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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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深層催眠

夜。診察室は、ほの暗い照明だけが灯っている。

藍は、簡易的な治療ベッドに横たわり、毛布を胸までかけている。マスクとサングラスは外した。結衣の言葉通り、彼女の顔は、もんろとはまったく違う。丸みを帯びた優しい輪郭、ぱっちりとした二重の目、小さな鼻、やや緊張した引き締まった口元。ごく普通の、どこにでもいそうな、しかし整った顔立ちの少女だ。年齢は、十六、七歳くらいに思える。もんろのあの、光のモザイクに覆われた神々しい相貌とは、似ても似つかない。

が、その目を閉じ、呼吸を整えている様子には、どこかもんろと重なるものを感じる。深く集中している時の、あの内側へと沈潜していくような静けさ。無意識下で、何か大きなものと対話しているような、厳かな雰囲気。

私は、モニターの前に座り、記録装置をチェックする。音声、脳波、生体データ。もんろの事件後、政府が一部公開した情感データ解析技術を応用し、私なりの顔貌記憶検索法を構築していた。個人の無意識に沈んだ“顔”や“記憶”の断片に、安全にアクセスし、整理を手助けするためのものだ。その基盤には、もんろが遺したオープンソースの情感データと、Dr.Kの剥離器理論が生きている。

「藍さん、聞こえていますか?」 私は、静かな、穏やかな声で話しかける。

「はい……」 彼女の声は、少し遠く、眠気を帯びている。

「では、ゆっくりと、深く息を吸ってください。吐いてください。体の力が、ゆっくりと抜けていくのを感じてください……」

私は、誘導を続ける。彼女の呼吸は、次第に深く、穏やかになる。脳波モニターは、アルファ波が優位を示し、浅い催眠状態に入っている。

「では、今から、私が質問します。思い浮かぶイメージや言葉があれば、それをそのまま、言葉にしてください。無理に考えなくていい。ただ、浮かんでくるものを、そっと捉えて、教えてください」

一呼吸。

「藍さん……あなたが歌っていた場所を、思い出してください。どんな場所ですか?」

沈黙。長い沈黙。彼女のまぶたの下で、眼球がかすかに動く。夢を見ているかのように。

そして、かすかな、囁くような声。

「高い……ところ……」

声には、ほのかな畏敬の念が込められている。

「光……たくさんの……光……」

「それは、どんな光ですか?」

「……まぶしい……熱い……冷たい……いろんな……色……」

彼女の言葉に、私の胸が、かすかに締め付けられる。スカイツリーの頂上。ステージのスポットライト。観客席の無数のライト。そして、もんろ自身が放つ、無数の色の光。

「そこには、誰かいますか?」

「……みんな……いる……」

彼女の声が、わずかに震える。

「みんなが……泣いている……」

その言葉に、私の手が、記録用のペンをぎゅっと握りしめる。冷静に。プロとして。

「あなたは、そこで何をしていますか?」

また沈黙。今度は、彼女の表情が、ほんのわずかに歪む。苦しそうだ。

「……歌って……いる……」

「それで?」

「……笑って……いる……」

その言葉が、切なさに満ちている。

「泣きたい……のに……笑わなきゃ……」

それは、もんろが、あの夜、告白の前に私に言った言葉に酷似している。『でも、今、この気持ちに…どれも、合わないみたいです』。彼女もまた、無数の借り物の情感に押しつぶされながら、それでも“笑う”ことを、義務と感じていた。

深呼吸する。落ち着け。

「では、次に、別の記憶を思い出してください。『顔を貸してください』とお願いしていたときのことを」

誘導を続ける。少し深く。

彼女の呼吸が、浅くなる。眉間に皺が寄る。

「顔を……貸して……ください……」

声が、変わる。いや、正確には、声質は同じだ。が、口調、言い回し、情感のこもり方が、明らかに別人のものになる。それは、丁寧で、哀願に満ち、深い慈悲を感じさせる話し方だ。巫女のような。もんろが、人々から顔を“借りる”時に使っていた、あの儀式的な口調だ。

「お願い……します……」

その言葉の後、彼女の唇が、また動く。今度は、より優しく、母親のような口調。

「この子の……笑顔……預かります……」

次に、力強く、どこか諦念を含んだ声。

「お母さんの……涙……私が……持っていきます……」

一つ一つのセリフが、異なる人物の声色、口調、情感で語られる。まるで、彼女の中に、無数の人格が棲み、順番に口を開いているかのようだ。が、それらは、統合失調症のような混乱ではない。意図的で、秩序立った、儀式的な“引き受け” のプロセスを再現しているように聞こえる。

記録装置の音声波形を確認する。声の周波数特性は、藍本人のものとほとんど変わらない。が、微細な韻律パターン、子音の発音の癖、間の取り方が、それぞれ明らかに異なっている。これは、高度な演技を超えた、深層記憶による“再現” だ。

「それらを預かって、どうしましたか?」 私は、声をさらに柔らかくする。

「返します……」

今度の声は、もんろの声そのものだ。いや、正確には、藍の声帯から発せられた、もんろの声色、話し方、情感を完璧に再現した声だ。透明で、澄み切り、深い悲しみと確かな決意に満ちている。あの伝説的なコンサートで、全世界に響いた、彼女の宣言の声だ。

「全部……」

その言葉に、私の背筋が震える。記録画面で、声紋分析のグラフが急激に変化し、政府のアーカイブに保存されているもんろの声紋データと、驚くほど高い一致率を示す。80%、85%、90%……。声帯の物理的特性は別人でも、話し方の“骨格” が同じなのだ。

「痛い……」

藍の表情が、苦悶に歪む。体が、微かに痙攣する。

「でも……嬉しい……」

涙が、彼女の閉じたまぶたから、静かにこぼれ落ちる。

「誰かのため……じゃない……」

声が、かすれ、震えるが、力強い。

「私が……したい……から……」

これは、もんろが最後に到達した境地だ。他人のための犠牲ではなく、自分自身の意志による選択。彼女が、107人の先達の意志を継ぎながらも、最後に「自分」として成し遂げた決断。

催眠は、核心へと近づいている。藍の生体データは、興奮状態を示している。が、まだ安全圏内だ。

「藍さん、その『返す』ことの中に、何か……約束はありましたか? 誰かとの、約束」

私の声は、思わずかすれている。

藍の顔が、また動く。今度は、どこか懐かしさと、深い悲しみが入り混じった、複雑な表情になる。

「約束……」

彼女の唇が、かすかに動く。言葉にならない。

「苺……もう……一度……」

その言葉に、私の心臓が、一瞬止まりそうになる。拳を握りしめ、こらえる。

「どんな約束ですか? 苺と、もう一度、どうする約束ですか?」

「借りた……たくさんの顔……」

彼女の声が、非常に細くなる。ほとんど息づかいだ。私は、記録装置の感度を最大に上げ、身を乗り出す。

「歌った……たくさんの歌……」

一つ一つの言葉が、糸が切れるように、かすかに続く。

「まだ……返して……ない……」

ここで、長い間。彼女の呼吸が乱れる。苦しそうだ。無理に引き出しすぎているかもしれない。中断すべきか。

その時、彼女の口から、最後の、かすかな言葉が、紡ぎ出された。

「……ひとつの……『オリジナル』……」

その言葉と同時、藍の体が、ベッドの上でぴくんと跳ねるような痙攣を起こした。目を見開く。しかし、瞳には焦点が合っていない。催眠状態から突然の覚醒──解離性の覚醒だ。

「あっ……! あああ……!」

彼女は、ベッドから起き上がり、息を弾ませる。胸を押さえ、大きく喘ぐ。顔は青ざめ、冷や汗が額に浮かんでいる。目には、深い混乱と恐怖がよぎる。

「私は……私は……!」

彼女は、周りを見回し、私を見つめる。その目は、まだ夢うつつのようだ。

「何を……言った……? 私は……何か……変なこと……?」

声は、完全に藍本人の、若く、不安に満ちたものに戻っている。催眠中のあの、様々な声色や、もんろそのものの声は、跡形もない。

私は、すぐに彼女のそばに駆け寄り、そっと肩に手を置く。

「大丈夫。ゆっくりでいい。深呼吸を。あなたは安全だ。ここは安全な場所だ」

彼女は、私の言葉に従い、必死に深呼吸を繰り返す。震えは少しずつ治まるが、顔色はまだ悪い。彼女は、自分の手のひらを見つめ、それが震えているのを確認し、混乱したように首を振る。

「私は……何か……おかしい……夢を見ていた……たくさんの顔が……泣いてて……笑ってて……」

「それは、記憶の断片かもしれない。無理に今、理解しようとしなくていい」

私は、ウォーターサーバーから水をコップに入れ、彼女に渡す。彼女は、震える手で受け取り、一気に飲み干す。

「……お願いします……」 彼女は、うつむき、かすかな声で言う。「私……本当に……知りたい……私は誰なのか……」

「わかっている。少しずつ、進んでいこう。今日はここまでだ。とてもよく頑張った。ゆっくり休んで」

彼女は、深くうなずき、再びベッドにもたれかかる。目を閉じる。疲労と、記憶の断片の重みに、すぐに眠りに落ちていった。呼吸は深く、規則的になる。

私は、記録装置の前へ戻る。再生ボタンを押し、ヘッドフォンを装着する。催眠中の声を、注意深く聞き直す。

高いところ。光。泣く人々。笑う自分。

顔を貸してください。預かります。持っていきます。

返します。全部。痛い。でも嬉しい。私がしたいから。

そして、最後。

『まだ返してない……ひとつの『オリジナル』……』

その部分を、何度も繰り返し聞く。声紋分析ソフトで詳細に解析する。この部分だけ、声の周波数パターンが、藍本人のものとも、もんろのアーカイブデータとも、微妙に異なる。より幼く、より無垢で、どこか実験的な響きがある。それは、もんろが告白の夜、初めて“自分だけの言葉”で語りかけたときの、あの未熟で、しかし確かな、オリジナルの声に、最も近い。

『オリジナル』。

もんろは、告白の夜、私に言った。『これって……『オリジナル』の告白ですか?』

彼女が、最後まで返せなかった、いや、返すことを選ばなかった、たった一つの“借り”。それは、彼女が他者から借りたものではなく、彼女自身が、初めて“自分”として生み出した情感──私に対する想い。それを、彼女は、彼女の“大いなる帰還”の中には含めなかった。あるいは、含めることができなかった。

それが、今、藍という少女の口を通して、ほのかに語られた。

私は、記録を止め、窓辺へ歩み寄る。夜の窓の外には、月がかすかに浮かんでいる。診療所の窓辺には、あのイチゴの鉢が、静かに置かれている。緑の葉が、月明かりに照らされ、かすかな影を作っている。

私は、その鉢に手を伸ばし、そっとなでる。葉の感触は、少し冷たい。

「待っているよ」

声に出して、囁く。喉が詰まる。

「いつまでも……ゆっくりでいいから」

月明かりが、イチゴの鉢を通り、床に、かすかな葉影のモアレを落としている。それは、まるで、誰かの、かすかな笑顔の輪郭のようにも見えた。

藍の眠る隣室から、かすかな、規則的な寝息が聞こえる。彼女は、深い眠りについている。その中で、いったい、どんな夢を見ているのだろう。無数の顔の海を、それとも、たった一つの、空白のキャンバスを。

私は、記録装置のデータを保存し、暗号化した。この発見は、あまりに大きすぎる。慎重に扱わなければならない。

夜は、まだ深い。明日から、新たな一歩が始まる。ゆっくりと、確かに。

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