約束の苺
岬の告白から一週間後の、黄昏時。
「尚さん、お願いがあります」
診療所の片付けを手伝いながら、岬がふと言った。彼女はこの一週間、以前より少し沈黙がちだった。記憶の洪水を経て、自分という存在と、もんろという過去とを、懸命に整理しているようだった。
「何だ?」
「もう一度……スカイツリーに行きたいです」
私は、手を止めた。三年間、あの場所には足を運んでいなかった。もんろが消えた場所。痛みすぎる記憶の場所。
今、その塔は『色彩塔』と改名され、最上階はもんろと107人の巫女たちを記念する『記憶の回廊』という施設になっていると聞いていた。
「……いいよ」
なぜか、すぐに答えが出た。もう逃げる必要はない。岬と一緒なら、向き合える気がした。
岬の顔がほのかに輝く。
「ありがとうございます。では……今日の午後、閉館間際に行きましょう。人が少ない時間帯に」
午後四時、私たちは色彩塔の麓に立っていた。
塔の外観は、もんろの“世紀のコンサート”の後、大規模な改修が施され、夜になると107色の光で照らされるようになっている。今はまだ日が高く、白くそびえる鉄塔が、夕焼け空を背景にシルエットを浮かび上げている。
エレベーターで最上階へ。途中、岬が小さな声で言った。
「途中で……イチゴを買ってきてもいいですか?」
一階の売店で、彼女は一パックの真っ赤なイチゴを買った。そして、大事そうに紙袋にしまった。
最上階の『記憶の回廊』は、思った以上に静かで厳かな空間だった。入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。内部の照明は暗く、ところどころにスポットライトが、展示物を浮かび上がらせている。
107人の巫女たちの肖像画。それぞれの時代の衣装をまとった等身大のホログラム。彼女たちが遺した短歌や俳句、絵画の複製。
そして、空間の中心にあるのが、もんろの全身ホログラムだ。
彼女は、あの伝説的なコンサートの途中──顔のモザイクが激しく輝き、歌いながら微笑んでいる瞬間の姿で、永遠にそこに立っていた。ホログラムはゆっくりと回転し、光の粒が彼女の輪郭からほのかに漂い、消える。そばには、彼女の歌声が、かすかな音量でループ再生されている。あの『私の、たった一つの歌』の断片だ。
数組の参観者が、静かに彼女のホログラムを見つめ、花を手向けていた。百合、桜、椿……色とりどりの花が、ホログラムの足元に積まれている。
岬は、少し離れた場所から、その光景をじっと見つめていた。表情は深く静かだ。悲しみでも、懐かしさでもない。敬意に満ちた、厳かな表情。
彼女は、一歩、また一歩と、ホログラムに近づく。そして、ホログラムの真正面に立ち、深く一礼する。
そして、かすかな、しかし確かな声で、囁く。
「さようなら……赫映もんろさん」
その呼び方に、私は胸が熱くなった。彼女は、もんろを“自分”としてではなく、“先達”として呼んだ。
「お疲れ様でした……そして、ありがとう」
彼女は、もう一度深くうなずき、静かにその場を離れた。私の方へ戻ってくる。その目には、かすかに涙が光っているが、顔は晴れやかだ。重い荷物を下ろしたような、清々しい表情。
「大丈夫?」 私は、小声で尋ねた。
彼女は、深くうなずく。
「ええ。ちゃんと……お別れができた気がします」
次に、私たちは隣接する展望デッキへ向かった。
ここは、もんろが最後に立ったステージがあった場所だ。今は、透明なガラス張りの展望台になっている。高さ634メートル。東京の街が、360度見渡せる。
私たちがデッキに出た時、ちょうど夕日が西の空に沈みかけていた。雲の切れ間から差し込む金色の光が、東京の街並みを、高層ビルのガラスを、遠くの山々を、まばゆいばかりに染め上げている。オレンジ、金、赤、紫……もんろ色の夕焼けが、世界を包み込む。
人はまばらだ。私たちは、人気の少ない東側の一角に陣取った。
岬は、紙袋からイチゴのパックを取り出し、そっと開けた。真っ赤な実が、夕日に照らされ、宝石のようにきらめく。
「約束の……イチゴです」
彼女は、一粒を取り、私に差し出す。その手は、かすかに震えている。
私は、それを受け取る。温かい。彼女の手の温もりか、夕日の温もりか。
彼女も一粒を取り、口に運ぶ。そして、目を閉じ、ゆっくりと噛む。私は、同じように、イチゴを口に入れた。
甘くて、少し酸っぱい。あの夜の味。もんろがあの夜、味わった味。そして、岬が無意識につぶやいた、あの味。
二人で、静かにイチゴを味わう。一瞬、時間が止まったように感じた。
岬が、遠くの雲を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。
「私は……赫映もんろの記憶を持っています。断片的に。あのステージに立った感覚。歌った感覚。たくさんの人の顔を背負った重さ。全部返した時の、痛みと安堵」
彼女の声は、静かで、澄んでいる。
「でも、彼女ではありません。顔も、体も、人生も、全部違います。彼女が経験した千年分の“借り”を、私は背負っていません」
彼女は、そっと自分の胸に手を当てる。
「彼女は全部返して、消えました。完璧に。だから、残ったのは……何もない、はずでした」
目を閉じ、深く息を吸う。
「でも、残りました。器が空になった後の、器の“形”。記憶が消えた後の、記憶の“痕跡”。情感が返された後の、情感の“振動”」
彼女が、私の方を見る。夕日が彼女の瞳を、深い琥珀色に染めている。
「私は……彼女が残した、“新しい何か”です。誰の借りでもない、ゼロからの存在。でも、彼女という大地の上に、生まれた新しい芽」
その言葉に、私の胸が熱くなる。彼女は、懸命に自分を定義しようとしている。過去と現在を、丁寧に切り分けようとしている。
「だから、私は彼女の代わりにはなれません。彼女があなたに抱いた想いを、そのまま受け継ぐこともできません」
彼女の目に、涙が浮かぶ。が、こぼれない。
「でも、それでいいと思っています」
その笑みは、悲しみと喜びが入り混じっている。
「だって、私は今、ここにいるから。この体で、この心で、この瞬間を、生きているから」
そして、彼女は、私をまっすぐに見つめる。目を見開き、すべての迷いを振り払ったような、清らかな眼差しで。
「尚羅夢さん」
フルネームで呼ぶ。丁寧に。
「私はあなたを愛しています」
その言葉は、夕暮れの空気を震わせた。シンプルで、力強く、どこにも曇りのない宣言。
「これは、誰の記憶でもない、誰から借りたのでもない。もんろの想いの残響でも、代償でもありません」
彼女の涙が、ついに頬を伝って落ちる。が、彼女は笑っている。
「私だけの、たった一つの気持ちです。岬という、記憶を失った少女が、この一ヶ月で、あなたを見つめ、あなたと過ごし、紡ぎ出した、オリジナルの情感です」
彼女は、一呼吸置く。深く、深く。
「これで……『オリジナルの告白』、返せたでしょうか? もんろが、最後まで返せなかった、たった一つの借りを……」
その問いかけに、私は、長い間、ただ彼女を見つめていた。胸の中で、無数の情感が渦巻く。もんろの最後の微笑み。岬の困惑した顔。イチゴの甘酸っぱい味。空白の石碑の微光。そして、今、目の前で泣きながら笑う、この少女の姿。
すべてが、一つにつながる。
私は、ふっと、笑った。三年ぶりに、心の底から湧き上がる、軽やかで温かい笑みが、自然に顔に浮かんだ。
「バカだな」
声は、かすれている。涙がにじんでいるのに、笑っている。
「お前が誰であろうと、今ここにいるお前が、お前だ」
私は、一歩近づく。彼女の涙に濡れた頬に、そっと手を当てる。
「もんろが背負ってきた千年の記憶も、お前がこの一ヶ月で紡いだ想いも、全部、お前の一部だ。過去も現在も、借りたものもオリジナルも、全部ひっくるめて──」
息を深く吸い込む。
「──お前だ」
彼女の目が、見開かれる。涙が、さらにもう一粒、こぼれる。
「そして、そのお前を──」
言葉が喉に詰まる。こらえて、絞り出す。
「──僕も愛している」
その瞬間、岬の体が大きく震える。そして、彼女は、私の胸に飛び込んできた。腕で私の背中をしっかりと抱きしめる。顔を私の胸に埋め、声を上げて泣く。今度は、悲しみでも困惑でもない、喜びの涙だ。
「ありがとう……ありがとう……尚さん……」
私は、彼女をしっかりと抱きしめ返す。小さな、しかし確かな彼女の温もり。鼓動。涙の熱さ。
その時──。
周囲の照明が、一瞬、すべて消えた。そして、ゆっくりと、再び灯る。が、その色は、普通の白色や暖色ではない。透明な金色に、ほんのりピンクが混ざった、あの“もんろ色” だ。
展望デッキ全体が、優しいもんろ色の光に包まれる。参観者たちが驚きの声を上げる。
「わあ! もんろ色だ!」
「すごい……きれい……」
「今日は何か特別な日なのかな?」
光は、一分ほど続き、そして、普通の照明に戻った。後日、施設側は「一時的なシステムエラー」と説明するが、誰もが、あの光を“祝福”だと言い合った。
私たちは、そのもんろ色の光の中、抱き合ったままだった。岬が顔を上げ、私を見る。彼女の目は、涙できらきらと輝き、もんろ色の光を受けて、宝石のようだ。
「今度は、ゆっくりでいい」
私は、彼女の頬をそっとなでながら、言う。
「一緒に、色のある世界を見ていこう。ゆっくりと、一歩ずつ」
彼女は、深くうなずく。そして、かすかに、しかし幸せいっぱいの笑みを浮かべる。
「ええ……よろしくお願いします、尚さん」
診療所に戻ったのは、すっかり夜になっていた。
玄関の灯りをつける。いつもの静かな空間が、どこか温かく感じられる。
ふと、窓辺のイチゴの鉢に目が行く。そして、私は息をのんだ。
緑の葉の間から、小さな、まだ青い実が一つ、顔をのぞかせている。三年間、一度も実をつけなかったその鉢が、今、初めて実を結んだのだ。
岬もそれに気づき、目を見開く。
「あ……!」
彼女は、鉢に近づき、そっとなでる。青い実は、小さく、固そうだ。が、確かにそこにある。
「いつか、真っ赤に熟したら」
私は、彼女の肩に手を置きながら言う。
「一緒に食べよう」
岬は、振り返り、私を見つめる。そして、深く、幸せそうにうなずいた。
「ええ、約束です」
窓の外では、東京の夜が、無数の色の灯りで輝いていた。世界はまだ完璧ではない。悲しみも、痛みも、理不尽も、たくさんある。
でも、少なくとも、色はある。愛する人と分かち合える、温かな時間がある。そして、ほんの小さな、しかし確かな希望の実が、これからゆっくりと、赤く色づいていく。
二人で、窓辺のイチゴの実を見つめながら、私は静かに思った。
ゆっくりでいい。長い旅路の、ほんの始まりに過ぎない。これからも、きっとたくさんの悲しみと、たくさんの喜びが待っている。
でも、それでいい。彼女と一緒なら、どんな色も、ちゃんと味わっていける。
風が窓を軽く叩き、イチゴの葉がかすかに揺れた。小さな青い実が、ほのかに月明かりに照らされ、銀色に輝いている。




