色彩のある日常
もんろが消えてから、三年が経った。
東京の、閑静な住宅街にあるマンションの一室。朝の光が、白いレースのカーテンを透かして、床に柔らかな影を落としている。午前六時。私は自然に目を覚ました。
窓の外は、澄み切った青空。雲一つない。太陽の光は、単に明るいだけでなく、どこか温かみのある金色を帯びている。もんろ色の朝焼けは過ぎ去り、普通の──いや、「普通」という言葉ももう適さない。色彩を取り戻した世界の、当たり前の朝だ。
ベッドから起き上がり、バスルームへ。鏡に映る自分の顔を見つめる。四十五歳。髪には白髪が目立ち始め、目尩には深い皺が刻まれている。もんろに出会う前より、確かに老けた。だが、目の中には、以前のような疲れ切った虚無はない。深い静けさと、かすかな、しかし確かな穏やかさが浮かんでいる。
妻のことを思っても、もう胸が締め付けられるような痛みはない。彼女の最期の笑顔──もんろが最後に届けてくれた、あの自由で美しい笑顔を思い出す。彼女は苦しまず、飛び立った。それを受け入れられた。
もんろのことを思っても、激しい喪失感に襲われることは少なくなった。彼女の声、彼女の笑顔、彼女の最後の言葉は、私の記憶の中で、深く静かな礎となっていた。痛みはある。が、それは、失ったことを嘆く痛みではなく、彼女が存在したこと、そして彼女が成し遂げたことの大きさを思う、畏敬に近い感覚だ。
朝食は簡素だ。味噌汁、ご飯、焼き魚。だが、食器にはこだわっている。淡い水色の丼、うす緑の小皿、桜色の箸置き。色彩が戻った今、多くの人が派手な原色を好む中、私はあえてこれらの柔らかく、落ち着いた色合いを選んでいる。もんろが返してくれた色は、派手さや刺激ではない。記憶と結びついた、優しい彩りだ。私は、彼女の贈り物を、そういう形で日々の生活に取り入れようとしている。
「いただきます」
一人でつぶやき、箸を取る。味噌汁の出汁のきいた琥珀色、ご飯のつややかな白、焼き魚のこんがりとした焦げ目。それらを、ただ栄養としてではなく、視覚的な恵みとしても味わう。色は、味覚を豊かにする。もんろがあのイチゴを味わったように。
午前八時。私は、マンションから徒歩十分ほどの場所にある、小さな一軒家を改装した『診療所』へと向かう。
看板は控えめだ。『顔貌記憶修復所 尚羅夢』とだけある。色は使わず、黒地に白文字。派手さを嫌う人にも、安心して訪れてもらうためだ。
道すがら、色あふれる世界を観察する。
通学途中の小学生たちのグループが、賑やかに話している。
「ねえ、この赤、苺みたいじゃない?」
「違うよ、もっとトマトの赤!」
「先生が言ってたよ、『赤』っても、百通り以上あるんだって」
子どもたちは、色彩教育の一環として、日常の中の色を細かく認識し、表現することを学んでいる。もんろの帰還後、美術や色彩心理学の重要性が見直され、教育カリキュラムに大きく組み込まれた。
公園のベンチでは、白髪の老夫婦が、満開の桜を見つめている。
「ほら、あの桜……もんろ色に、ちょっと似てるね」
「うん。でも、もんろ色は、もっと透明で、悲しげな色だったなあ」
「そうだね。この桜は、ただ、きれいだね」
老人は、奥さんの手をそっと握りながら、ほほえむ。彼らは、戦争や高度経済成長、バブル崩壊、そしてCPDSの時代を生き抜いた世代だ。色を失い、取り戻した。その重みを、深く理解している。
駅前の電柱には、シンプルなポスターが貼られている。
『3月15日は、顔を借りる日。あなたの大切な人の顔を、思い出してみませんか。』
もんろが完全に帰還を果たした日。今では『借面の日』と呼ばれ、人々が大切な人の写真を見つめたり、思い出を語り合ったりする、静かな記念日となっている。祭りではない。内省の日だ。
しかし、世界が完璧になったわけではない。
信号待ちで、ふらつくように立つ中年男性を見かける。彼は、目を細め、周りの看板や車の色を苦しそうに見つめている。色彩過敏だ。長年灰色の世界に適応した脳が、急な色彩の洪水に耐えきれず、眩暈や頭痛を訴える人は少なくない。新しい病だ。
歩きながらスマートフォンに没頭する十代の少女。画面には、極彩色のバーチャル空間が広がっている。色彩依存。現実の色では物足りず、より強烈な人工的色彩を求める人々。中には、ドラッグのように色彩そのものを追い求める「色彩ジャンキー」も現れた。
向かいのビルから、泣き叫ぶ声が聞こえる。もんろの帰還によって、あまりに重い記憶を突きつけられ、精神の均衡を崩してしまった人もいる。記憶トラウマ。もんろは優しく返した。だが、受け取る側のキャパシティには限界があった。
色は、祝福であると同時に、新たな課題でもある。私は、その課題と向き合う人々の、ほんの小さな手助けをしているに過ぎない。
診療所に到着する。既に、二人の患者が、外のベンチで待っている。
中は、白を基調とした、落ち着いた空間だ。ソファ、低いテーブル、そして、部屋の一角には、小さなイチゴの鉢植えが置いてある。緑の葉は茂っているが、三年間、一度も実をつけたことはない。訪れる患者から、時折「なぜ実がならないんですか?」と尋ねられる。私は、決まってこう答える。
「誰かを、待ってるんです。食べに来てくれる人を」
午前の最初の患者は、高校一年生の少女、遠藤雫 だ。彼女は、一年前から学校でいじめに遭い、次第に自分の顔が認識できなくなった。鏡を見ても、「醜い」「気持ち悪い」という他者からの言葉が脳裏に響き、本当の自分の顔が見えない。CPDSの名残、あるいは新たな心理的症候群だ。
彼女は、うつむき、髪の毛で顔を隠している。声はかすかだ。
「……私……顔……嫌い……です……」
「鏡は見ないでいいですよ」
私は、彼女の前に、無地のスケッチブックと、色とりどりの色鉛筆を置く。
「好きな色はありますか?」
少女は、少し驚いたように顔を上げる。私を見るが、すぐに視線をそらす。
「……色……?」
「ええ。何でも。空の色、花の色、食べ物の色」
彼女は、長い間考え込む。そして、かすかに口を開く。
「……雨上がりの……空の……薄い青……」
その言葉に、ほんのりとした温かみがある。
「いい色ですね。その色が、なぜ好きなんですか?」
「……静かで……優しい……感じがするから……」
私は、うなずく。
「では、その薄い青の色鉛筆を使って、何か描いてみませんか? 形は何でもいい。ただ、その色で、紙の上を自由に動かしてみるだけで」
雫は、ためらいながらも、薄い水色の色鉛筆を手に取る。そして、白い紙の上に、そっと、ゆっくりと線を引き始める。最初はぎこちない。が、次第に、線が円を描き、波打ち、うねる。無意識の動きだ。
「その色の目をした人がいたら、どんな人だと思いますか?」
私は、静かに尋ねる。
少女の手が、一瞬止まる。そして、かすかに震える声で答える。
「……優しい……人……強い……人……」
彼女は、顔を上げない。が、声には、ほのかな憧れが込められている。
「……もんろ……さん……みたいな……」
その言葉に、私は胸が温かくなる。
「そうですね。もんろさんは、確かに優しくて、強い人でした。そして、彼女の目も、深く澄んだ、美しい色をしていました」
私は、少し間を置く。
「もしかしたら、雫さんにも、そんな目があるかもしれませんね」
少女は、はっとしたように、自分の描いた薄い青の線を見つめる。そして、ゆっくりと、スケッチブックの新しいページを開く。今度は、その薄い青で、顔の輪郭を描き始める。目、鼻、口。詳細ではない。優しい曲線だけだ。
そして、その輪郭の中に、薄い青色の目を描き込む。その目は、どこか哀しげだが、優しく、どこか希望に満ちている。
描き終えると、彼女は、その絵をじっと見つめる。長い間。
「……これ……が……私……?」
声は、かすかに震えている。が、以前の自己嫌悪とは違う。驚きと、ほのかな発見の響きだ。
「どう思いますか?」
「……わか……ない……けど……」
彼女は、ゆっくりと顔を上げる。今度は、しっかりと私の目を見る。初めてだ。
「……ちょっと……きれい……かも……」
その言葉に、彼女自身が驚いたように、目を見開く。そして、かすかに、ほんのりと頬が赤らむ。
セッションの終わり、彼女が帰る時、玄関で振り返り、かすかにうなずいた。
「先生……あなたの目……優しい色……ですね」
私は、驚き、そして深くうなずいた。
「ありがとう。君の目も、きれいな薄い青色だよ。自分でも、いつか見られる日がくるだろう」
彼女は、かすかに微笑み、去っていった。その背中は、少しだけ、以前より軽やかに見えた。
午後の診察を全て終え、少し遅い昼休み。
私は、診療所の小さなキッチンで、簡単なサンドイッチを作り、コーヒーを淹れる。そして、スピーカーから、かすかな音楽を流す。
もんろの歌だ。だが、あの伝説的なコンサートのものではない。彼女がまだ無名だった頃、小さなスタジオで録音した、古いカバー曲。音質は良くない。彼女の声も、まだ完璧なコントロールができておらず、時折音程が外れる。が、その生々しさ、無垢な情感が、私は好きだ。
目を閉じる。彼女の顔が浮かぶ。万華鏡のように変化する、光のモザイク。最後の、空白の微笑み。そして、あのテープに隠されていた、幼い輪郭。
『必ず、あなたに、会いに行きます』
あの約束を、私は信じている。いや、信じたいというより、信じることを選んでいる。彼女がほんのわずかでも残ったのなら、いつか、どこかで。その日を、心のどこかで、静かに待っている。
コーヒーの湯気がゆらゆらと揺れる。イチゴの鉢の葉が、窓からの風にそっと触れる。
その時、私の携帯電話が震えた。画面には、結衣の名前。
「もしもし」
『尚さん、お邪魔でしょうか?』
「いや、ちょうど休憩中だ。どうした?」
結衣の声は、少し興奮しているように聞こえる。
『実は、今日、ちょっと気になる人が、診療所に行くかもしれません』
「患者さんか?」
『いえ、正確には……私の知り合いです。正確に言うと、知り合いの……知り合い』
結衣は、言葉を選んでいる。
『その人は……記憶を失っています。いや、『失っている』というより……『持っていない』という方が正しいかもしれません』
私は、眉をひそめる。
「どういうことだ?」
『詳しいことは、本人に会ってからの方がいいと思います。彼女は、もんろ様の事件の後、ある施設で保護されたんです。身元不明で、一切の記憶がありません。名前も、年齢も、どこから来たのかも。ただ……』
結衣の声が、かすかに震える。
『……彼女の声が、もんろ様に、ほんの少しだけ……いや、かなり似ているんです。そして、色に対して、異常なまでに敏感で……』
私は、息をのむ。心臓の鼓動が速くなる。
「結衣、それは……」
『わかっています。でも、尚さん、期待しすぎないでください。声が似ている人はいます。色彩過敏の人もたくさんいます。彼女は、たぶん、ただの……』
結衣の言葉が途中で止まる。彼女も、内心では期待しているのだ。否定しようとしても、どこかで願っている。
『とにかく、もし彼女が行ったら、よろしくお願いします。彼女の名前は……保護施設で仮につけられたのですが、『藍』です。十五歳くらいに見えます』
電話を切る。私は、しばらく、受話器を握ったまま、窓の外を見つめる。
午後の陽射しが、街路樹の新緑をきらきらと輝かせている。子どもたちの笑い声が、遠くから聞こえる。
心の中で、静かな波が立つ。期待と、警戒。希望と、現実。
私は、そっと立ち上がり、イチゴの鉢のそばに行く。緑の葉を、そっとなでる。
「待ってるよ」
声に出して言う。
「いつでも。ゆっくりでいいから」
ドアのチャイムが鳴った。
午後の診察の時間だ。私は、深呼吸を一つして、診察室へと向かった。




