過去との対面
岬が診療所に落ち着いてから、一ヶ月近くが経った。
ある晴れた午後のことだった。診療所の待合室では、古びたブラウン管テレビが、低い音量で番組を流していた。もんろの“世紀のコンサート”から三年──この日は、特別番組『赫映もんろ、光の軌跡』の再放送があった。一年に一度、あの日を偲んで放送される追悼番組だ。
岬は、午後の診察が始まる前の静かな時間に、待合室の掃除をしていた。雑巾を手に、ソファの埃をふいている。テレビの音声は、ほとんど意識の外にあった。
掃除機の音が、番組のナレーションにかき消された。画面には、スカイツリーの頂上ステージの映像が映し出されていた。夕暮れ時の空。無数の観客。そして、ステージ中央に、白いドレスをまとった、一人の少女の姿。
もんろだ。
彼女の顔は、まだ比較的安定していた頃のもの。透明な膜の下で、無数の色の粒が流動しているが、まだ明確に“顔”の形を保っている。金色の裂け目が、彼女の表情に神々しい深みを与えていた。
岬は、ちらりとテレビ画面を見た。そして、動きを止めた。
雑巾が、彼女の手から、静かに床に落ちた。ぽとり、という小さな音。
彼女は、その場に立ちすくみ、テレビ画面を見つめ続けた。目を見開き、瞳孔がかすかに縮んでいる。呼吸が浅く、速くなるのが、胸の動きからわかる。
画面の中でもんろが、マイクの前に立ち、深く息を吸い込む。口を開く。声が流れる。
『借りていたもの……全部、返しました』
その言葉が、岬の耳に、脳髄に、直接突き刺さった。
彼女の目から、涙が、一粒、また一粒と、静かにこぼれ落ちた。意識的な泣き方ではない。生理的な反応だ。彼女は、その涙にさえ気づいていない。ただ、テレビの中のもんろを見つめ続ける。
もんろの声が続く。
『ごめんなさいね、長い間』
その瞬間、岬の唇が動いた。テレビの中のもんろと、完璧に同期して。口の形、息継ぎのタイミング、声のトーンまでも。
声は、ほとんど息づかいだ。が、それは、紛れもなく、もんろの声だった。透明で、深い悲しみに満ち、かすかな震えを含んだ、あの伝説的な声質。岬自身の、若く細い声帯から、なぜか、完璧にもんろの声色が再現されている。
『でも……ありがとう』
また同期する。岬の目は、もはやテレビ画面を見ていない。虚空を見つめている。まるで、彼女自身が、あのステージに立ち、あの言葉を紡いでいるかのように。
『『顔』を、貸してくれて』
最後の言葉を、岬は、もんろとぴったり同じタイミングで、かすかな声で繰り返した。そして、ぱたりと、言葉が止まる。
テレビの中でもんろは、深くお辞儀をし、次の歌へと移っていく。が、岬は、もうそれを見ていない。
彼女の体が、小刻みに震え始める。膝ががくがくと震え、立てなくなる。そのまま、ゆっくりと、床に崩れ落ちる。ぽたり、と。
「あ……あああ……」
嗚咽が、喉の奥から絞り出される。彼女は、床にうずくまり、自分の頭を抱え込む。肩が激しく震える。
「思い出した……全部……!」
声は、泣き叫びに近い。
「私……は……赫映もんろ……だった……! あのステージに立って……歌って……全部、返した……!」
彼女は、顔を上げ、天井を見つめる。涙でぐしゃぐしゃになった顔は、苦悶に歪んでいる。
「でも……違う……!」
拳を床に打ちつける。弱々しい音。
「今の私は……違う……! この顔……この体……全部、違う……!」
彼女は、自分の頬を引っかくように触る。今の、丸みを帯びた優しい顔。もんろのあの、光のモザイクに覆われた神々しい顔とは、何一つ似ていない。
「あの時……全部返した……借りた顔も、記憶も、色も……全部……!」
彼女は、胸を押さえ、のけぞるようにして泣く。
「だから……何も残ってない……はずなのに……!」
呼吸が乱れる。過呼吸になりそうだ。
「この顔は……誰? この記憶は……誰の? 私は……いったい……誰……?」
その泣き叫ぶ声を聞いて、私は診察室から飛び出した。テレビの音。岬の絶叫。何かが決定的に壊れた音がした。
待合室に入ると、そこには、崩れ落ち、泣きじゃくる岬の姿があった。テレビでは、もんろが歌い続けている。無関係な祝福の映像。
「岬!」
私は、彼女のそばにかがみ込む。彼女は、私の腕にしがみつく。力いっぱい。爪が私の腕に食い込む。
「尚さん……! 尚さん……!」
彼女は、私の胸に顔を埋め、声を上げて泣く。全身で震えている。あまりの混乱と恐怖に、言葉にならない。
「落ち着け……深呼吸を……!」
私は、彼女の背中をさする。が、彼女の震えは止まらない。彼女は、顔を上げ、涙に曇った目で私を見つめる。その目は、深い混乱と、自己への恐怖に満ちている。
「私は……もんろ……だった……でも、もんろは消えた……全部返した……なら、なんで……なんで私が……?」
彼女の顔が、一瞬、ゆがむ。いや、正確には、変わる。丸い輪郭が、かすかに細く引き締まり、目尻がほんのわずか吊り上がる。もんろの、あの神秘的な面影が、ほんの一瞬、岬の顔の上に重なって見えた。だが、瞬きする間に、それは消え、元の岬の顔に戻る。錯覚か? 過剰な情感による、筋肉の異常な緊張か? それとも──。
私は、彼女の両頬を、手のひらで包むようにして持ち上げる。無理に私の目を見させる。
「聞け、岬」
声を、低く、しかし力強くする。
「お前は、岬だ。今ここにいる、たった一人の、お前だ」
彼女の目が、かすかに揺らぐ。混乱が、少しだけ、理解へと道を譲る。
「もんろは、全部返した。借りた顔も、記憶も、色も。だから、もんろは、消えた」
私は、一語一語、確かめるように話す。
「でも、それで終わりじゃない。返したものの向こう側に、残るものがある。器が空になった後も、その器の形は残る。その形に、新しい何かが満たされる」
岬の涙が、私の手のひらに伝わる。熱い。
「お前が今、ここにいる。この顔で、この声で、この涙を流して。これが、お前の現実だ。もんろの“借り”でも、“返し”でもない。お前自身の、たった一つの──」
私は、深く息を吸い込み、言う。
「『オリジナル』だ」
その言葉に、岬の体の震えが、ほんの少し、和らぐ。彼女の目が、私の目を、しっかりと捉える。混乱の底から、かすかな理解の光が、ようやく浮かび上がろうとしている。
長い、長い沈黙。彼女の呼吸が、少しずつ整っていく。涙はまだ流れているが、激しい嗚咽は収まった。
彼女は、ゆっくりと、私の手から顔を離す。そして、自分の手のひらをじっと見つめる。その手は、まだ震えている。
「……尚さん……」
声は、かすれている。が、確かだ。
「私は……約束を……果たしていなかった……」
彼女は、顔を上げ、私を見る。目には、深い哀しみと、どこか覚悟のようなものが浮かんでいる。
「『オリジナルの告白』……まだ……返していない……」
それは、催眠の中で聞いた言葉だ。もんろが、最後まで返さなかった、いや、返すことを選ばなかった、たった一つの“借り”。彼女が、初めて“自分”として生み出した情感。私に対する想い。
岬は、その“借り”を、今、自分の中に感じている。もんろの記憶ではない。彼女自身の、今ここにある情感として。
彼女は、そっと自分の涙をぬぐう。手の甲で、こすりながら。そして、深く、深く息を吸い込む。震えながらも、私の目をしっかりと見つめる。
そして、かすかに、しかし確かな力を持った微笑みを浮かべる。それは、まだ不安に震え、悲しみに曇っている。が、その奥に、決意の芯がある。
「今度は……ちゃんと……伝えます」
その言葉に、私の胸が、熱く、そして深く静かなもので満たされる。涙腺が熱くなるのをこらえる。
私は、うなずく。ただ、深くうなずく。
岬は、立ち上がる。よろめきながらも、自分の力で。彼女は、床に落ちた雑巾を拾い、そっとテーブルに置く。そして、テレビの方へ向き、リモコンを手に取る。もんろが歌い続ける画面を、ぷつりと消した。
静寂が、待合室に戻る。外からは、車の音と、遠くの子どもたちの声だけが聞こえる。
彼女は、振り返り、私を見る。もう泣いてはいない。顔は泣き腫れているが、目は驚くほど澄んでいる。
「……ありがとうございます、尚さん。少し……休んでも、いいですか?」
「ああ。ゆっくり休め。いつでも、隣にいるから」
彼女は、かすかにうなずき、自分の部屋へと歩いていった。その背中は、以前よりも、ほんの少しだけ、確かなものを背負っているように見えた。
私は、テーブルの上の雑巾を片付け、消えたテレビの黒い画面を見つめた。そこには、私自身の、少し疲れた顔が、かすかに映っている。
窓の外では、午後の陽射しが、街路樹の葉をきらきらと輝かせていた。色あふれる世界が、今も、確かにここにある。
そして、その世界の片隅で、一人の少女が、たった一つの、誰のものでもない“オリジナル”として、新たな一歩を踏み出そうとしている。




