表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

67/74

訪れる謎の女

診療所の玄関チャイムが鳴ってから、数秒。

私は、深呼吸を一つして、診察室のドアを開けた。

待合室のソファに、一人の若い女性が、背筋を伸ばして座っていた。大きめの白いマスクと、色の薄いサングラスで顔の大半を隠している。長い黒髪は、肩のあたりでそっと束ねられ、質素な淡いグレーのワンピースを着ている。年齢は、十五、六歳から二十歳前後だろうか。細身で、背は高くない。手には何も持っていない。鞄もない。

彼女は、私の足音に気づき、ゆっくりと顔を上げる。マスクとサングラスの向こうから、私を見つめる視線を感じる。その視線は、警戒しているわけでも、怯えているわけでもない。深く静かで、どこか遠くを見ているような、不思議な眼差しだ。

「こんにちは」

私は、穏やかに声をかける。

「遠藤結衣さんから、話は聞いています。藍さん、ですね?」

女性は、かすかにうなずく。動作は、洗練されたというより、無駄のない、自然な優雅さがある。長年の訓練によって身につけた所作、という印象だ。

「お入りください」

診察室へと導く。彼女は、立ち上がり、私の後についてくる。足音はほとんど聞こえない。ソファに座るように促すと、彼女は、背筋をぴんと伸ばし、両膝をそろえ、手はひざの上に重ねる。あまりに端正で、どこか不自然な姿勢だ。一般人の、リラックスした座り方ではない。舞台に立つ者、あるいは、厳格な躾を受けた者の座り方だ。

私は、彼女の向かいの椅子に腰かけ、記録用のタブレットを手に取る。

「では、初めに、簡単なことから。今日はどうされましたか?」

彼女は、数秒間沈黙する。口元のマスクが、微かに動く。深呼吸をしているのか。

「私……は……」

声が出る。それは、結衣が電話で言っていた通り、もんろの声に似ている。いや、似ているというより、質感が近い。澄んでいて、かすかな震えを含み、どこか哀切を帯びている。が、もんろの声の持っていた、神がかり的な力強さや、107人の重層的な響きはない。より若く、より未熟で、しかし、同じくらい透明な声だ。

「自分が……誰か……わかりません」

その言葉を、彼女は、事実を述べるように淡々と話す。混乱や焦りは感じられない。ただ、深い困惑がある。

「名前も……年も……どこから来たのかも……」

彼女は、そっと自分の手のひらを見つめる。その手は、細く、指が長く、美しい。が、何の装飾品もつけていない。爪も短く、手入れは行き届いているが、特別な手入れをしているわけでもない。ごく普通の、しかし整った手だ。

「でも……どこかで……」

彼女の声が、ほんの少し、迷いを含む。

「たくさんの人に……会ったような……気がする……」

「たくさんの人?」

「はい……」

彼女は、顔を上げ、私を見る。サングラス越しだが、その視線の強さを感じる。

「歌を……歌っていた……たくさんの人の前で……」

その言葉に、私の胸が、かすかに高鳴る。冷静に。落ち着け、と自分に言い聞かせる。

「それは、いつ頃のことですか? どこで?」

彼女は、首をかしげる。苦しそうに目を閉じる。

「……わからない……暗い……明るい……光が……たくさん……」

彼女は、そっと自分の胸に手を当てる。

「顔を……貸してもらった……たくさんの人から……」

今度は、はっきりと、言葉に力がこもる。もんろが告白の夜、私に語った言葉と、ほとんど同じだ。

「返さなきゃ……って……思っていた……」

彼女は、うつむく。肩が小さく震える。

「でも……返せたのか……どうか……それも……わからない……」

長い沈黙が流れる。診察室には、窓の外から聞こえる遠い車の音と、彼女の微かな呼吸音だけが響く。

私は、ゆっくりと口を開く。

「藍さん。あなたの状態を詳しく調べるため、そして、記憶の扉をほんの少し開けるために、深層催眠療法を提案したいのですが、いかがでしょう?」

彼女は、顔を上げる。サングラス越しに、私をじっと見つめる。

「催眠……?」

「はい。安全な方法です。あなたの潜在意識にアクセスし、閉ざされている記憶の断片を、無理のない範囲で引き出すお手伝いをします。もちろん、あなたが嫌だと感じたら、いつでも中断します」

彼女は、また長い間考え込む。指が、ひざの上で、かすかに動く。迷いがある。

そして、ゆっくりとうなずく。

「お願い……します」

声は、かすかだが、確かだ。

「私……知りたい……私は……誰なのか……」

「わかりました。では、少し準備をしますので、しばらくこちらでお待ちください。リラックスして、ゆっくり呼吸を整えていてください」

私は、立ち上がり、彼女にウォーターサーバーの水をコップに入れて渡す。彼女は、「ありがとうございます」と小声で言い、マスクの下からこっそりと一口飲む。その仕草も、無意識に優雅だ。

私は、診察室を出て、隣の準備室へ入る。ドアを閉め、携帯電話を取り出す。結衣に電話をかける。

すぐに出る。

『尚さん、どうですか?』

「彼女はここにいる。確かに、声はもんろに似ている。そして、彼女の話す内容……『顔を借りた』『返さなきゃ』……もんろの核心的な記憶と一致する」

結衣の息づかいが速くなる。

『やっぱり……!』

「だが、冷静に。結衣。彼女の詳しい状況を教えてくれ。どこで、どうやって発見された?」

結衣は、深く息を吸う。

『一週間前です。京都、伏見稲荷大社の、千本鳥居の入り口近くで、朝、清掃員の人が発見しました。地面に倒れていて、意識はもうろうとしていたそうです』

「傷は?」

『外傷はほとんどありませんでした。少し擦り傷がある程度。服もきれいでした。が、身分証明書も、お財布も、携帯電話も、何も持っていませんでした。病院で検査を受けましたが、身体的な異常は見つかりません。脳のCTでも、明らかな損傷や病変はない。ただ、記憶が……完全に空白なんです』

「なぜ、彼女がもんろの歌を口ずさんでいる、と?」

『発見した清掃員の人が、救急車を呼んでいる間、彼女が、かすかに歌を口ずさんでいるのを聞いたそうです。その歌が、もんろさんの『心做し』の一節だった。清掃員の人は、もんろさんの大ファンで、すぐに気づいたそうです』

私は、眉をひそめる。偶然かもしれない。『心做し』は、もんろの代表曲だ。多くの人が知っている。

「彼女の顔は? マスクとサングラスで隠しているが……」

結衣の声が沈む。

『病院で記録した写真を、こっそり見せてもらいました。尚さん……彼女の顔は、もんろさんとは、全然違います』

その言葉に、どこかでほっとする自分と、同時に、かすかな失望を感じる自分がいる。複雑だ。

『可愛いと言えば可愛い、普通と言えば普通の、日本のどこにでもいそうな女の子の顔です。もんろさんのあの……光のモザイクの顔とは、似ても似つきません』

「わかった。とにかく、彼女を預かろう。ここで、ゆっくりと、記憶の回復を試みる。転生かどうか……そんなことは、彼女自身が、自分の記憶を取り戻してから決めることだ」

『……はい。お願いします、尚さん。もし、ほんの少しでも、もんろさんとの関連があるのなら……』

「わかっている。慎重に進める」

電話を切る。私は、もう一度深呼吸をする。心を落ち着ける。専門家として、患者として、彼女と向き合わなければならない。


診察室に戻る。 藍は、まだソファに座り、背筋を伸ばしたまま、窓の外を見つめていた。私が入ると、ゆっくりと振り向く。

私のデスクの端には、小さなフォトフレームがある。中には、もんろの、あの伝説的なコンサートの最後の瞬間──空白の顔に微笑みの輪郭が浮かび、彼女が光の粒へと崩れ始める一瞬のスクリーンショットだ。これは、多くの人々が持つ、もんろの“聖像”の一つだ。

藍の視線が、その写真に、自然と向かっているのに気づく。彼女は、じっと、その写真を見つめている。マスクとサングラスで表情は読めない。が、その姿勢の緊張から、何かを感じ取っているのは明らかだ。

私は、そっと声をかける。

「藍さん、準備はよろしいですか?」

彼女は、はっとしたように、私の方を見る。そして、かすかにうなずく。

「はい……」

その時、彼女が、ほんのつぶやくように、口ずさむ。声は、ほとんど息づかいだ。

『……さようなら……そして……はじめまして……』

それは、もんろの最後の言葉の一部だ。そして、彼女が口ずさんだその音程、ビブラートのかかり方、息継ぎのタイミングが、もんろの歌い方に、驚くほど似ている。いや、似ているというレベルではない。同じだ。あのもんろ特有の、かすかな“泣き”を含んだ響きまで。

だが、声質そのものは、もんろとは違う。もっと細く、若い。これは、模倣では出せない、骨の髄から染み出るような、本質的な“歌い方”の一致だ。

私は、動揺を押し殺す。冷静に。プロとして。

「では、そちらに横になってください。楽な姿勢で。目を閉じて、ゆっくりと呼吸を整えていきましょう」

藍は、ソファに横たわる。まだ緊張している。手が、微かに震えている。

私は、穏やかな声で、誘導を始める。深呼吸を促し、体の力を抜くよう導く。彼女は、素直に従う。呼吸が、次第に深く、穏やかになる。

だが、その手の震えは、止まらない。それは、恐怖からではなく、何か深いところで共鳴する、本能的な震えのように見える。

催眠を深めていく前に、私は、そっと彼女に言う。

「大丈夫です。あなたは安全です。何か怖いことがあれば、すぐに目を覚ませます。私はここにいます」

彼女は、かすかにうなずく。マスクの下で、唇を噛みしめているのかもしれない。

私は、時計を見る。午後四時。外はまだ明るいが、診察室は薄暗くしている。今日、今から、深層催眠に入るべきか。彼女の状態を見ると、もう少し準備期間を置いた方がいいかもしれない。

「藍さん、今日はここまでにしましょう。催眠は、もう少しあなたが落ち着いてから、改めて行います。まずは、ここで少し休んでください。そして、今夜から、ここに滞在してもらいます。隣にゲストルームを準備しています」

彼女は、目を開ける。サングラス越しに、私を見つめる。

「ここに……?」

「ええ。あなたには行く場所がないでしょう? そして、記憶を取り戻す過程では、安心できる環境が大切です。ここは安全です」

彼女は、長い間考える。そして、小さくうなずいた。

「……お願い……します」

その夜、深層催眠を行うことにした。彼女の状態を見ていると、記憶の蓋が今にも開きそうな、危うい均衡にあるように感じた。専門家として、そのプロセスを管理下に置く必要がある。

彼女にそのことを伝えると、彼女は、また深くうなずく。が、ひざの上に置いた手の震えは、少し強くなっていた。

恐怖ではない。予感に近い震えだ。何か大きなものに出会おうとしている、深いところでの覚悟の震え。

夜の診察室は、ほの暗い。私は、記録装置をセットし、彼女に横たわってもらう。催眠誘導を始める準備が整う。

藍は、ベッドに横たわり、目を閉じている。呼吸は整っているが、手の震えはまだ続いている。

彼女の記憶の奥底に、何が眠っているのか。もんろの残響か、それとも、全く別の物語か。

私は、静かに、誘導の言葉を紡ぎ始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ