちゃんも? ……ってことはあんたの方が助手の助手か」
頷いた。まさにその通り。いささか情けない。
「まあ、大人しく引っ込んでいようや。こういうものは本職に任せておくのが一番だ。それにしても、最近のお嬢さんがたは強いねえ」
「怖くないんですか」
「こんなんでビビッてちゃあ、海で仕事は出来ないよ。それにあんな連中がいた日には商売上がったりで、首をつる羽目になる」
俺は海の男じゃない。正直怖い。
二人で操舵室から前部キャビンに入り、箱の中にあったオレンジ色の胴衣を装着した。
しかし、胴衣を着け終わっても男はまだ舵を取りに戻らない。
「救助用ロープ、浮き輪、発炎筒、ちゃんとあるな。これでよし。無線も大丈夫……。そうだ、忘れてた。いざとなったら、それ使いな。お嬢さんがたからの差し入れだ」
胴衣が入っていたものとは別の箱を指差して、男が言った。段ボール箱が二つ重ねてある。
片方の蓋を開けて中を見ると、一・五リットルサイズのペットボトルが六本あった。
そのうち一本を箱から引き抜いた。中の黒い液体がわずかに揺れる。ラベルはカロリーゼロを謳うコーラのものだ。
「使うって、これを?」
飲むんだろうか。
「魔法の薬か何かが入っているんですか?」
「いいや、まだ入れてないそうだ。普通のコーラだって言ってたよ」
「まだ?」
「使うときには箱の奥にあるのを何個も入れろってさ。そんで化け物が近づいてきたら、そいつの顔に振りかけろって」
ダンボール箱を再び覗く。底に小さな円筒上の物体がいくつか転がっている。取り出してみると、見たことのあるお菓子だった。包み紙にはアルファベットのロゴが記されている。中身は丸い粒状のソフトキャンディだ。
これが魔法の薬?
包み紙を破って、一つを口に入れる。噛んでも甘味が口内に広がっていくだけ。他には何も起きない。やはりただのお菓子だ。釈然としないまま、残りをポケットに入れた。
甲板に出ると、船が発進した。
船首にナギーの後姿が見える。仁王立ちで腕を組んでいる。おそらく、悦に入った表情をしているだろう。
アニーは右舷側にいて、前方正面を指差したままブリッジに何度も振り返り、その度に頷いている。
速度がみるみる上がっていく。
「見張りは真ん中でいいのかー?」
叫んで尋ねた。
「左ですわー!」
返事を聞いて、後甲板の左舷側に陣取った。
海賊船の姿が大きくなってきた。こちらの倍以上の大きさがあることは間違いない。近づいてくるにつれ、高々と掲げた帆から圧迫感を受けるようになった。
正面から突っ込んでいるのに、大砲の弾は飛んでこない。不思議に思いつつ双眼鏡で見ると、すぐに疑問が解けた。こちら――すなわち正面を向いている大砲がなかった。船の横側についているらしい。
また、海賊船の帆がボロボロなのも見て取れた。二重の意味で風がすり抜けている。
船体も傷んでいる。亀裂がいくつか走っており、ところどころ黒ずんでいて、腐っているのかと思わせる有様だ。
ナギーが振り返った。右手を大きく振って叫ぶ。
「それじゃー行ってくるねー!」
「まだ跳んでも届かないだろー!」
「『右足が沈む前に左足を出して、左足が沈む前に右足を出せば』いけまーす!」
何かふざけたことを言い放ってから、ナギーが船首から右前方にジャンプして海に飛び込んだ。
「うわっとととととっ!」
無事に着水……していないようだ。
釣り船が左旋回を始める。
釣り船の右方向を見ると、海賊船の横っ腹が三つ見えた。大砲が並んでいる。甲板上に置いてあるのではなく、舷にある四角い窓から突き出ている格好だ。
轟音が鳴った。
そのすぐ後に、重いものが水に落ちるような、別の轟音が鳴った。
高い水しぶきが俺の数メートル手前で上がる。
宙を降下する白い泡が消え去ると紅一点、海上を走る赤毛の少女の姿が現れた。右端に見える海賊船に向かっている。
砲撃音が重ねて起き、それが繰り返される。
弾を発射するたびに海賊船では太い砲身が内側に下がり、海では扇形の波が高く上がる。激しい水しぶきは、全て釣り船の後方と少女の後方で生じている。
海賊船の姿が釣り船の右方から右後方、さらに後方正面へと変わった。少女ナギーの姿はもう見えない。いつのまにか右端の船からの砲撃は止んでいた。
残りの二隻がこちらに砲撃を加えてくる。
相変わらず命中しないが、とても安心できない。
砲撃をしなくなった右端の船のさらに右に、新手が現れたからだ。見えている三隻の後ろ、三角形の反対側にいた船だ。旋回して船首をこちらに向けてくる。
「追っ手が来るぞ!」
釣り船の前甲板に向かって叫んだ。
「数と方角は!」
「左後ろから! 一隻!」
こちらの方が速度がある。並走しながらの砲撃は無理だ。射程外になったのか、船団からの砲撃は止んでいる。
「わかりましたわっ!」
なぜか声が弾んでいる。
返事がしてすぐに、アニーが後甲板にやってきた。
「わたくしが迎え撃ちますから、貴方は船室に避難してください」
「迎え撃つって、どうやって」
こちらは大砲など積んでいない。
「わざと乗り込ませて格闘です。乗組員だけ始末しておきます」
釣り船が減速している。
「ここで戦うのか」
「ナギー一人ではバテますわ。ここで各個撃破しておけば楽です。負けることはありませんから、特等席でご覧になっていてください」
どこか嬉しそうにアニーが言った。
かなり強気だ。
こちらも各個撃破される形になっている気がするものの、指示に従うしかない。俺はど素人なのだから。
船室のドアを開けて中に入った。
すぐに扉を閉めたものの、またすぐに扉が開かれた。アニーが覗き込んでいる。
「少し開けておいても構いませんのよ? 結界用の札はドアではなく壁に貼っていますから。間近でご覧になったほうが、臨場感があっていいと思いますの」
「別に開けなくても」
「折角の機会ですのに。渡会流がどういうものなのか、お知りになりたくありませんの? ……お知りになりたいですわよねっ?」
何度閉めても開けてきそうだ。
「ああ言ってるんだし、いいんじゃねえかなあ、別に」
漁師のオッサンが口を挟んだ。
ここまで言われたら仕方ない。
「わかったよ」
「ではお楽しみくださいませ」
何を楽しめというのだろう。
格闘……? 試合じゃあるまいし。大体、陰陽師が格闘するというのも想像できない。太極拳あたりだろうか、陰陽師っぽいのは。そうでもないか……。それなら一体?
しかし、それを考えていられる時間はなくなっていた。
追ってきた海賊船がこの釣り船に接近――ではなく、隣接していた。釣り船の右側だ。朽ちた木の板で構成された、ゆるく湾曲している壁が窓から見える。距離は約五メートル。すでに双方停船している。
ガッ、と木に物が食い込むときの音がした。
続けざまにガガッと同じ音が連なり、俺達が乗っている釣り船が右舷側に少し傾いたあと、水平に戻った。
ドアが乱暴に閉められるような音もしたが、船室のドアは開いたまま。少しどころではなく、全開だ。
大丈夫なのか、これ。
気がつけば、頼みの陰陽師の姿が見えない。逃げたとは思えないが……。
足音と話し声が聞こえる。
「Hey, who……」
「There's nobody on deck……. Search the cabin……」
やばい、英語だ! 誰か字幕をつけてくれ! ……じゃなかった、隠れないと!
――ボケたせいで間に合わなかった。
入口に、ズタズタの服を纏った骸骨が立っていた。
骸骨の頭には、布が巻きつけられたような形の帽子。右手には、五十から六十センチぐらいの曲刀。身長は百八十センチ以上だ。白人の白骨か?
「Hallow!」
「ハ、ハロー。アー、アンドグッドバイ!」
奥へ逃げよう。意味がなさそうだけれど。
「FREEZE! Don't……」
「兄ちゃん、逃げなくていいよ!」
日本語モードに切り替わった! って声の方向が違う。これは漁師のオッサンの声だ。
「あれ。あれ」
操舵室からやってきたオッサンが、人差し指で入口方向をつつく。
振り返る。
奴は追って来ていなかった。
入口で気をつけをしたままだ。
奴の白い背骨が、腹のところで両腕もろとも二本の脚で背後から挟み込まれている。挟み込んでいる脚も白いが、こちらは肉も皮膚もついている。奴の後頭部は白い皮膚のある左手で前に押されていて、首には、セーラー服の長袖で覆われた右腕が背後から左回りに巻きついている。
「渡会流・胴締めスリーパーホールドッ!」
ゴキッ。と、鳴った。
頭蓋骨が床に落ちて、鈍い音を立てる。
それから背骨が両腕と一緒にちぎれて、バラバラと崩れ落ちていった。服まで真っ二つだ。
「あら、フックにロープがついていましたのに。手が届きませんでしたか」
交差した脚を元に戻し、反転して着地した陰陽師が、その足下に散らばる骨を見ながら言った。
陰陽師だよね? それに女子高生だよね?
「What gives! ……Hey you!」
倒されたものと同じぐらいに大柄な骸骨が、彼女の前に立ちふさがった。服装も装備も同じだ。
陰陽師アニーはすかさず骸骨の広がった大股をスライディングでくぐり、背後を取ると、相手の右腕を引っ張って自身の左脇に抱え込んだ。背中合わせになっている。
「渡会流・脇固めッ!」
「GYYYYYYYYYYY!?」
曲刀を握ったまま、二体目の骸骨の右腕がカラーンと高い音を立て、床に落ちた。骨と曲刀のどちらの音が鳴ったのかは判らない。
骸骨の眼窩が、右肱から先のスッキリとした空間を穴の開くほど見つめる。
その顔に、右の裏拳が命中した。
大きな破片が四散する。
二体目もまた、頭部を失って崩れ落ちた。
倒された化け物は赤い粒子に変わり、空気の中に溶けていった。一体目の骨はとっくに消えている。
「カルシウムが足りませんわね。お日様に十分当たらないからですわ」
「ほー。やっぱり強いねえ」
「そ、そうですね」
一体目を倒すときに何かカタカナ系統の技の名前を叫んでいた気もするけど、聞き間違いだろう。『第六十六式・無双霧刃折り』みたいな、古武術の技だったのだ。
「この脆さなら武器を封じるまでもありません。一気に片をつけますから、見逃さないようにしてくださいまし」
「じゃあ見物させてもらおうかな」
漁師はタバコを咥えてそれに火をつけた。別の一本をこちらに差し出してくる。
「兄ちゃんは?」
首を横に振る。
アニーが外で戦い始めた。複数の大声が入り乱れている。英語の中身は聞き取れない。
「あっちで見ようや」
ドアを閉め、前部キャビンに二人で移動した。
目の前で戦闘しているというのに、オッサンがわざわざ窓を開けた。
「こっちも開けていいんだよなー?」
オッサンがアニーに尋ねた。
「いいですわよー。おっと」
斜めに振り下ろされた曲刀をかわしながら、アニーが右の正拳突きの構えを取った。
ナギーのように拳で攻撃――。
「渡会流・アイアンクロー!」
――じゃなかった。
右手の五本の指全てから鮮やかな緑色の霊気を伸ばして、海賊の亡霊の頭を握りつぶしている。
アイアン……いや、これは『第五式・雷斬空裂掌』だ。多分そういう技だ。
「渡会流・ヘッドロック!」
亡霊の頭を右脇に挟んで締め潰した。これは第六式のえーと、何だろう。
「渡会流コブラツイスト……は面倒ですわね」
これは『第九十九式・蛟竜槌』。そうに違いない。乱戦でうまく聞き取れないだけで、そう言っているんだ。
それに相手は沢山いるんだ。これから陰陽師っぽい技を繰り出してゆくはず。
例えば、相手が仰向きになるように首の後ろと両肩で担いで、顎と腿を掴んで背骨折りとか……。
「渡会流! アルゼンチン・バアァックブリィカアァーーーーーー!!! ですわー!」
……現実を見つめよう。
強いなあ、プロレス。
「豪儀だねえ。お、また来たぜ」
木の板を亡霊の援軍が渡ってくる。タラップとなっている板は、海賊船の舷に開いた四角い窓から出されている。大砲は引っ込めることができるらしい。
援軍の先頭に向かってアニーが飛びかかった。
「渡会流・真空飛び膝蹴りいいいっ!」
叫び声と同時にボキバキバキッと三回、海上に音が響いて、海賊船の側面に円い穴が開いた。
弾はもちろん、蹴られた奴。
意外とカルシウムがあったのか、それとも相手の船が脆いのか。
何だ、見た目がまともな技もあるんだな、と少し安心する。これ以上現実感を失いたくない。海賊船の穴から小さく見える彼方の空は灰色だ。早く晴れるといいなあ。
「まとめて蹴散らしますわっ! 渡会流・ダブルラリアットォッッ!」
「ハハハ、両腕で蹴散らしてるよ。おっと灰皿灰皿」
「ハハハ……」
骸骨一体を残して、乗り込んできた集団がことごとく粉砕された。
足をバタつかせる骸骨を羽交い絞めにしたまま、アニーが後ろ向きで俺と漁師のオッサンのもとに歩いてくる。
「一回だけ、よろしいですかしら? 一回だけ! ドラゴンスープレックス一回だけですから」
「ダメダメ。向こうでやってくれよ」
「残念ですわねえ、近くだと迫力が段違いですのに……。それでは行って参りますわ。とうっ!」
掛け声を残して高くジャンプしたかと思うと、一人と一体は二隻をまたぐ板の橋の上に着地し、さらに板を折りつつ大きくジャンプして、海賊船の甲板上に消えていった。足に何か仕込んであるのか、その超躍。
二回目の着地は頭からだったらしく、ドコォォォーーーーーーンと、大砲が直撃したような音がした。赤い煙も上がった。大船が激しく揺れている。
「いくら化け物退治だからって、この船であんな投げ技なんかされちゃたまんねえよなあ」
「ですよねえ」
釣り船の上は平和になった。
海賊船の上は戦場になった。海賊たるもの、海の上で逝けて本望だろう。
叫喚が敵船の甲板中央から前方、前方から後方へと移動する。それに合わせて、海賊船から仕掛けられた鉤縄が根元から切られていった。
技の叫び声が再び聞こえる。
「渡会流・垂直落下式D・D・Tィィィッ!」
衝撃音とともに、海賊船の後ろ三分の一ほどに大きな亀裂が走り、割れた。
赤い粉塵が舞い上がる中、船体が傾く。マストも当然傾く。
粉塵があらかた落ちたとき、その傾いた柱の上にアニーが立っていた。
右腕を失った亡霊を右肩の上に担いでいる。骸骨なのはこれまでと同じだが、服装が違う。黒い眼帯と黒い三角帽。海賊の船長仕様としてお馴染みのものだ。
天を仰いで何事かをわめく海賊船長を抱えたまま、海面に対し四十五度に傾いたマストの上をアニーが走る。向かう先は、やはり四十五度になった海賊船の甲板。
「渡会流・雪崩式ランニングパワーボムゥゥッッッ!」
とどめの爆撃を受けて、海賊船は粉微塵に大破した。