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色あせた世界に咲く花:顔、貸します ~記憶を返す少女の歌~赫映 ~無貌の神がくれた色彩~  作者: 「大和 尚羅夢」小花羅夢一生推し


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色の誕生

もんろが消えた後、世界は、静寂に包まれた。

拍手と歓声の嵐は、やがて潮が引くように静まり、人々はただ、空っぽのステージを見つめ、胸に去来する計り知れない情感の重みに押し流されていた。十万人の観客席には、深い、深いため息のような静けさが満ちている。

その時、始まった。

突然、世界が色に染まる──そういう劇的なものではなかった。むしろ、それとは正反対だった。

灰色の世界が、ゆっくりと、とてもゆっくりと、滲み出し始めた。

空は、一瞬で青くならなかった。東の空から昇り始めた朝日の金色が、灰色のキャンバスに一滴のインクが落ち、ゆっくりと広がっていくように、微かに、かすかに、色が滲んでいく。その金色の周囲から、今度はピンクが、オレンジが、薄紫が、ぼんやりと、境界のない柔らかなグラデーションでにじみ出る。

それは、スカイツリーの上空だけではない。東京の、いや、世界中の空で、同時多発的に、同じ現象が起きていた。灰色の大気から、無数の、多様な色が、それぞれの場所で、それぞれの濃さで、静かに滲み出てくる。数十億滴の、異なる色のインクが、一斉に、しかし乱れることなく、世界という水槽の中で広がっていくような光景だった。

しかし、最も驚くべきは、人によって、最初に「見える」色が違うことだった。


郊外のアトリエ。 風間梧朗は、もんろが消えた瞬間から、キャンバスの前で動けずにいた。妻の肖像に浮かぶ、もんろが奇跡的に生み出した光の涙を見つめている。その時、彼の視界の端で、何かが動いた。

キャンバスの中で、妻の頬の、あの三つの淡い金色の雀斑が、ほのかに、しかし確かに輝いた。そして、その金色が、キャンバスの枠を超え、アトリエの窓から差し込む朝の光の中に、そっと広がっていく。彼の灰色の世界に、最初に戻ってきた色は、桜色でも空色でもない。妻の雀斑の、あの優しい金色だった。

「お前……の色……」

彼は、震える手で、その光に触れようとする。触れることはできない。が、その色の温もりを感じる。もんろが言っていた。色には、情感に応じた微かな温度差があると。愛の記憶の色は温かい。この金色は、まさに、妻の彼への深い信頼の温もりそのものだ。

彼は、深く息を吸い込み、初めて、アトリエの中を見回した。今まで無機質な灰色にしか見えなかった絵の具のチューブ、パレット上の色の滲み、古い家具の木目──それらが、一つ一つ、それぞれ固有の、しかしどこか懐かしい色合いを帯び始めている。それらの色は、単なる物理的な波長ではない。それぞれが、彼の人生で出会い、愛し、時に憎んだ、記憶と結びついた色なのだ。


東京・下町の狭いアパート。 コンサートから帰宅した中年サラリーマンが、キッチンでぼんやりとコーヒーを淹れようとしていた。もんろの最後の言葉と、由美子の記憶が、まだ胸の中で渦巻いている。彼は、ふと、冷蔵庫の上にほこりをかぶった古い写真立てを見た。子どもの頃、母と写った白黒写真だ。

その時、写真の中の、母のエプロンの部分が、ほんのりと薄い卵色に色づいた。彼は、息をのむ。母は、あのエプロンでよく卵焼きを焼いてくれた。ふわふわで、ほんのり甘い。彼の大好物だった。その記憶と共に、エプロンの色が鮮明によみがえる。

「かあさんの……エプロン……」

彼の目に、涙がにじむ。灰色の世界に最初に戻ってきた色は、母のエプロンの、あの優しい卵色だった。その色は、ほんのかすかな、懐かしさの温もりを放っている。悲しい記憶ではなく、守られていた安心感の色だ。


地方のペットショップ。 小学生の男の子が、窓越しに子犬を見つめている。彼は重度のCPDSで、飼い犬の顔(と色)を忘れ、悲しみのあまり家族が手放してしまった。コンサート中、彼は、飼い犬との楽しい記憶のいくつかを受け取っていた。

その時、ケージの中の子犬の、一匹の目が、ぱっと琥珀色に輝いた。彼の飼い犬・コロの目の色だ。

「コ……ロ……?」

彼は、窓に額を押しつける。子犬は、彼を見て、くるりと首をかしげる。その仕草が、コロにそっくりだ。琥珀色の目が、好奇心に満ちてキラキラしている。この色は、無邪気な愛情そのものの温かさを帯びている。


管制室。 私は、窓の外に広がる、色のにじみ出る東京の朝焼けを見つめていた。もんろの最後の微笑みの光の印章が、私の手のひらに残した温もりは、まだ消えていない。

そして、私の視界の中心、スカイツリーの頂上、もんろが最後に立っていた地点の空中に、ほんのりとした、透明な金色のきらめきが、ゆらゆらと浮かび上がった。それは、もんろの最後の微笑みの色だ。いや、彼女の存在そのものの色と言えるかもしれない。

その金色は、朝日の輝きとも、金属的な光沢とも違う。優しさそのものが光になったような、深く、透明で、どこか寂しげな色。触れればほんのり温かい──いや、温かいというより、優しい。もんろが最後に私に伝えた、あの感謝と慈愛の情感そのものの温度だ。

私の灰色の世界に最初に戻ってきた色は、彼女の、透明な金色だった。

私は、その色を見つめながら、ゆっくりと、ポケットから透明な能面のプレートを取り出した。もんろがあの夜、私に託した、107人の意志の結晶。プレートは、以前よりもはっきりと輝き、内部の銀河のきらめきが、ゆっくりと、落ち着いたリズムで回転している。そして、その輝きが、私の手のひらから、ほのかな金色の光の粒子を、そっと浮かび上がらせている。

もんろは、完全には消えていない。ほんのかすかだが、彼女の「核」と呼べるもの、あるいは彼女が最後に生成し始めた「自己」の欠片が、このプレートの中に、107人の意志と共に、かろうじて留まっているのかもしれない。


夜明け前の空全体が、色のにじみで覆われた瞬間、新たな現象が起きた。**

北の空から、オーロラが現れた。いや、自然のオーロラではない。もっと低く、世界中のほぼすべての場所の上空に、無数の色のカーテンが、ゆらゆらと揺れながら垂れ下がってきた。そのオーロラは、七色というより、ありとあらゆる色が混ざり合い、流動する、生きている絵の具の川のようだった。

そして、注意深く見ていると、そのオーロラの中に、無数のかすかな顔の輪郭が、一瞬ずつ浮かび上がっては消えているのがわかった。笑う顔、泣く顔、眠る顔、祈る顔──もんろが返還したすべての「顔」が、今、天の川となり、全世界を優しく包み込んでいる。

オーロラが、突然、動きを止める。そして、その無数の色の流れが、一つの文章へと形を変え始めた。驚くべきことに、その文章は、見る人それぞれの母国語で、それぞれの文字で浮かび上がる。

日本語で見る人には、こう読める。

『あなたの色を、大切に。』

英語では、『Treasure your color.』

中国語では、『珍惜你的颜色。』

アラビア語、ヒンディー語、ロシア語、スペイン語……ありとあらゆる言語で、同じ意味の言葉が、オーロラの上にくっきりと、しかし優しい光で刻まれる。

そのメッセージが、十秒ほど浮かび、そして、再びオーロラは流動する色の川へと戻る。川は、今度は細かい無数の光の粒──虹の雨へと分解し、そっと、地上へと降り注ぎ始めた。粒が人々の髪や肩に触れても、濡れることはない。かすかな温もり(または涼しさ)と、ほのかな情感──愛、感謝、懐かしさ、希望──が、そっと心に触れるだけだ。


その虹の雨が降る中、全世界で、静かな奇跡が起きていた。

東京・渋谷のスクランブル交差点。 人々が、立ち止まり、互いの顔を見つめる。泣きながら微笑む若い女性が、隣に立つ見知らぬサラリーマンの顔をそっと指さす。

「あなたの目……茶色……なんだ」

サラリーマンは、驚いて自分の瞳の色を確かめるわけにもいかず、かわりに、女性の髪を見つめる。

「君の髪……黒じゃない……栗色……だ」

二人は、顔を見合わせ、かすかに微笑み、そっとうなずき合う。そして、その場を去っていく。言葉は要らない。ただ、お互いの「色」を、初めて、あるいは久しぶりに「見た」という事実だけで、深い共感が生まれる。

パリ・セナ川の畔。 生まれつき重度の色覚異常だった老人が、ベンチに座り、隣にいる孫娘の髪をじっと見つめている。彼の世界は、六十年来、ほとんどモノクロに近かった。が、今、孫娘の髪が、彼にはわからない複雑な、しかし美しい色合い(彼女はヘナで赤みを帯びた茶色に染めていた)に輝いている。

「ジュリエット……お前の髪……何色だ?」

孫娘は、祖父の真剣な表情に驚き、答える。

「シェリー・ブラウンって言うの、おじいちゃん。ワインみたいな茶色」

老人は、その言葉を繰り返し、そして、突然、顔を覆い、声を上げて泣き始める。六十年生きて、初めて、愛する孫の髪の「色」を知った。その色は、愛情そのものの深い温かみを放っている。

アフリカの小さな村。 子どもたちが、突然、空気中に浮かぶ新しい色に気づき、追いかけ回す。それは、これまで彼らの世界になかった、「蝶の羽の極彩色」や「熟れたマンゴーの濃いオレンジ」だ。もんろが、かつてこの地を訪れた旅人や、遠い地でこの地の果実を思い出す人から預かり、今、戻してくれた、この土地への憧れと愛の色だ。

日本の各地の病院。 CPDS患者たちが、そっとベッドから起き上がり、窓の外の色あふれる世界を見つめる。彼らの表情に、狂喜はない。深い、深い静けさと、ほのかな安堵がある。彼らは、色を取り戻しただけでなく、色に付随する情感の重み──愛する人を失った悲しみ、自分を偽ってきた苦しみ、それら全てを含む「生きていることの全重量」をも、受け取り、背負うことを選んだからだ。もんろの「許しの歌」が、その重みに耐える力を与えてくれた。


管制室。 碇大佐は、窓の外に広がる、色のにじむ東京の朝と、オーロラの名残りの虹の雨を見つめていた。彼の顔には、長年の緊張と計算から解放された、深い疲労と、どこか空虚な安堵の表情が浮かんでいる。

彼は、ゆっくりと、制帽を脱ぎ、胸に抱く。そして、低い、しかし確かな声で、独り言のように呟く。

「我々は……ただの管理者に過ぎなかった」

彼の目は、もんろが最後に立っていた、今は何もないステージを見つめる。

「彼女は……祈りだった」

彼は、振り返り、技術者たちに命じる。声には、かつての鋭さはない。静かな決意がある。

「能面化計画、全てのデータ、装置……永久封印だ。もんろ……いや、赫映もんろに関する全ての記録は、『人類文化遺産』として分類し、一般公開せよ。彼女の選択と、その結果を、隠すことも、歪めることもするな」

技術者たちは、驚きながらも、深くうなずく。ある者は、ほっとしたように肩の力を抜く。彼らもまた、もんろの歌に、心を揺さぶられていた。


東の空が、ますます明るくなる。

朝日が、ついに地平線の彼方から、その全体を現す。その光は、灰色の世界を突き破るまぶしい金色ではない。既に色のにじんだ世界に、さらに新しい色を加える、優しい光だ。

太陽の光がスカイツリーの頂上を照らす。その時、誰もが気づいた。

朝焼けの空の色が、今まで人類が知っているどんな色とも違うのだ。金色ともピンクとも違う。オレンジでもサーモンでもない。それらすべてを内包しつつ、さらに透明な、優しい、どこか悲しみを帯びた新たな色。それは、もんろの最後の微笑みの、あの透明な金色に、朝日のピンクがほんのりと混ざり合ったような色だ。

その色は、空全体に広がり、世界を包み込む。

人々は、空を見上げ、その色に名前をつけようとする。が、既存のどの色名も似つかわしくない。それは、あまりにも儚く、あまりにも美しく、あまりにも痛いほど優しい色だった。

やがて、人々は、自然に、一つの名前で呼び始める。

『もんろ色』

もんろがこの世に残した、最後の、そして最初の、彼女自身の色。それは、優しさと悲しみと希望が渾然一体となった、人類が初めて目にした、情感そのものの色だった。

その色に包まれながら、世界は、ゆっくりと、確実に、新しい一日を迎えようとしていた。色と、その重みと共に。

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