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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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記憶の糸

深層催眠の夜から、一週間が過ぎた。

藍は、診療所の隣にある小さなゲストルームに落ち着いていた。行くあてのない身であり、記憶も曖昧な彼女を、私は「思い出せるまで」という条件で、ここに留めることにした。正式な名前がないため、彼女には「みさき」という仮の名をつけた。発見された場所が海に近い神社だったこと、そして、彼女自身が今、記憶という大海原に浮かぶ、孤独な岬のように思えたからだ。

彼女は、驚くほど素直にこの新しい環境に適応した。朝は決まった時間に起き、身の回りの整理をし、診療所の簡単な雑用──書類の整理、植物への水やり、待合室の掃除──を進んで手伝う。その動作は、常に無駄がなく、丁寧で、まるで長年そうした仕事をこなしてきたかのようだった。が、一つだけ、明らかに避けていることがあった。

鏡を見ないことだ。

洗面所の鏡には、うつむいて通り過ぎる。窓ガラスに自分の影が映ると、そっと目を逸らす。ある日、誤って落としたスプーンが光り、その歪んだ反射に自分の顔の一部が映った時、彼女ははっと息をのみ、しばらく動けなくなっていた。

記憶がない者にとって、鏡の中の“見知らぬ自分”は、恐怖の対象なのかもしれない。あるいは、もっと深い理由が。


ある午後、診療の合間のことだ。

岬が、私のオフィスの隅にある古いレコード棚の整理を手伝っていた。もんろの全盛期、レコード復興の波の中で発売された、彼女の初期アルバムが何枚かある。デビュー曲『心做し』のアナログ盤もその一枚だ。

彼女は、そのレコードのジャケット(もんろの、ベールで顔をほぼ隠した神秘的なプロフィール写真)を一瞬じっと見つめ、そして、そっとレコードをプレーヤーに載せ、針を落とした。

ヴィニールの微かなノイズ。そして、もんろの声が、小さなスピーカーから流れ出る。デビュー当時、まだ十代だった彼女の、力強くもどこか幼さの残る歌声。

岬は、レコードの埃をふきながら、無意識に、口ずさんでいた。

しかも、メロディだけでなく、完璧なハモリまで。曲のサビの部分で、もんろの歌声の上に重なるコーラスのパートを、彼女は、自然に、息継ぎもピッチも完璧に再現して歌っているのだ。楽譜を見ているわけでもない。記憶から、自然に湧き出るように。

私は、オフィスのドアの隙間から、その様子をじっと見ていた。心臓の鼓動が速くなる。

一曲終わり、彼女がふと我に返ったように周りを見回す。私が立っているのに気づき、少し驚いた。

「あ、尚さん……お邪魔しましたか?」

「いや。……その歌、知ってる曲?」

岬は、首をかしげ、困惑したような表情を浮かべる。

「え? いえ……なんとなく……耳に残ってて……」

彼女は、自分の口から出た言葉に自分で驚いているようだった。記憶がないはずなのに、なぜこの曲のメロディとハモリを、完璧に知っているのか。

「昔、よく聞いてたのかもしれないね」 私は、わざと軽く言う。

「……そう、かもしれませんね」

彼女は、うつむき、また雑用に戻った。が、その耳たぶが、ほんのり赤らんでいるのが見えた。混乱しているのだ。


別の日、夕食の支度を手伝っている時だった。

岬が、デザート用のイチゴを洗い、ヘタを取っている。真っ赤な実が、彼女の指先でくるりと回る。彼女は、一粒をそっと口に運び、かじる。そして、目を細めて、つぶやく。

「甘くて……少し……酸っぱい……」

そのままなら、普通の感想だ。が、彼女の次の言葉で、私は包丁を握る手を止めた。

「これが……赤の……味……」

彼女自身も、その言葉に驚いたように、目を見開く。手に持ったイチゴをじっと見つめ、首をかしげる。

「……私……何で……そんなこと……言ったんだろう?」

その表情は、深く困惑している。無意識のうちに、誰かの──いや、もんろの言葉を、そのまま口にしていたのだ。あの夜、もんろがイチゴを食べ、私に言った、あの言葉を。

「いい感性だよ」 私は、平静を装って言った。「色には、味わいがある。赤には赤の、青には青の。それを感じられるのは、素敵なことだ」

岬は、私を不思議そうに見つめ、かすかにうなずいた。が、目の中の困惑は消えなかった。自分の中に、自分では理解できない“何か”が湧き上がってくる感覚。それは、怖いものだろうか、それとも、どこか懐かしいものだろうか。


一週間後、私は、ある提案をした。

「岬、鏡を見てみないか?」

夕食後、洗い物を終えた彼女に、私は静かに言った。彼女の手が、わずかに震える。

「……こわい……です」

「わかる。でも、逃げ続けても、何も始まらない。一緒に見よう。私がそばにいる」

彼女は、長い間沈黙した。そして、かすかにうなずく。

洗面所の大きな鏡の前で、彼女は立ちつくす。目を閉じている。深呼吸を一つ、二つ。

「ゆっくりでいい。目を開けて」

彼女のまつげが震える。そして、ゆっくりと、目を開ける。

鏡の中には、十六、七歳の、見知らぬ少女が映っている。丸い瞳。小さな鼻。緊張して引き締まった唇。長い黒髪。彼女が自分だと認識している“内面のイメージ”と、この鏡の中の“外面的な容貌”が、完全に乖離している。それが、どれほど不気味で、混乱を招くことか。

彼女は、じっと、鏡の中の自分を見つめる。一分。二分。表情は動かない。ただ、目が、ゆっくりと、鏡の中の自分の顔の輪郭を、一つ一つ、慎重になぞっている。

「……これが……私?」

声は、かすかで、震えている。疑問形ですらない。確認のない確認。

「そうだ」 私は、彼女の少し後ろに立ち、鏡の中の彼女を見つめながら言う。「今の、あなただ」

彼女は、ゆっくりと手を上げ、鏡の中の自分の頬に触れようとする。もちろん、冷たいガラスに触れるだけだ。彼女の指先が、鏡の表面をそっとなぞる。

「誰の記憶でも……ない……私の……顔」

その言葉に、深い寂しさが込められている。もんろであれば、彼女の顔は、無数の他人の記憶で満たされていた。だが、岬の顔は、空白だ。誰の借りでもない、たった一つの、しかし中身のない器。

「なんだか……寂しい」

彼女は、うつむく。涙が、こぼれ落ちそうなのを、必死にこらえている。

「寂しくていい」 私は、静かに言う。「誰のものでもない顔は、確かに寂しい。でも、その寂しさは、これから、あなた自身の思い出で、少しずつ埋めていくことができる。あなただけの色で、染めていくことができる」

彼女は、顔を上げ、鏡の中の私を見る。その目には、深い悲しみと、かすかな、ほのかな希望が混ざっている。

「……私だけの……色……」

彼女は、そっと自分の頬に触れる。今度は、鏡ではなく、実物の自分の肌に。

「そうだ。ゆっくり、探していけばいい」


その週末、結衣から連絡があった。

京都の、岬が発見された神社で、小規模な「記憶の灯」石碑の完成式典があるという。結衣は、岬を連れて行くことを提案してきた。『彼女がその場に立つことで、何かが動くかもしれない』と。

私たちは、新幹線で京都へ向かった。岬は、窓の外を流れる景色を、飽きることなく見つめていた。色とりどりの田園、山々、街並み。それらを、初めて見るような、しかしどこか懐かしむような眼差しで。

神社は、静かな山あいにあった。108基の石碑が、円形に並べられ、中心に、あの空白の石碑が立っている。風が吹くと、石碑の間をすり抜け、かすかな鈴の音のような響きを立てる。ここに来た人々の祈りや思いが、情感として石碑に蓄えられ、共鳴しているのだろう。

結衣が私たちを迎えた。彼女は、岬を一目見ると、一瞬、言葉を失った。そして、深くうなずく。顔は違う。が、その佇まい、空気感に、何かを感じ取っているようだ。

式典は簡素だった。結衣の短い挨拶。参加者たちの静かな祈り。岬は、人々の輪の外れに立ち、ただ、遠くからそれを見つめていた。が、その視線は、中心の空白の石碑から、離れない。

式典が終わり、人々が散り始めた頃、岬が、一歩、また一歩と、空白の石碑に近づいていく。私は、少し離れて見守る。結衣も、私の隣に立ち、息を殺している。

岬は、石碑の前に立つ。風が彼女の髪を揺らす。彼女は、そっと、石碑の滑らかな表面に、手のひらを当てる。

そして、かすかな、しかし確かな声で、囁く。

「さようなら……そして……はじめまして……」

その瞬間──。

空白の石碑が、ほのかな、金色の微光を放った。一瞬だけ。まるで、彼女の手の温もりに呼応したかのように。私は、息をのむ。結衣も、目を見開く。周りの人々は、気づいていない。光は、あまりにかすかで、意識して見ていないと見逃してしまうほどだ。

岬自身は、その光に気づいたのか、いないのか。彼女は、ただ、手のひらを石碑から離し、ぼんやりと自分の手のひらを見つめている。そして、首をかしげる。

「どうして……私……今……そんなこと……」

結衣が、私の袖をそっと引く。彼女の目に、涙が光っている。声にならないうなずき。彼女も、確かに見た。あの光を。


帰りの新幹線。 夕日が窓から差し込み、車内をオレンジ色に染めている。

岬は、窓にもたれ、眠ってしまっていた。長い一日の疲れと、感情の高ぶりだろう。静かな寝息を立てている。

夕日が、彼女の横顔を優しく照らす。丸い頬。長いまつげ。少しぽってりとした唇。それは、もんろのあの、光に満ちた、神々しい相貌とは、何一つ似ていない。ごく普通の、可愛らしい少女の顔だ。

しかし、その寝顔を見つめていると、私の胸に、もんろの最後の微笑みが、鮮明によみがえる。あの、空白の顔に浮かんだ、透明な金色の微笑みの輪郭。そして、テープに隠されていた、幼い輪郭のデータ。

二人の顔は、重ならない。が、その存在が放つ静けさ、優しさ、そして深い悲しみは、同じ源泉から湧き出ているように感じる。

私は、心の中で、そっと呟く。

『お前かどうか……もう、どうでもいい』

岬が、眠りの中で、かすかに体を動かす。窓にもたれかかる角度が変わり、夕日が彼女のまつげの先で、きらりと輝く。

『今、ここにいるのが、お前なら』

それで十分だ。彼女がもんろの“転生”か、偶然の一致か、全くの別人か。そんなことは、もう重要ではない。目の前にいるこの少女が、記憶を失い、孤独で、しかし懸命に自分を見つめようとしている。その彼女を、支え、見守ること。それこそが、今、私にできることだ。


診療所に戻り、岬をベッドに寝かせた。 彼女は、一日の疲れからか、深く眠っている。

私は、隣の部屋で、記録を整理しながら、彼女の寝息に耳を澄ませていた。深夜二時を回った頃、彼女の部屋から、かすかな声が聞こえた。

囁くような、夢の中でのつぶやき。

「尚……さん……」

その呼び方に、私は、はっとする。彼女は、普段、私のことを「尚さん」と呼ぶ。敬称をつけない。が、この夢の中での呼び方は、もんろが私を呼んだときの、あの丁寧で、どこか懐かしさを込めた呼び方に、そっくりだった。

「……待ってて……ね……」

声は、かすれ、消える。

私は、そっと彼女の部屋のドアを開けた。月明かりが、カーテンの隙間から差し込み、彼女の寝顔をぼんやりと照らしている。彼女は、まだ夢の中にいる。眉間に小さな皺を寄せ、何か必死に追いかけているようだ。

私は、部屋の隅の椅子に腰かけ、彼女を見守ることにした。眠る気になれない。胸の中が、静かで、深い情感で満たされている。悲しみでも、喜びでもない。ただ、在ることそのものへの、深い肯定感。

窓の外では、夜明け前の星が、かすかに瞬いている。もんろが消えたあの夜、空に浮かんだ無数の光の粒を思い出す。

彼女は、確かにあの夜、全てを返した。だが、情感の“種”のようなものは、この世界に、かすかに散らばったままなのかもしれない。そして、その一粒が、藍という少女の心に落ち、根付き、新たな芽を出し始めている。

ゆっくりでいい。急がなくていい。

私は、彼女の微かな寝息を聞きながら、夜明けを待つことにした。長い、静かな夜が、ゆっくりと明けていく。


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