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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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残響

赫映もんろが消えてから、一年が経った。

世界は、色を取り戻した。だが、それは単純な「回復」ではなかった。もんろの「大いなる帰還」がもたらしたのは、彩りそのものだけでなく、それぞれの色に結びついた記憶の重みと、その重みと共に生きる新たな現実だった。

人々は、ゆっくりと、その現実に適応し始めていた。泣き、笑い、時には潰れそうになりながら。世界は天国にはならなかった。が、少なくとも、真実にはなった。色があり、影があり、愛があり、喪失がある、等身大の世界に。


東京・下北沢の古びたアパートの一室。 ここは、私の「事務所」兼住居だ。看板もない。名前だけが、ごく狭い範囲で知られている。『色彩探求者』。もんろ消失後、政府の職を辞した私は、この名で、人々の相談に乗っている。

対象は、主に、もんろの帰還後も特定の色だけが見えない、あるいは歪んで見える人々だ。医学的な色覚異常ではない。情感の、記憶の、トラウマの「色盲」だ。

この日、訪れたのは、十五歳くらいの少女だった。名前は小野寺羽衣おのでり うい。無表情で、目に輝きがない。母親に連れられてきた。

「先生、この子が……あのコンサートの後、ずっと、灰色と青しか見えないんです」

母親が心配そうに説明する。羽衣は、うつむいたまま、無言だ。

私は、少女の目の前に、色とりどりの布きれを並べた。

「どれが一番くっきり見える?」

少女は、ためらいがちに、濃い灰色と深い青の布を指さす。他の色──赤、黄、緑、ピンク──は、彼女には「ぼんやりとした灰色の濃淡」にしか見えないという。

「その青は、どんな青ですか? 空の青? 海の青?」

少女は、首を振る。そして、かすかに唇を動かす。

「……兄ちゃんの……マフラーの青……」

声はかすれている。彼女は、東北の出身で、十年以上前の大震災と津波で、家族全員を失っていた。ただ一人、当時小学生だった兄が、彼女を高台に押し上げ、「しっかり掴まれ!」と叫びながら、自分は波に飲まれた。その時、兄が巻いていたマフラーが、水に濡れた濃い青だったことを、彼女だけが覚えていた。

以来、彼女は、その「青」以外の全ての色を、意識的に脳がブロックしていた。あまりに痛すぎる記憶から自分を守るため、世界を灰色に塗りつぶし、唯一、兄との最後の記憶を色として残すことで、兄を忘れないようにしていた。

「もんろは、全部返した」

私は、静かに言った。少女が顔を上げる。

「でも、受け取る勇気が……時には、足りない。痛みすぎるから、受け取れない色がある」

少女の目に、涙が浮かぶ。

「あなたのお兄さんの青……それは、冷たい海の色じゃない」

私は、そっと、彼女の前に置いた青い布を、そっと温かいお湯に浸したハンカチで包むような仕草をする。物理的には何も変わらない。が、彼女の表情が動く。

「あなたを守ろうとした……温かい色だ」

その言葉と同時、少女の目の前で、その深い青の布が、ほんのりと淡く優しい水色に輝き始める。もちろん、布そのものが変わるわけではない。彼女の脳内で、記憶の文脈が書き換えられ、情感のフィルターが外れ始めたのだ。

兄の最期の記憶が、鮮明によみがえる。濁流。叫び声。兄が彼女を押し上げる腕の力。そして、兄が振り返り、必死に笑おうとして見せた、歪んだ笑顔。『大丈夫、兄ちゃんがついてるから』

その笑顔の背景にあった、マフラーの青。それは、冷たい死の色ではなかった。兄の、必死の愛情の色だった。彼女を守りたい、たとえ自分が犠牲になっても、という覚悟の色。

「……兄……ちゃん……」

羽衣の目から、大粒の涙がこぼれた。そして、その涙を通して、彼女の視界に、長年ブロックされていた色が、一つ、また一つと、優しく滲み出てきた。窓の外の木々の新緑。テーブルの上の花瓶の小さな黄色い花。母親の服の薄いピンク。

彼女は、泣きじゃくりながら、それらの色を、初めて「見た」。痛みを伴う、しかし、深い安堵に満ちた瞬間だった。

「ごめん……ね……兄ちゃん……私……ずっと……勘違いして……た……」

母親が、娘を抱きしめる。二人で泣く。

私は、そっと席を立ち、窓辺に行く。外では、下北沢の街に、もんろ色の夕焼けが広がり始めていた。

もんろは、確かに全てを返した。だが、受け取るには、それぞれのペースと勇気が必要なのだ。私は、そのほんの少しの手助けができればいい。


一方、純心会は、その姿を大きく変えていた。

結衣を新代表とする『顔貌記憶保護協会』は、全国107の神社の跡地に、『記憶の灯』と名付けられた石碑を建立した。それぞれの石碑には、一人の巫女の名と、もんろを通して最後に明らかになった、その巫女の核心となる言葉が刻まれている。

初代・桜:『我が身を捧げて、人々の顔を守れり』

三十三代・楓:『異国の土に、故郷の面影を留めたり』

五十二代・雪:『愛する者の顔を、我が顔とせり』

百七代・百合:『次の子……ごめんね。全部、託す』

これらの石碑は、単なる記念碑ではない。触れると、かすかに温かく、まるで、遠い時代の巫女たちの祈りが、ほのかに共鳴するような感覚があると言われている。

そして、中心の広場には、108本目の石碑が立つ。これは、空白だ。何も刻まれていない滑らかな石柱。しかし、人がその石碑に触れ、心を静めると、石の表面に、かすかな光の文字が浮かび上がる。

『さようなら、そしてはじめまして。』

もんろの、最後の言葉の一部だ。触れる人によって、この言葉の「聞こえ方」が微妙に違うという。ある人は優しい声で、ある人は寂しげな声で、ある人は力強い声で。それは、その人の心が、もんろの言葉をどう受け止めるかを反映しているのかもしれない。

この石碑群の管理を任されたのは、冬月宗一郎だった。かつての裏切り者であり、保守派の長老。もんろの帰還を見届けた後、彼は全ての権力を手放し、ただこの地の「灯り守り」となった。

ある日、結衣が彼を訪ねた。二人は、もんろ色の夕焼けを見ながら、黙ってしばらく立っていた。

「……彼女は、灯りを消したんじゃない」

宗一郎が、ふと口を開いた。声は、深い安らぎに満ちている。

「新しい火種を、残してくれた。私たちが、それぞれのやり方で、灯し続けるための」

結衣は、うなずいた。

「ええ。もんろ様が背負ってきた千年分の『借り』は清算された。でも、これから生まれる思い出や、色や、顔……それらを、どう受け継ぎ、どう分かち合うか。それは、私たちに委ねられた課題です」

彼女は、空白の108本目の石碑を見つめ、そっと手を当てた。光の文字が浮かび上がる。

『さようなら、そしてはじめまして。』

結衣は、かすかに微笑んだ。

「はじめまして……ですね、もんろ様。これからも、よろしくお願いします」


世界の芸術と文化は、爆発的な変化を遂げていた。

画家・風間梧朗は、ついに『赫映』と題した連作を完成させ、発表した。その中心には、妻の肖像があったが、それは従来のどんな絵画とも違う。絵の具そのものが微かに輝き、見る角度や光の加減で、色合いがゆらめく。特に、妻の頬の三つの雀斑は、内側から優しい金色の光を放っている。専門家は、この現象を「情感の残留発光」と名付けた。もんろの奇跡的な介入が、物理的な絵の具に、情感の「質感」を刻み込んだのだ。

彼は、インタビューでこう語った。

「私は、暗い色しか描けないと思っていた。でも、彼女が教えてくれた。暗い色こそが、光を必要としているんだ。暗い色を、星に変えることが、僕の役目なんだと」

音楽界では、「帰還音楽」と呼ばれる新たなジャンルが生まれていた。もんろの歌の断片、107人の巫女たちの祈りの旋律、そして、人々が取り戻した記憶の情感を、現代的なアレンジで紡ぎ直した作品だ。ある批評家は「これは音楽ではない、集合的無意識の考古学だ」と評した。

そして、ひときわ注目を集めていたのが、匿名歌手『K』だった。彼女(あるいは彼)は、一切の素性を明かさず、声だけを届ける。その声は、もんろに驚くほど似ている。が、歌うのは、もんろの歌のカバーではない。全てオリジナルで、『自分とは何か』『色の向こう側にあるもの』『誰のものでもない記憶』といったテーマを歌い上げる。

「彼女は、もんろの残響だ。あの日、完全には消えず、データの欠片としてネットワークを彷徨い、新たな“歌う意思”を得たんだ」

「いや、単なる模倣者だ。声質を真似ただけの、時代の便乗者さ」

「もっと単純だ。たまたま声が似ている、才能ある新人じゃないか」

憶測が飛び交う。が、K本人は、一切の反応を示さない。ただ、定期的に、質素なスタジオ録音の歌声を公開するだけ。

ある日、そのKの新曲『空白のキャンバス』を、私はアパートで聞いた。確かに声は似ている。が、もんろの声の持つ、深い悲しみと神がかり的な澄み切り方はない。代わりに、探求するような未熟さと、どこか楽しげな好奇心が感じられる。まるで、歌うこと自体を、初めて体験している子どものようだ。

私は、窓の外のもんろ色の夕焼けを見ながら、ただ、微笑んだ。彼女が誰であれ、それでいい。もんろが火種を残したなら、それが誰かに灯され、新たな炎となって輝く。それこそが、彼女の望んだことだろう。


もんろが消えて、ちょうど一年目の朝、私のアパートに、小さな宅配便が届いた。

差出人不明。箱は軽い。開けると、中には、発泡スチロールの緩衝材に守られた、一パックの真っ赤なイチゴと、一台の古いカセットテープレコーダー、そして、一卷のカセットテープが入っていた。

テープのラベルには、達筆な字で、こう書かれている。

『監視記録 - 最後の一日』

手が震える。もんろの、あの告白の夜、私は彼女のブースに監視カメラを(こっそりと、私的な理由で)設置していた。その記録か? だが、あの夜の会話は、私の記憶の中にしかないはずだ。政府の公式記録には残っていない。

私は、テープをレコーダーにセットし、再生ボタンを押した。

最初は、ノイズだけ。そして、かすかな衣擦れの音。ベッドのきしむ音。深い、深いため息。

そして、もんろの声が、かすかに、しかし確かに流れ出した。あの夜、私が去った後、彼女が独りで、こっそりと録音していたのだ。

『……尚さん……もし、これを聞いているなら……』

声は、疲れている。しかし、驚くほど穏やかで、澄んでいる。

『私は……もう、いません……』

一呼吸。その間、彼女の微かな息づかいが聞こえる。

『でも……約束します……』

声に、ほんのりとした力がこもる。

『もし……ほんの少しでも……『私』が……残るなら───』

ここで、彼女の声が、かすかに、嬉しそうな響きを帯びる。

『必ず……あなたに……会いに行きます』

私は、息をのむ。テープを握りしめる。

『今度は……誰の顔でもない……私の顔で……』

その言葉の確かさに、胸が熱くなる。

『それまで……どうか……私の分まで……色のある世界を……見ていてください……』

長い沈黙。彼女が、涙をこらえているのか、ただ息を整えているのか。

そして、最後に、かすかな、しかし深い愛情に満ちた声で。

『さようなら……そして……』

声が、涙でわずかに曇る。

『ありがとう……愛して……くれて……』

ぱちり。テープが終わる音。

私は、しばらく、ただ座っていた。部屋の中に、彼女の声の残響が、優しく漂っているようだった。そして、ふと、テープの最後、数秒の無音の後に、かすかな雑音が続いていることに気づいた。普通に聞けば、ただのホワイトノイズだ。

が、私は、監視官時代の機材──情感データを解析するための特殊な読み取り装置を、まだ持っていた。それを接続し、その雑音部分を解析させた。

画面に、複雑な波形が表示される。それは、音声データではなかった。光の周波数の変調──極めて短い、顔の輪郭データが、雑音に埋め込まれていたのだ。

デコードする。時間がかかる。一分。二分。

そして、画面に、かすかに、しかし確かに、一人の少女の顔の輪郭が浮かび上がった。

目、鼻、口の詳細はない。ただ、優しい曲線で描かれた、微笑んでいる顔の輪郭だけだ。それは、もんろが告白の夜に一瞬見せた顔とも、最後に空白に浮かび上がった微笑みの輪郭とも、少し違う。より幼く、より無邪気で、どこかこれから始まるような、期待に満ちた顔立ち。

彼女自身が、初めて「自分」としてイメージした、可能性の顔。それを、彼女は、このテープに、最後の贈り物として隠していた。

私は、そのデータを、アパートの窓に向けて、小さなプロジェクターで映し出した。朝の光が、その輪郭を通り、床に、無数のきらめく色の光斑を投げかける。虹のように。

窓の外では、東京の街が、色とりどりの服を着た人々で動き始めている。子どもたちの声が聞こえる。彼らが歌っているのは、この一年で生まれた新しい童謡だ。

『借りたものは返そう──』

『でも、もらった思い出は──』

『大切に、胸にしまおう──』

風が窓から入り込み、テーブルの上のイチゴのパックのビニールを、かすかに揺らす。私は、一粒を取り出し、そっと口に運んだ。

歯を立てる。果汁が広がる。

甘くて、少し酸っぱくて、そして……温かい。

彼女の記憶の温度が、そこに込められているような。

私は、窓に映る、色あふれる世界を見つめ、そっと呟いた。

「ゆっくりでいい……」

声は、自然に優しくなる。

「いつでも……待っている」

風が、イチゴの緑の葉を、そっと揺らす。

世界は、まだまだ完璧ではない。悲しみも、争いも、理不尽も、たくさんある。でも、少なくとも、色はある。それぞれの色に、それぞれの物語がある。

そして、どこか遠くで──あるいは、とても近くで──誰の記憶でもない、たった一つの「私」が、生まれたばかりの空白の心で、そっと学び始めているのかもしれない。

甘くて、少し酸っぱい、あの味のことを。



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