色のゆくえ
三年後の春。 東京の街は、桜色に染まっていた。
診療所の小さな前庭では、一昨年植えた桜の木が、初めて本格的に花を咲かせていた。ほんの数輪だが、その淡いピンクが、朝日に照らされて透き通るように輝いている。
私は、木製の札に『本日休診』と丁寧に書き、ドアの脇に掛けた。今日は、特別な日だ。私たちは、花見に出かけることにした。
岬が、診療所の中から出てきた。彼女は、淡い桜色の小紋の着物を着ている。先月、二十歳の誕生日に私が贈ったものだ。帯は薄い水色。髪は少しだけ結い上げ、桜の花簪をさしている。普段の診療所での姿とはまた違う、どこか古風で可憐な佇まい。
「おはようございます、尚さん。準備できました」
彼女は、少し照れくさそうに微笑む。この着物姿になるのは、実質的に初めてだった。少し歩きづらそうだが、目は嬉しそうに輝いている。
「おはよう。似合ってるよ」
「ありがとうございます。でも、少し、歩くのが心配です」
「大丈夫、ゆっくり歩こう」
私たちは、手を繋ぎ、駅へと向かった。道行く人々が、ちらりと岬の着物姿を見て、かすかに微笑んだ。春の一日、着物の女性はどこか絵になる。
電車の中からも、窓の外には、あちこちに桜が咲いているのが見えた。公園、川辺、寺社、そして住宅街の小さな庭先にも。ピンクの雲が、街の至るところに浮かんでいるようだ。
上野公園は、予想通り、人で埋め尽くされていた。
しかし、人々の表情に、以前のような喧噪や焦りはない。皆、穏やかな笑顔で、家族や友人と話し、花を見上げ、弁当を広げている。ピンクの花びらが、ゆらゆらと舞い落ち、人々の髪や肩に積もる。それをそっとはらう仕草も、どこか慈しみに満ちている。
私たちは、比較的空いている西側のエリアを見つけ、ブルーシートを敷いた。岬が、手作りの桜餅とお茶を取り出す。彼女が昨日、夜遅くまで作っていたものだ。
「初めて作ったので、うまくいっているかわかりませんが……」
彼女は、心配そうに箱を開ける。中には、きれいなピンク色に染まった桜餅が、十個ほど並んでいる。
「綺麗にできてるよ」
「ありがとうございます」
私たちは、桜餅を食べながら、花見を楽しんだ。頭上では、桜の枝が風に揺れ、時折、花びらのシャワーが降り注ぐ。そのたびに、周囲から歓声や笑い声が上がる。
その時、見知らぬ声がした。
「おや、尚さん、岬さん。お久しぶりです」
振り返ると、そこには、遠藤結衣と、彼女の夫となった冬月宗一郎が立っていた。結衣の腹部は、明らかに膨らんでいる。妊娠六ヶ月くらいだろうか。彼女の手は、自然にその膨らみを撫でている。表情は、深い安らぎに満ちていた。
「結衣さん、お久しぶりです。それに、宗一郎さんも」
私は立ち上がり、軽く会釈する。岬も、慌てて立ち上がろうとするが、着物の裾が絡まり、よろめく。宗一郎が、そっと手を貸す。
「お気をつけて。今日は、おめかししてらっしゃいますね」
「はい……今日は、特別な日なので」
宗一郎は、岬の着物姿を一目見て、深くうなずいた。何かを理解したような、優しい眼差しだ。
結衣が、そっと自分の腹部に手を当てながら、言った。
「この子にも、もんろさんの話をしてあげようと思います。どんなに美しく、強く、優しい人がいたのか。そして、私たちが今、こうして色あふれる世界で生きていられるのは、彼女のおかげだということを」
その言葉に、岬の目が、かすかに潤む。彼女は、うつむき、深く息を吸う。
宗一郎が、岬に語りかける。声は、かつての厳しさはなく、深い慈愛に満ちている。
「あなたが誰であろうと、あなたが今ここにいることを、私たちは歓迎します。過去は過去。今、あなたがこの世界にいて、この春の日を共に過ごしている。それだけで十分です」
岬は、顔を上げ、二人を見つめる。そして、深く、丁寧にお辞儀をする。
「ありがとうございます。心から、ありがとうございます」
結衣は、微笑みながらうなずき、そっと夫の腕に手を添える。二人は、「では、お邪魔しました」と軽く会釈し、ゆっくりと歩き去っていく。その背中は、新たな命を育む希望に満ちていた。
一陣の風が吹き、桜の木々を激しく揺らした。
すると、無数の花びらが、一斉に舞い落ちた。桜吹雪だ。ピンクの雪が、空を埋め尽くし、ゆらゆらと地上へと降り注ぐ。
岬は、思わず顔を上げ、目を閉じた。花びらが彼女の頬、まつげ、唇に触れ、そっと滑り落ちる。彼女の顔に、深い安らぎと、どこか懐かしさを帯びた微笑みが浮かぶ。
私は、その姿を見つめながら、ふっともんろが光の粒へと消えていったあの夜を思い出した。あの時も、無数の金色の光の粒が、雪のように舞い、空へと昇っていった。美しく、しかし痛いほど儚い光景だった。
だが、今、目の前で舞うのは、本物の花びらだ。触れれば柔らかく、匂えば微かに香り、温度は春の陽だまりのように温かい。もんろが最後に望んだ、「本当の世界」の一部だ。
岬が目を開ける。そして、私を見つめる。その目には、花びらが一枚、涙のようにとまっている。
「きれい……ですね」
「ああ、本当に」
彼女は、肩に積もった花びらを、そっとはらう。そして、私の手を取る。その手のひらは、温かい。
その時、公園内の放送スピーカーから、かすかなメロディが流れ出した。
最初は、何の曲かわからなかった。が、すぐに気づいた。もんろのデビュー曲、『心做し』のインストゥルメンタル・バージョンだ。春の特別プログラムの一環だろう。
メロディが流れると、周囲のざわめきが、少しずつ静まっていく。人々が話をやめ、空を見上げ、あるいは目を閉じる。あの曲は、もんろの歌の中で最もポピュラーであり、多くの人にとって、特別な思い出と結びついていた。
そして、サビの部分──。
岬の唇が、かすかに動いた。無意識に。彼女は、そのメロディに合わせて、ほんのつぶやくように歌い始めた。声はとても小さい。が、その音程、ビブラート、息継ぎが、もんろの歌い方に、完璧に一致している。
『──あなたに会えて、良かった──』
彼女は、自分が歌っていることに気づき、はっとしたように口を閉じる。私を見て、申し訳なさそうにうつむく。
「ごめん……なんとなく……」
私は、首を振る。そして、彼女の手を、そっと握りしめる。
「そのままでいい。気にしなくていい」
彼女は、少し考えてから、ゆっくりとうなずいた。そして、もう一度、顔を上げ、流れるメロディに耳を傾ける。
今度は、意識的に。でも、無理にではなく、自然に。声は、まだ小さい。が、確かに、もんろの歌声と、ぴたりと重なるようにして、紡ぎ出される。
公園にいる何人かの人々も、口ずさみ始めた。年配の女性、若いカップル、子どもたち。一人、また一人と。もんろの声はない。が、彼女が遺したメロディと歌詞が、多くの人の心の中で、静かに共鳴する。
岬の歌声と、もんろの歌声(人々の記憶の中の)が、時空を超えて重なり合う。それは、オーヴァーラップではなく、受け継ぎだ。もんろが紡いだ情感が、岬という新しい器を通して、再びこの世界に優しく響く。
一曲が終わると、公園には、深い静寂が流れた。そして、自然に、拍手がわき起こる。誰が始めたわけでもない。ただ、その美しい瞬間を共有できたことへの、感謝の拍手だ。
岬は、少し恥ずかしそうに、私の後ろに隠れるようにする。が、その耳たぶは、嬉しそうに赤らんでいる。
黄昏時、私たちは診療所へと帰路についた。
一日の疲れか、岬は電車の中で、私の肩にもたれかかり、うとうとしていた。夕日が、彼女の着物の桜色を、より深い黄金色に染めている。
診療所に戻り、ドアを開ける。いつもの静かな空気が、私たちを包む。
ふと、窓辺のイチゴの鉢に目が行く。あの、真っ赤になりつつあった実が、完全に熟し、つやつやと輝いている。夕日の光を受けて、小さな宝石のようだ。
岬もそれに気づき、そっと近づく。
「ついに……熟しましたね」
「ああ。そろそろ、食べ頃だ」
私は、そっとその実を摘み取る。まだ温かい。二人でキッチンへ行き、丁寧に洗う。そして、小さな皿に載せる。
「いただきます」
二人で、同時に口に運ぶ。歯を立てる。
甘くて、少し酸っぱい。
あの夜のもんろの味。色彩塔での約束の味。そして、今、二人で育て、待ち、分かち合う、まったく新しい味。
岬は、目を閉じ、ゆっくりと味わっている。そして、ふと、目を開ける。その目は、深い決意に輝いている。
「尚さん」
「ん?」
「私……歌いたいです」
その宣言に、私は少し驚く。彼女は、これまでも小さく歌ってはいた。が、このような強い意思を持って宣言するのは初めてだ。
「もんろの歌じゃない、私の歌を」
その言葉に、胸が熱くなる。彼女は、ついに、自分の道を見つけたのだ。
「いいね。どんな歌?」
彼女は、しばらく考え込む。目を細め、遠くを見つめるような表情で。
「まだ……わからない。曲も、詞も」
彼女は、そっと自分の胸に手を当てる。
「でも、きっと……『ありがとう』から始まる歌。もんろさんに、この世界に、色に、そして……あなたに、ありがとう、から始まる歌」
その言葉に、私は、ただ深くうなずく。言葉はいらない。
窓の外では、すっかり夜が訪れ、星がちらほらと瞬き始めていた。東京の街の灯りが、一つ一つ灯り、無数の色の宝石箱のようだ。遠くに見える色彩塔も、優しいもんろ色に輝いている。
私は、診療所の小さなオーディオシステムのスイッチを入れた。もんろの古いアルバムが、かすかな音量で流れ始める。デビュー前の、未発表に近いデモテープのようなものだ。彼女の、まだ力不足だが、ひたむきな歌声。
岬は、そのメロディに合わせて、そっと体を揺らし始める。目を閉じて。そして、口ずさむ。が、今度は、もんろの歌詞ではなく、自分で即興的に紡ぎ出す言葉だ。旋律も、少しずつ、もんろのものから離れ、彼女自身のものへと変わっていく。
『……ありがとう……風に乗って……来た花びら……』
『……ありがとう……温もりを……くれた手のひら……』
『……ありがとう……色を教えて……くれた世界……』
言葉は断片的で、メロディも定まっていない。が、そこには、紛れもない彼女自身の情感が込められている。もんろの悲しみや重荷ではなく、彼女が今、この瞬間に感じている、静かな感謝と喜び。
私は、彼女の横顔を見つめる。桜の花簪が、ほのかに揺れている。その顔は、もんろとは何一つ似ていない。丸く優しい輪郭。ぱっちりとした目。少し緊張した口元。
しかし、その顔には、深い安らぎと、確かな幸福感が浮かんでいる。もんろが最後に望んだ、あの「普通の幸せ」を、彼女は今、確かに生きている。
私は、そっと彼女に近づき、その肩に手を置く。彼女は、歌をやめ、目を開けて私を見る。
そして、私は、静かに、しかし確かな声で言った。
「おかえり」
一呼吸。
「そして……これからもよろしく」
岬の目に、涙が一瞬浮かぶ。が、彼女は、それをこらえ、深く、深くうなずく。
「はい。よろしくお願いします、尚さん」
その時、一陣の風が、まだ閉め切っていなかったドアの隙間から吹き込み、室内に舞い込んだ。幾枚かの桜の花びらが、ひらり、ひらりと。一枚が、岬の肩に、そっととまった。
彼女は、その花びらに気づき、そっとはらう。そして、私の手を握りしめる。その手のひらは、確かな温もりに満ちている。
窓の外では、夜の東京が、無数の色の光で輝き続けている。世界は、まだまだ完璧ではない。悲しみも、痛みも、理不尽も、これからもたくさんあるだろう。
でも、少なくとも、色はある。それぞれの色に、それぞれの物語がある。愛する人と分かち合える、温かな時間がある。
そして、その色には、今、確かな名前がついた。
赫映もんろという、一人の少女が、千年分の借りを返し、世界に残した色。そして、岬という、もう一人の少女が、その色あふれる世界で、ゆっくりと紡ぎ始める、新たな物語の色。
オーディオからは、もんろの歌声が、かすかに流れ続けている。岬は、私の手を握ったまま、そのメロディに合わせて、また小さく口ずさみ始めた。今度は、完全に彼女だけの、まだ形にならない、しかし確かに彼女のものとなる歌。
私は、彼女のその歌声を、そっと聞きながら、思った。
ゆっくりでいい。長い旅路は、ほんの始まりに過ぎない。これからも、きっとたくさんの悲しみと、たくさんの喜びが待っている。
でも、それでいい。彼女と一緒なら、どんな色も、ちゃんと味わっていける。一歩ずつ、ゆっくりと。
風が再び吹き、桜の花びらが、診療所の床の上で、かすかに揺れている。まるで、小さな、ピンク色の祝福のように。
わー、この作品、とりあえず一区切りつけちゃったけど、わたし、まだまだ終われない気がするんですよね~!
皆さんは、この後どんな話が読みたいですか?
もんろと羅夢のその先? それとも、別の視点からの物語?
ちょっと疲れちゃった…ってのもあるけど。
でも! これが、わたしの「こはならむちゃん」への愛のすべてなわけないでしょ!
まだまだ沼は深いんだから!愛はもっと伝えたいんだから!
(皆さんの感想や希望、ぜひ聞かせてくださいね~!




