嵐の前の嵐
※この物語は都市伝説です。実在の人物、地名、団体、商品、歴史、自然法則等とは、一切関係ありません。
「よひっ。タヒミンフぶぁっふぃりひょっ!」
という、落ち着きと愛嬌のバランスがとれた質の声……らしきものが十字路の右から聞こえた。
そちらを向くと、何かを咥えた制服ブレザー姿の女の子が迫ってくる。
その子の身長と移動距離に対して、足の回転数がひどく少ない。走るというより、低い姿勢で跳んで来る感じだ。
目が合った。
真っ直ぐに俺の瞳の中央を捉えている。距離は五メートルほど、時間は一秒に満たない。
彼女はすぐに視界から消えた。
それと同時に、俺の右脇腹に強い衝撃が走る。
体があっという間もなく宙に浮く。
俺は空中で横倒しに十回転サルコウ・スピンを決めて、背中から着地した。頭もしたたかに打った。技術点三〇〇、減点二。
自分の姿は見えてないし、サルコウが何なのかよく知らないけど、そんなところだろう。
地面と少し赤みがかった空が目前で切り替わること、約二十回。回転数は合っているはずだ。点数の基準は知らない。適当だ。あってたまるかこんなものに。
朦朧とした意識の中で目に映った腕の時計は、午後五時三十分を示している。
これが俺の死亡時刻だ。
……視界が鮮明になってきた。
ここは天国か地獄か三途の川か。
前を見ると、地面が左に、空が右にある。地面には学生カバンが貼り付いている。教科書とノートがぶら下がっている。すなわちここは地上。
よし、まだ生きてる。
でもいてえええええええ。動けん。しかも吐き気が。
「グボッ」
血を吐いた。
よかったゲロじゃなくて。いや良くない。内臓を傷めすぎだ。腰の激痛も治まらない。女の子とぶつかった箇所は痺れていて、被害の程度がわからない。
女物の靴が目前に現れた。
ヒールが高くなっていない、学生用のものだ。そこからは途中までが靴下に包まれた白く細い足が伸びている。この人物に言うべきことは一つしかない。
「救急車、救急車を頼む……」
やっとのことでこれを言った。
だが返答が無い。通りがかりに事故現場に遭遇して、気が動転しているのだろうか。
視線を移して靴の主の顔を見上げると――。
食事中だった。サンドイッチ……にしては奇妙な、二つ切りにも四つ切りにもしていない、耳のついた食パンを齧っている。しかも食パンの四辺にはすべて齧ったあとがついていて、耳はボロボロだ。
顔は……よく見えない。頭を起こしているのは苦痛だ。ただ、どうにか見ることができた二重瞼の目には覚えがあった。ぶつかってきた少女のものだ。間違いない。これだけの衝撃のはずなのに、コイツはなぜ無事なんだ――?
少女は、廊下で走っていたら花瓶にぶつかり、それを落として割ってしまった、という目つきで俺を眺めている。重傷者を見ているものとはとても思えない。誰かを呼びに行ったり携帯電話を取り出したりする素振りは無い。どういうことなんだ。
やがて少女は小さくなった食パンを頬張り、一気に飲み込んでから、口を開いた。
「しょうがないなあ。治してあげるからじっとして」
少女は俺の側にかがむと、その体のどこにあるのかわからない強い力で、手刀を鋭く俺の右脇腹に刺し込んだ。
……トドメかよ! 深い傷から真っ赤なせんけ……じゃないな。ドス黒い血が大量に吹き出していく。いや待て、俺は何を余裕で脳内実況しているんだ。死にそうなのに。
少女が再び口を開く。
「もういいでしょ。起きなさい」
気軽な口調だ。
「起きれるかっ!」
俺は怒りのあまり、立ち上がって怒鳴った。
……治っている。
傷口はどこにも見当たらない。痛みも痺れも無い。怪我は幻覚だったのか? だがあの痛みは妙に生々しかった。地面に血痕もある。俺のもののはずだが……。
「ふっ。これが都市伝説『汎用性瀉血』。どんな病気や怪我も、『悪い血』と一緒に追い出せばイチコロ。何度も使えないのが欠点ね。次は死ぬから気をつけて」
余裕綽々で、わけのわからないことを言う。
「トシデン半妖精射ケツ……? それはともかく、気をつけるのはお前の方だ! 急に飛び出して来て! ……いや、あのときの目は……。お前、狙ってやっただろ!?」
「もっと血の気を抜いた方がよかったかなあ。偶然よ、偶然。た・ま・た・ま」
よく言えば人懐っこい、悪く言えば馴れ馴れしい感じで、少女が少し下から顔を近づけて言った。俺の身長が百七十一だから、この少女の身長は百五十七、いや八センチぐらいだろうか。愛らしい顔立ちなのだが、反省の色が全く無いので腹が立つ。悪戯っぽさすらある。
「うそくせーな。本当はスリかひったくりじゃないのか」
教科書とノートとその他の物を拾って鞄に押し込む。今のところ、財布も時計――安物だけど――も無事のようだ。
「ケチな犯罪者扱いとは失礼ねー。それも古くさそーな手口の。もう一度言うからね」
そう言いながら、この少女は右拳を腰に引いて構えた。なぜ構える?
「た」
言葉と同時に、拳が地面に打ち下ろされた。重低音とともに敷石が砕け散って、歩道に陥没ができた。
「ま」
同様の陥没が、一撃目の陥没の隣に出来あがった。
「た」
もう考えたくない。怖い。不可解だ。
「ま」
最後の一撃は地面を打たず、俺の顔面めがけて飛んできて、鼻先一センチで止まった。
「わかった?」
無邪気におっしゃる。
「はい、よくわかりましたっ。縮み上がるぐらいに! タマタマですよね!?」
つまり、やっぱりというか、俺はずっと続けて夢を見ているんだな。悪夢なのがとっても残念。リアルすぎなのがさらに残念。誰か起こして。
「うんうん、そのとーり。それじゃ復習。あなたは『登校中に食パンを咥えて走ってきた美少女と、偶然ぶつかった』。オーケー?」
秋の夕陽を浴びて輝く赤毛でロングの髪を風になびかせて、少女が寝言を言った。寝ているのは俺のはずだが。とにかく、登校中と、食パンと、美少女と、偶然ぶつかったという箇所に問題がある。要するに、ほぼ全部。
「異議ありっ」
「異議は却下しますっ……といいたいけれど、あえて聞いてあげましょう! 私は寛容だから。この拳に誓ってもいいよ」
右拳で左の手の平を軽く叩きつつ、少女が宣言した。異議事項が三つ増えた気がする。それとも四つかな?
「えーとまずは……と。今は下校中なんだけど」
「これから登校すればいいじゃない」
何を言っているんだ。だが、本能がコイツには逆らうなと告げている。
「なぜ食パンを?」
「それが都市伝説だから」
また増えた。
「美少女って?」
「もちろん、わ・た・し。事実を簡潔かつ客観的に述べた的確な表現です」
それはそうだが、問題はそこじゃない。
「自分で言うの?」
「ではあなたが言いなさい」
偶然……はヤバい。顔面に穴が開く。
「なんであの食パン、ボロボロだったんだ?」
「だってなかなかアタリが来ないんだもの。朝からやってたのに」
「朝からかよ。何人殺ったんだ。それに何だアタリって」
「波長がバッチリ合う人のことよ。シンクロに成功すれば私の姿も見えるし、声も聞こえるの。あなたの方から私に触るのは無理だけど。ちなみにあなたは合格、祝ってあげます。オメデトー!」
波長って……。
やっぱりデンパさんか。さて、逃げる準備でもしよう。本当は目を覚ましたい。
「えー、どうもアリガトー! それじゃ、用事があるのでこのへんで。またどこかでお会いしましょう」
「待って! 名前は?」
「名乗るほどのものじゃ……」
「明日もやろうかな~。学校の場所はわかってるし~、顔も覚えてるから~、明日は朝夕二回、ピンポイントで『偶然』スマッシュヒットしちゃうかもな~」
「久坂雅弘ですっ。ものすごくお手柔らかにおねがいしますっ」
俺は悪魔に名を売った。
「いえいえ、こちらこそ~」
少女が俺の両手を取って、自分の両手で包み込んだ。
う……悪魔の誘惑か。手の外側からでも十分伝わるこの柔らかさと温かさ。内柔外剛の極みだ、この手は。
「私は、え……っと、ナギーって呼んでね」
「ナギー? 変な名前だな。渾名?」
「伝説の名前よ。海に関係があるの」
ナギー。海。凪のことか。女の子の名前ならありうるな。伝説の名前というほどのものじゃないけど。
「へぇ~」
適当に相槌を打っておく。そろそろ、また切り出せるかな?
「じゃ、また明日会いましょう。ナギーさん」
「そうね。明日また会えるしね。詳しいことはそのときに。あと呼び捨てでいいよ」
大丈夫、明日からはこの夢は見ない。永久にさようならだ。ごきげんよう。
「えーそれならさよーなら。ナギー」
「バイバ~イ」
俺は手を振ってから、いつもの通学路を歩き出した。俺のほかには誰もいなかった。
そして暫くしてから、『ナギー』が追ってきていないかを確認した。
気配はどこにもない。
遠くの舗道に、直径五十センチほどの陥没孔が三つあるだけだ。
ああ、なんだかひどく疲れた。
早く家に帰って、ベッドの中で目を覚まそう。